[※ 『NNNドキュメント’17/記憶の澱』(2017年12月3日(日))↑]
リテラの小杉みすず氏による記事【「火垂るの墓では戦争は止められない」高畑勲監督が「日本の戦争加害責任」に向き合うため進めていた幻の映画企画】(http://lite-ra.com/2018/04/post-3949.html)。
《周知の通り「反戦映画」として国内外から高い評価を受けた作品だが、生前、高畑監督は「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言していたことは、本サイトでも何度か紹介してきた…そう。高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった。ついに日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”》。
『●加害者性と被害者性…「私たち一人一人が被害者となり、
加害者となり得る戦争。戦争はどこかで今も…」』
《先の大戦の記憶を、今だからこそ「語り、残したい」という人々がいます。
…心の奥底にまるで「澱」のようにこびりついた記憶には「被害」と「加害」、
その両方が存在しました》
《「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる》…高畑勲監督の『火垂るの墓』のその後の次なるテーマは、《日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった》そうですが、実現しなかったそうです…。《日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています》…《お蔵入り》になってしまったことが悔やまれます。《原作者と高畑監督の無念》。アベ様らによる《歴史修正主義が跋扈》することを少しは抑えることが出来たのかも知れなかったが…。《あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせて》仕舞っているのが、アベ様ら歴史修正主義者が原因であることに気付こうとしない愚かさ。
『●「「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」
という気持ちこそが、戦争の抑止力となる」』
「【反戦のふりをした戦争肯定映画『永遠の0』にだまされるな!
本当の反戦とは何か、ジブリ高畑勲監督の言葉をきけ!】
(http://lite-ra.com/2015/07/post-1342.html)」
《いまなお“反戦映画”の名作として受け継がれている。ところが、
当の高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない、『火垂るの墓』では
戦争を止められない」と語っているのだ。高畑監督のいう、
本当の反戦とは何か…高畑監督にいわせれば、
「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、
殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだ
と指摘する…実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた
…本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、
「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる》
『●高畑勲監督より三上智恵監督へ、
「あなたがつくっているような映画が、次の戦争を止める」』
「リテラの記事【高畑勲監督が沖縄の基地問題を描き続ける
三上智恵監督と対談、安倍政権を止められない苦悩を吐露】
(http://lite-ra.com/2017/04/post-3070.html)」
《すると高畑監督は、「『火垂るの墓』のような作品では
次の戦争は止められない。あなたがつくっているような映画が、
次の戦争を止める。だから、あなたはもっと頑張りなさい」と語ったという》
「恐ろしく暴走を繰り返し、番犬様の家来となり、戦争したくてしょうがない
デンデン王国の「裸の王様」とその狂気・凶器な取り巻き連中。
彼・彼女ら自公お維議員を支持できる神経が知れない。
高畑監督をして、《安倍政権を止められない苦悩》、
《間近に迫る戦争をどうやったら止めることができるのか、自身の苦悩を吐露》
する一方で、《未だに「内閣支持率は52・4%》。
