限度がある。
…という事態に残る不満は、最後は”物理的に”納得せざるを得ない、のだが。
昨夜の地震は、何かの帰結、だろうか?状況の把握は果たして正確か、ともかくかなり剣呑と言うか、危険なポジションで、「世界のスイッチ」を弄ってる感覚はある。基底のシステムはむしろ安定してる、その上で、どのアプリを使えば効率的か?を考えてるだけ、というニュアンスでもあるが、しかし。それでも、「多の責任は個に廻せない」と言う”設定”と変化は、世間の一部、その発狂した様な狂気を抑止し得た?かもしれない訳で。
今まで、”ここ”は歪んでいた、という評価に成る訳だが、逆に言えば「歪める事は出来た」という意味でもあり、結局、それは「自分の任意」と言う、そう言う事でもある。
…さじ加減一つで、或いは”ここ”の責任で第三次世界大戦さえリアリティ、な訳だが。
それは、狂気に近い把握だ。時代が、平成をやり直してる、様な感覚。天安門事件は起きなかった、経済的な破綻は無かった、湾岸戦争は起きなかった、オウム事件は起きていない、東日本大震災は、もっと軽微で済んだ。「あの時、あの決定を歪めてさえ居なければ」そんな、それはそう言いたげな…そんな感覚も、ある。
”人間”の決定の、その失敗と、その再検証の様な様を、しかし。
実際にやってるのか?という時、その意味には、結構本当は、怖さはある、筈。
ともかく、「限度はある」最後には、その定理に落ち着くのだが。
多の責任を個に廻せない時、個の責任も多に廻せない、もちろん他の個にも、だ。意外と多の責任は他の多に廻せたりはする、一つの多に、他の個が含まれてる事は結構あるからだが。男性の方が共有した倫理を持ち、女性の方が個別のそれである、と言うのは少し発見かもしれない。ともかく、自分の言葉?は、自分に帰ってくる。”それ”に対抗し得るのは自分でしかなく、それは全て自己責任と言う結果としてそこに有る。自身の状況が悪い、それは自身の采配か選択のミスである。物理的な話だ。
ゲームをクリアした、からと言って”それ”は直ぐには具現化はしない。
貴方が持つ「弾」の一つに成った、”だけ”だ。脅威が迫る時、”それ”は壁に成ったり敵を倒したり出来るが。それを手にしたからと言って?直ぐに何かが変わる訳でもなく、そして、求める物である、保証も実際は無い。
その時、その範囲が20か100か?は問題じゃない、「限度がある」限りは、そこに不満?は残る訳だ。ブラックホールに吸い込まれたら?単に死にます。その先は無いのか?無いです。その時ふと、コンピューターゲームにも、何かの限度がある事に、少し。
PS5のハードパワーを使いこなす!事が、最終的に出来ない。
PS5用の、革新的なゲーム!と言うのは、現状では創案できない。
限度がある。PS4のソフトが、多少か、快適に成るだけ、だ。8Kかの高精細に感嘆した後は、今のHDで自室でちまちま遊んでたりして、或いはスマホ画面で、そのゲーム性を問う時?それ以上の必要が無い。
VRにしても、あまり意味が無い。
得られる”それ”は、システム2時代と大差ない。
その時、そこに有る余剰能力の、その行き先は…何処に有る物か。
どんなパワーを持とうと、自分を破壊する選択は愚かである、と言う定理は覆らない。
その時、その余剰能力は、意味が無いのだった。
限度が、ある。