犯人は、はっきりしているのだ。
なら、「それで終了」なのかもしれない。
ともかく現状、その「犯人」元”中華思想の皇帝”それは、正論性を失った。「黄昏の狩人」を、アイディアを盗み、それにより地位?を得たは良いが。その発覚を恐れて、その元の作者を殺そうとし、結果的には世界的な大恐慌の元凶にさえ成った、訳だ。その状態で、どんな漫画が描けるだろう?それはもう、作家としては死んでいる、更に如何なる論説を語ろうとそれは、泥棒に理を説かれる様でしかない。何かの「責任」は、概念的には完全に消滅した、「取られた」訳だ。”作家”と言う世界の中で言えば、それは「死んだ」殺された、そう言う絵なのかもしれない。
一応、理屈としては。「影響力」それは、その根拠を失った訳だから。正論性、「個人の権利は守られねばならない」そう言うのは、その邪な影響力を止める事が出来る、筈で。不当に対しては、理由と正義を問われる。その時、「元皇帝の意向」それは根拠として弱い以前の問題だ、何故罪人の言う事を聞くのか?
「死んだ」存在に対して、それ以上の追及は、ご法度?ではある。
本人その物が物理的に死んだか死ぬのか、それは…解らない。或いは、神の決める事だ。先日亡くなった「劉 暁波(りゅう ぎょうは)」氏も、中国の民主化に尽くしたが…ガンに犯された。実は、天安門事件の引き金になった作家だと言う、あの時、多くの学生が犠牲になった、中には戦車に轢き殺された学生さえ居る。彼らの夢は、志半ばで潰えた訳だが。
良くも悪くもか、「当時の民主主義」それは、実はあまり好ましい物では無かった、多数で少数を圧倒するが、その根幹には或いは「中華思想の皇帝」が居たのだ。イメージの美しさと、現実のグロテスクさと。「劉 暁波」氏も、作家である、独裁性への夢が無かったとは言えない。「自由を!」その果てに、それは無念にも、何かの壁に遮られた訳だ。
この作家の死は、中華思想の皇帝、それにとっては最後の砦、その喪失になったのだろうか。
世界の中心には(0±0)が居て、それが最後の倫理を司っては居る。その民主主義は、或いはそれを傘にした”違う何か”は、贋作の様なそれは、結果論で、”それ”を制御しようとした訳だ…、多数決の多数派!それこそが正義なのだ。それで世界が動く時、そこには何かの理想が具現化する一瞬がある。ただ中国はそれで、それほど遠くない昔だ、その結果として数千万人を殺している。「文化大革命」アレこそが、実は民主主義の、或いは創作者の本性、だったのかもしれない。個の理想の為には、どれだけ多が犠牲に成っても構わないのである。自分に異を唱える可能性は!全て排除してこそ理想は具現化するのだ。人間が、何かの一線を超えた先には、結論として神の怒りが有るのだろうか。
もちろん、何となく実感は無い、悪夢もまだ、ちらほら見える。カウンタ制御は、今も或いは「理由」と共に有って。人間はどこまで信用出来るだろう?そんな一言の、それは責任を問われているのだろうか。
ともかく、自分を殺そうとした敵は、作家的には「死んだ」訳だが。次第に今の、「不景気を打開出来なかった」インターネットも、その意味を変化させていくのだろうか?
ともかく、生活を、日常をどう成り立たせるか?今はそれが最優先なのだが。