そんな《苦悩》を感じない人が多数派らしい」
『●高畑勲監督…「『火垂るの墓』…どれだけの人が戦争の悲惨さを知り
…反戦映画の枠を超える名作になった」』
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【http://lite-ra.com/2018/04/post-3949.html】
「火垂るの墓では戦争は止められない」高畑勲監督が「日本の戦争加害責任」に向き合うため進めていた幻の映画企画
2018.04.13
(2017年4月、東京で行われた三上智恵監督との
トークイベントでの高畑勲監督(撮影=編集部))
5日に亡くなった高畑勲監督の代表作『火垂るの墓』(1988年)が、本日の『金曜ロードSHOW!』(日本テレビ)で放送される。周知の通り「反戦映画」として国内外から高い評価を受けた作品だが、生前、高畑監督は「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言していたことは、本サイトでも何度か紹介してきた。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」(神奈川新聞2015年1月1日付)
一方、その高畑監督が『火垂るの墓』の次に撮ろうとしていた“まぼろしの作品”については、あまり知られていない。監督作としての次作は1991年の『おもひでぽろぽろ』になるが、実はその間、高畑監督は別の企画を進めていた。しかし、ある理由によりお蔵入りになったという。「国公労新聞」2004年1月1・11日合併号のインタビューで監督自身がこう語っている。
「(『火垂るの墓』は)戦争の悲惨さを体験したものとして、平和の大切さを訴える作品をつくることができたことはよかったのですが、一方で、日本のしかけた戦争が末期になってどんなに悲惨だったかだけを言っていてもいけないと思っています。
じつは『おもひでぽろぽろ』をつくる前に、しかたしんさん原作の『国境』をもとにして、日本による中国への侵略戦争、加害責任を問う企画を進めていたのです。残念ながら、天安門事件の影響で企画が流れたのですが、日本が他国に対してやってきたことをきちんと見つめなければ世界の人々と本当に手をつなぐことはできないと思っています」
そう。高畑監督が『火垂るの墓』の次に取り組もうとしていたテーマは、日本の「侵略戦争」と「加害責任」を問うことだった。ついに日の目を見ることのなくなった“まぼろしの高畑映画”。その原作となるはずだった『国境』とは、どういった作品なのか──。現在、絶版となっている同作を読んでみた。
高畑監督が撮るはずだった“幻の映画”の原作『国境』とは
『国境』(理論社)は、児童文学作家、劇作家のしかたしん氏が、1986年から1989年にかけて発表した小説3部作。1冊にまとめられた1995年版は全600ページを超える長編である。日中戦争、太平洋戦争時の朝鮮・中国・満州・モンゴルを舞台に、ソウル生まれの日本人青年が、死んだはずの幼馴染みを探すなかで、反満抗日や朝鮮独立の地下独立運動に参加していくというのが物語の大枠だ。
同作には、甘粕事件の甘粕正彦や、陸軍大将の東条英機、朝鮮独立運動家としての金日成、あるいは森繁久弥など、実在の人物名が多数登場するが、ノンフィクションではなく、あくまで“冒険小説”としての体裁をとっている。しかしその一方で、物語に作者本人の戦争体験が色濃く反映されているのは疑いない。
著者のしかた氏は1928年、日本統治下の朝鮮・京城(現在のソウル)で生まれた。父は京城帝国大学の教授、母は洋画家で、当時ではリベラルな空気の中で育ったという。京城帝国大予科在学中に終戦を迎えたしかた氏は、引き上げた日本で大学を卒業。民放ラジオ局でディレクターを務めたのち、1974年から作家一本の人生に入り、2003年に亡くなった。しかた氏にとって『国境』は「ライフワークのひと節」「一番かわいい作品」だったという。
第一部「大陸を駈ける」の時代背景は、盧溝橋事件から2年後の1939年。主人公の「昭夫」は京城帝大の予科生だ。学友たちとやがて戦地に駆り出されることを意識しながら飲み会をしていた初夏の夜、密かに好意を寄せる「和枝」から、満州での訓練中に事故死したとされた和枝の兄で幼馴染の「信彦」が生きていることを聞かされる。
日本が1932年に樹立した「満州国」。昭夫はふと、信彦が満州の軍官学校行きを決めたときに「天皇陛下のためには死ねそうもないが、満州の未来のためなら死ねる」と言っていたのを思い出していた。昭夫はその意味を考えながら、(少しばかりの下心をもって)満州まで信彦探しの旅に出る。しかし、その背後を「白眼」(しろめ)と呼ばれる冷酷で残虐な満州公安局の諜報員がつけねらっていた。
