ブログが読みづらい、と指摘されまして模様替えです。アジアの遺跡でお気に入りだったのですが。
順天堂静岡病院が伊豆にあります。
そこに赴任時に、もっともドラマティックな経過で奇跡的に回復した患者さんが、僕を彼の結婚式の主賓に招待してくれました。
若かった僕は恐縮しましたがとても感動しました。
医師は患者さんの人生にはあまり立ち入るべきではない、という意見もありますが、僕は自然体でいいと思っています。
むしろ、彼の人生に立ち入ることができたことを誇りに思います。
呼ばなくてもいい席にあえて呼んでいただけたのですから光栄に思いました。
途中スライドで新郎・新婦の「尊敬する人:水沼先生」には「は?冗談はやめろ!」とまじで穴があったら入りたかったくらいでしたが・・・。
「結婚を決めた場所:順天堂ICU」「プロポーズの場所:順天堂」はほほえましく感じました。
彼女は僕が実の妹かと勘違いしていたくらい献身的でした。
伊豆に赴任中には、御茶ノ水で担当だった信州や千葉の患者さんが、わざわざ泊りがけで僕の外来を訪ねてくれたり、伊豆を離れるときには涙を流してくれた患者さん方もいらっしゃって下さいました。
僕はびっくりして「そんな、僕なんかに涙を使ったらもったいないですから」と、こっちも思わずじ~んと目頭が熱くなりました。
こういう気持ち、感情の高ぶりを与えてくださった患者さんたちに感謝です。
また、群馬の病院に赴任していたときに大事故があって、駆けつけてみると車内からレスキュー隊によって救出された方が心肺停止状態でした。
周りに医師は僕しかいなかったため、蘇生をしながら救急車に乗り込み、脳幹挫傷が疑われたため脳外科医のいる病院に搬送しました。
数日後、気になって問い合わせたところ、幸いにも一命をとりとめたがまだまだ予断は許されないと搬送先の主治医からうかがいました。
その後僕は大学に戻りましたが、その方はどういう方法を使ったのか、数年後にわざわざ僕を探して御礼の手紙を下さったのです。
手紙が書けるようになるまで回復したとのうれしい知らせでした。
誰もいない研究室で「この仕事を選んでよかったのかな・・」と幸せな気持ちになりました。
そのときの壊れたブラインドからこぼれていた、柔らかい日差しと古い本の匂いを今でも憶えています。
今だから言うと、群馬に赴任したのは10年以上前ですが、自分の無力さが悔しくて一人で涙したときもありました。
自信を喪失して手術室に入れないときもありました。
そのときは副院長の消化器外科の先生が僕を叱咤激励してくれました。
忘れられません。
人と人のつながりに感謝をし、僕は生きていますがほかの人に助けてもらいながら生かしていただいているというのが現在の心境です。
母校の島根大学医学部の永末先生は、今でこそ当たり前になりつつある、生体肝移植をさまざまな問題を乗り越えて、勇気を持って挑みました。
患者さんご本人とそのご家族、恩師や教室の後輩の運命まで背負いました。そしてさらに自分の医師免許をかけました。
結果の是非はみなさんに考えていただきたいと思います。下記をご参照に。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=89954&pg=20021112
ご両親は次のお子さんに、永末先生の「直」という字をもらって、命名したそうです。
それがすべてを物語っていると思うのです。
医師として、どんな勲章より、どんな名誉より、どんなお金より、医師冥利に尽きる栄誉だと思うのです。
親御さんもたいへん立派な方たちだと思います。
永末先生と僕では今ではだいぶ畑が異なりますし、そもそもとっても僭越ですが、気持ちは僕も患者さんとそこまでの絆を築きたいものだ、と思うのです。
順天堂静岡病院が伊豆にあります。
そこに赴任時に、もっともドラマティックな経過で奇跡的に回復した患者さんが、僕を彼の結婚式の主賓に招待してくれました。
若かった僕は恐縮しましたがとても感動しました。
医師は患者さんの人生にはあまり立ち入るべきではない、という意見もありますが、僕は自然体でいいと思っています。
むしろ、彼の人生に立ち入ることができたことを誇りに思います。
呼ばなくてもいい席にあえて呼んでいただけたのですから光栄に思いました。
途中スライドで新郎・新婦の「尊敬する人:水沼先生」には「は?冗談はやめろ!」とまじで穴があったら入りたかったくらいでしたが・・・。
「結婚を決めた場所:順天堂ICU」「プロポーズの場所:順天堂」はほほえましく感じました。
彼女は僕が実の妹かと勘違いしていたくらい献身的でした。
伊豆に赴任中には、御茶ノ水で担当だった信州や千葉の患者さんが、わざわざ泊りがけで僕の外来を訪ねてくれたり、伊豆を離れるときには涙を流してくれた患者さん方もいらっしゃって下さいました。
僕はびっくりして「そんな、僕なんかに涙を使ったらもったいないですから」と、こっちも思わずじ~んと目頭が熱くなりました。
こういう気持ち、感情の高ぶりを与えてくださった患者さんたちに感謝です。
また、群馬の病院に赴任していたときに大事故があって、駆けつけてみると車内からレスキュー隊によって救出された方が心肺停止状態でした。
周りに医師は僕しかいなかったため、蘇生をしながら救急車に乗り込み、脳幹挫傷が疑われたため脳外科医のいる病院に搬送しました。
数日後、気になって問い合わせたところ、幸いにも一命をとりとめたがまだまだ予断は許されないと搬送先の主治医からうかがいました。
その後僕は大学に戻りましたが、その方はどういう方法を使ったのか、数年後にわざわざ僕を探して御礼の手紙を下さったのです。
手紙が書けるようになるまで回復したとのうれしい知らせでした。
誰もいない研究室で「この仕事を選んでよかったのかな・・」と幸せな気持ちになりました。
そのときの壊れたブラインドからこぼれていた、柔らかい日差しと古い本の匂いを今でも憶えています。
今だから言うと、群馬に赴任したのは10年以上前ですが、自分の無力さが悔しくて一人で涙したときもありました。
自信を喪失して手術室に入れないときもありました。
そのときは副院長の消化器外科の先生が僕を叱咤激励してくれました。
忘れられません。
人と人のつながりに感謝をし、僕は生きていますがほかの人に助けてもらいながら生かしていただいているというのが現在の心境です。
母校の島根大学医学部の永末先生は、今でこそ当たり前になりつつある、生体肝移植をさまざまな問題を乗り越えて、勇気を持って挑みました。
患者さんご本人とそのご家族、恩師や教室の後輩の運命まで背負いました。そしてさらに自分の医師免許をかけました。
結果の是非はみなさんに考えていただきたいと思います。下記をご参照に。
http://www.enpitu.ne.jp/usr8/bin/day?id=89954&pg=20021112
ご両親は次のお子さんに、永末先生の「直」という字をもらって、命名したそうです。
それがすべてを物語っていると思うのです。
医師として、どんな勲章より、どんな名誉より、どんなお金より、医師冥利に尽きる栄誉だと思うのです。
親御さんもたいへん立派な方たちだと思います。
永末先生と僕では今ではだいぶ畑が異なりますし、そもそもとっても僭越ですが、気持ちは僕も患者さんとそこまでの絆を築きたいものだ、と思うのです。