理由は、ある。
自分の感覚として、漫画の32pと言うのは当時、長すぎた。
投稿に関して、必ずしも規定通り、と言う訳では無いのだけど、それでも推奨がそれなら、そこに準拠せねばならない、が。
当時にしろ、採用された漫画家の話だって、採用されたそれは、32pなのに8ヶ月くらい費やした、なんて話があり。
先行きも見えないのに、そこまで出来るか?と言う時、当時の自分は出来なかった。
…とは言う物の、「虹色宝珠」と言う採用され50万円を得たゲームは、試行錯誤に5ヶ月くらいは費やしてる、のだけど。
そう言う物、ではある。この領域なら自分は、良くも悪くも”そこまで続ける事が出来た”訳だが。
当時にしろ、そう言う奴にしか、”要求”が無いのだ。
今だから言えるが、”創作”を仕事にするには「その壁を超えねばならない」訳だ。
どんな理由でも良いが、ともかく「それだけのコストに見合う”価値”を発生させる」事が出来ないと、そこまでは出来ない。
採用されなくても、採用されなかった作品を見て、「まあ良いか」が言えないと続かない。
結局、その辺が、無から有を生み出す、と言うスキルの基点ではあり。
理不尽なのは、当時も今も、この辺は全く「才能」その言葉で片づけられた事だが。
その「才能がある奴」は、無形の「要求」に応える事が出来る、訳だが。
多くが結局は性格、ではある。頼まれると断りにくいタイプ、それはまあ、”才能”が芽生えやすい。
この辺、バランスだ。自分を護れないのに他人を護れるか?と言う正論を前にしつつ、出来る範囲で、些細でも”そこ”にある物を、拾うか否か。
言葉は現実を超えない気はする。
なんのこっちゃ。
ともかく、そこに「仕事」があり、「出来る能力」があって、「要求」も有る時、そこに道が有って。
結局それが、或いは萌え絵師だったりしても、その仕事をする、事に価値が発生するなら、その人はそれを続ける訳だが。
しかし、感覚は起点かもしれない。
幾らそこに仕事があっても、自身がそこに価値を発生させられないなら、その仕事を続ける事は出来ないのだ。
どんな仕事であっても、だ。
要求が、無い。
「する必要がある」と言えても、だ。
その判断は、その要求をする人の主観でしか無く。
「お前は神様か?」を前に、違う要求はその行動に、ダメ出しをしてくる。
やらんでいい。
「大衆」その、自身の信仰する神の、その理由は、勝手な解釈ではある。
責任を問わねばならないのだ。”それ”がどういう結果に繋がるか、だ。
せめぎ合う意識の中で、続けられるモノとは、何か。
まずは自分を護れなければ、他人の要求に応えても、実際は迷惑なだけだ。
その為に、続けている。