実は、信彦は関東軍がさらったモンゴルの将軍の子孫で、軍官学校を脱走して地下工作運動に加っていたのだ。信彦の“帰路”を辿る過程で諜報員から命を狙われた昭夫は、地下運動に関わるモンゴル人「秋子(ナムルマ)」たちに助けられながら、満州国が「五族協和」の美辞を建前にした侵略に他ならないことに気がつく。また、自らが白眼に捕らえられて苛烈な拷問を受けるなかで、日本人による差別、暴力、搾取、性的暴行、戦争犯罪の実態を身をもって知り、旅を終えて京城へ帰る。
続く第二部は太平洋戦争中の1943年。軍属の技師として独立を願う朝鮮人たちと交流しながら武器製造に携わる昭夫は、日本軍人の卑劣な暴力支配、大本営発表の欺瞞を再び目の当たりにして、朝鮮の独立運動に身を捧げる決意をし、信雄や秋子らとの再会を果たす。そして第三部では、独立活動家として1945年8月15日の敗戦を生まれの地・京城で迎え、白眼との戦いにもピリオドがうたれたところで、物語は幕を閉じる。
「朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがある」
以上が『国境』のあらすじである。予科生の昭夫が漠然と考えていた朝鮮・中国、満州・モンゴルの「国境」とは、侵略者である日本が引いて強要しているものだった。
昭夫がそのことを悟るのは、日本人による暴力や差別を目の当たりにしたことだけがきっかけではない。むしろ、支配を受けている当事者たちとの腹を割った交流から、「祖国」とは「民族」とは何かを見つめ直すことで独立運動に関わっていくのである。たとえば、作中で機関士に扮してモンゴル国境へ向かう最中、昭夫は協力者のモンゴル人や朝鮮人とこのような会話を交わしている。引用しよう。
〈昭夫は改めて運転室の中を見渡した。石炭で真っ黒になった信彦の顔を想像しておかしくなった。ドルジは続けた。
「日本人として育てられ、それから自分の国を選び直したんだからな。国を選び直すというのは大変なことだろうよ。おれなんかは、満州なんか国じゃない、おれの国はモンゴルだ、それ以外に考えたことはなかったけどさ。彼はそうじゃないもんな」
「選べる国があるやつはいいよ」
突然声がした。李さんだった。
「俺たちには国がないんだからな」
ちょっと遠慮がちに昭夫の顔を見てから続けた。
「日本人に国を追い出されて、満州をあちらこちらとうろつきまわったけど、どこへ行ってもよそ者だった。よその国の大地、その国の空をさ迷う人生というのがわかるかい。こうやって働いたり考えたり喋ったりしたことは、みんなよその国の空と土の中に消えちまうのだ。誰がその歴史をついでくれるというあてもなくな。──淋しくってな。本当に淋しいよ」〉
また、同作の特徴のひとつとして、関東大震災時の朝鮮人虐殺、慰安婦や徴用工の強制連行、人体実験をしていた731部隊、植民地解放を謳った傀儡政権の樹立、朝鮮人の創氏改名など、日本による加害事実のエピソードが随所に挿入されることが挙げられる。そのすべてが作者の実体験ではないにせよ、少なくとも日本軍による強制連行については、当時目撃した光景が如実に反映されているようだ。しかた氏はある講演のなかでこう証言している。
〈いっぺん、どこかの小さい駅で朝鮮人が強制連行される現場を見てしまったことがあるんです。これもすごかったですね。ぼくは人間が泣くというのはこういうことかと初めて知ったわけです。オモニが泣き叫ぶ、泣き叫ぶオモニをけ倒し、ぶんなぐり、ひっぺがしながら、息子や夫たちが貨車に積みこまれていく光景を見てしまった。その泣き声は強烈に残っているんです。ぼくはそのとき、自分が朝鮮人をわかっていると言ってたくせに、指一本動かすことができない日本人の限界を、どっかで感じていたんですね。〉(『児童文学と朝鮮』神戸学生青年センター出版部、1989年)
なぜ企画は流れてしまったのか。原作者と高畑監督の無念
また、第三部で細かく描かれている終戦日のソウル市内の活況も、しかた氏本人の体験が元になっている。しかた氏ら京城帝大予科生は、8月15日の正午ごろまでソビエトの侵攻に備え、爆弾を抱えて戦車に飛び込む訓練を行なっていた。直後に聞いた玉音放送。頭が真っ白になって、そのまま京城の町を散歩した。そこで、しかた少年ははじめて朝鮮人のデモ行進を見て、その明るさに感動したという。少し長くなるが、前出の講演から再び引用しよう。
〈大変恥ずかしいことだったんですけれども、そのときは侵略者としての罪の意識はなかった。
