感覚の問題で、市場とは「MMDの様な物」であるべきだ、と言う理解が”雅”市場には、成る。
パソコンのOSと言うか。
そこにある機能は、全ての人々に対して平等な環境を提供する。出来る事と出来ない事がある、だがそれは参加する誰であろうと同一の環境、だ。その上で、ゲームの様に、高いスコアを稼げれば良い、その時誰が勝者になるか?に関して、市場側は関与しない。勝利か利益はあくまでも、その市場に参加した人々の創意工夫と研究その他に寄る物だ。
…しかし、Windowsであろうと今、「ユーザー毎に」抑制が掛けられる時代…である。理由は付く。「テロリストの可能性」等など、国家に対して?敵対するパワーは抑止する理由として正当?と言うのが今までの。結果、一部の人々が「お前嫌い」それだけで否定する現実が一部に発生し、色々と問題を発生はさせていく、のだが。
「何故、そんな卑しい、金儲け主眼の貧困連中の為にそんな事をせねば成らないのか?」
正論?っぽい、だが微妙な否定的感覚は、不意にそこに有る。「お前らは公僕の様なモノだろう、市場に参加する人々の為に働くのが当然じゃないの?」結構、嫌なお客である。
嫌いな存在を締め出せるパワー、それはどうしても…欲しくは成る。現状、時代は「黄昏の狩人」”これ”を土台にしてしまった経緯があり、発言や発表に関してはかなり、この「理想」は守られている…のだが。評点に関して、初期の「黄昏の狩人」には記述が無くあくまでも「マスター」物語を進行する立場、”そこ”に依存していて。「だからこそ利用された」のだが、だからこそ、平成はあの大不景気に陥ったのだ。作者の手によって、オリジナルは改訂された、が。
「私は古い方が好きです」
それは、今も自分がWindows10に移行してない理由でもあり、そう言う問題?は、残る。
如何に元「王の権威」とは言え、その王の権威その独裁性がある限りは、「中華思想の皇帝」それはカウンターとして発生するのだ。「大賀さん」そこに権威は譲渡した、と言うからこそ皇帝を退ける事が出来た?時。しかし、表の世界ではまだ「大賀さん」紛争解決機構、テレビゲームの”それ”は姿が見えない。表の世界に「大賀さん」それは無いのだ。無いならまだ、「王の権威」それは、何らかの影響力を残し。
「皇帝」もまた、死んでは居ないのでは。