あげちうのブロマガ

先は長い道の先を考える是非

映画的な作り方をするべきか、漫画的なそれで良いのか、分岐は有って。

それはそれで、何かの衝突をしているのだろうか?それは、ちょっと思う。

「pixAI」にて、タイトルをプロンプトに入力して出力。
いろいろ混乱してる?的なイメージ

 

自分の場合、まだどっちにしてもダメ、そういう状況ではある。想定する「かむろぎ」主に自分のプランや方法論で構築された自由市場、というのもあるのか無いのか、ともかくそう言う意味では隔離されたままではある。要するに、まだ表側?で実証、という事は出来ない訳だ。表側は変な風に、体制それを構築してしまった、そう言う事だろうか。だから、具体例、というのも話しにくい事態はある。

個人的には、映画的、最初のプラン通りに作る、方を推奨はしたい、が。実際には、漫画的に作る方が臨場感や、或いは作家的な力量?そう言うのは出てくる、かもしれない。その場に行ってみないと解らない事は多い、そう言うのを、漫画的な作り方、「状況に応じてネタを追加したり考えていく」は優先はする。しかし、場当たり的な対応は、後々作品の根幹さえ揺るがしかねない「ミス」をもしかねない、訳で。それよりは基本、プラン通りに、そっちの方が良い様な、それは思うが。

この辺も自身の感覚か信仰の問題でしかない。「ケースバイケースで」人間神様には成れない、その場に行ってみないと解らない事は多い、”そのつもりで”プランを立てるべき。「面白ければいい」表現的には不足があるだろう、結局は”それ”に依存し、その時々で必要な方を選択していく事にはなる、訳だが。

その勘所、みたいなものはシステム化出来るのか?は、難しい話。ともかく現状では「大賀さんの決定に従う」どっちが”人々”の、作品なら読者、視聴者、その為に成るか?”それ”は自身らにとってプラスなのか、そう言うのを合算して考えていく事には成る訳だが。ただつまり、「大衆は神である」と言う信仰であって、あなたも信者に成りなさい、を強要は出来ない…訳で。帰結的には「これは単なる民主主義だ」とも言えるが、そうだったら世の中は、今の様にごたごたしていない、かも。

作品に対しての問題は、その「有能いじめ」それの原理を補正した?事で弱まっている、気はする。

がしかし、作品が評価を上げていく結果、”それ”が次第に膨らんでいく、それもまた、或いは現実としてある。過去の例もある、作品が評価を膨らませていく結果、その方向性に合わないモノをそれは否定し始める、訳だ、作者の意向を無視して。それが結局は「無能いじめ」になり、その先で、否定された中から魔物が現れる、それは今までの経緯で良くある話にはなる訳だが。

無理に挑んで、結局は何の結果も出なかった、という事例はいくつも或いは、ある。

それをただ、成功者が否定して良いのか?というそれはもちろん、倫理上の否を置く訳だが。

不安は残る。

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