最近は、自炊せざるを得ない状況、もちろん料理をする。
そこは不意に、考えたりする部分はある。
「美味しいって何だろう?」
一応持論として、創作と料理、それはセットで考える何か、ではある。創作は創るが、料理は「食べてしまう」消す、のだ。イメージは表と裏、というべきかもしれない、ともかく創作で「創った」価値の中で、絶対に一割前後は「不用」その人には、が発生する。それを消す、という行為には快楽と対価が発生する、訳だが。つまり、「美味しい」と言うそれは、”何か”を消している、事には成る。
そこに共有感を見るべきか、それとも、自身のそれを重視するべきか。
ちょっと、料理?を考えた。
「ミートボールカレー」
ひき肉100g
肉切り落とし100g
片栗粉大さじ1
後は、普通に肉以外のカレーの食材
肉切り落としを、1cm程度に裁断する。
”それ”と、ひき肉、片栗粉を混ぜ、良く混ぜる。
”それ”を一口大に分割し、フライパンに油をひいて表面を焼いて、取り出す。
後は、”それ”を肉の代わりに、カレーに使用する。
ぶっちゃけると、いわゆる「肉」と言う感じは薄れてしまうが、それ以上に安定して食べやすい、感じは悪くない印象。柔らかいのと、或いはコスト安?かも、しれない。
ともかく、急場をしのいだ何かとすると、悪いとも思えなかった訳だ。
※また、この肉を、このままハンバーグ状に焼いても、肉汁は多く柔らかい感じで、”期待するハンバーグ感”はある。この時は「えのき氷」を1つ、電子レンジで溶かして入れているが、別に入れなくても良い、かもしれない。この場合、或いは玉ねぎをみじん切りするなどの労苦の軽減には成る、かも。しかし。
必要?
って言われると、謎ではある。
最近個人創作…そう言うの?を続けてるから、だろうか。「どっち?」に対して明言し難くなった感覚は、不意にある。自分が良いと思うモノと、社会が良いと言うモノと、どっちを重視するべき?的な、その対立に、不意に「どっちでも良さそう」な、こんなアイディア?があったりする訳だが。
ハンバーグでも無く、
ミートボールとも言えず、
もちろん、肉でも無い。
それはそれで、”別に不味くない”のだ。急場をしのぐに十分で、時短かもしれず、それでいて、肉のおいしさ?それはそれとして実際には、ヘタに肉その物より安定してる、かもしれない。
料理と言うのが、「消すモノ」だとすると、”こういうのは要らない”と言う、この味覚は、そんな自身の主張なのだろうか?
食べて美味しいなら何でも良いでしょう?
「美味しい」それは共有認識なのか、或いは。
カレーにはちゃんとした肉を使いたいし、ハンバーグに玉ねぎも卵もパン粉も入ってないのはなんか不安になるし、ミートボールとしては、何だか味気ない。
何か、何処かで下りる場所を探している、気もする。
使用イメージ
https://seiga.nicovideo.jp/seiga/im10844833
https://publicdomainq.net/pieter-aertsen-0026471/