ヒョッと気がついてみると、その街角に一人、予科の学生が突っ立っていたんです。これは朝鮮人の学生です。(中略)建国準備会という腕章をつけていた。まずいことに、そいつとバチッと目があっちゃったんですね。目があわなかったら、ぼくは知らん顔をして万歳、万歳と言いながら、おそらく京城駅まで行ってたと思うんです。(笑)
そいつが、ちょっと来いというんです。「なんやねん」と行ったんです。彼にえらい厳しい顔で、「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」って言われたんですね。それはほんとにドキッとしましたね。「ここはお前のいる場所じゃないんだよ」と言われたときに、アッと気がついた。まことにうかつな話ですけれども、それが自分にとって朝鮮に生まれ育ったことをもう一回問い直す、見直す、その大きなきっかけになった気がするんですね。〉
これは推測になるが、おそらく、高畑監督が問いたかった「加害責任」とは、戦時下の暴力や犯罪だけじゃなかったのではないだろうか。事実、『国境』という物語は、侵略者による「加害」が、決して身体だけに刻まれるものではないことを教えてくれる。生まれた国や名前を奪われるということ。自分たちの歴史を奪われるということ。それは、暴力や略奪の「当事者」たちが鬼籍に入ってもなお、永遠に癒えることのない「加害」だろう。
しかし、ついぞ『国境』は高畑監督によって映画化されることが叶わなかった。高畑監督は前述の「国公労新聞」インタビューで「天安門事件の影響で企画が流れた」と多くを語っていないが、調べていくと、しかた氏がその裏側を雑誌『子どもと読書』(親子読書地域文庫全国連絡会)1989年12月号のなかで記していたのを見つけた。
高畑監督を〈アニメ映画界のなかでもっとも尊敬する人〉だったというしかた氏は、作品の提供を快諾し、完成を楽しみにしていた。高畑監督も〈全力をかけてやりたい〉と意気込んでいたという。しかし、『国境』第三部が完結した1989年に天安門事件が起きて、配給会社から「あの事件のために日本人の中国イメージが下がり販売の自信がなくなったから」との理由でキャンセルを申し入れられたという。しかた氏はそのショックについてこう綴っていた。
〈私が何ともやり切れない思いにかられたのは、そういう(引用者注:マーケットの)リサーチを受けた時の日本人一般の反応を想像してしまったからなのです。
「人民解放軍だってあんなひどいことをやったんだ。おれたち日本がやったことも、これでおあいこさ。もう免罪になったんだ。この先侵略者の罪とか歴史とか、そんなうっとうしいことはかんがえるのはやめにしようや。もっと軽く楽しくいこうや」〉
翻って現在。安倍政権のもとで、戦中日本の加害事実を抹消・矮小化しようとする歴史修正主義が跋扈している。安倍首相は、戦後70年談話で「あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」と胸を張って述べた。
こんな時代だからこそ、やはり、映画版『国境』は“まぼろしの作品”になるべきではなかった。きっと、高畑監督も、そう思いながら眠りについたのではないだろうか。そんなふうに思えてならないのだ。
(小杉みすず)
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リテラの記事【高畑勲監督が最後に遺した無念の言葉「これで安倍政権が崩れないのが信じられない」「自由で公平で平和な国で死にたい」】(http://lite-ra.com/2018/04/post-3933.html)。
日刊ゲンダイの記事【沖縄の現状に思い寄せ アニメ巨匠・高畑勲監督の“遺言”】(https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/226756)。
《その無念のなかには、いま、この国に進行している事態を止められなかったという思いも含まれていたのではないだろうか》。
《反戦・反核の人だったが、とりわけ強い思いを寄せていたのが沖縄の現状である…辺野古の新基地建設について「許し難いひどい話」、沖縄県に米軍基地の負担が集中していることについて「後ろめたい」などと話していた…安倍政権の5年で、沖縄の“孤立”はますます深まった。9条改悪にも手を付けようとしている。高畑監督の言葉に、安倍首相も少しは耳を傾けたらいかがか》。
東京新聞のコラム【筆洗】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2018040702000148.html)によると、《高畑勲さん…▼『火垂るの墓』も「反戦映画ではない」と言った。日本が再び戦争に向かうことに強い危機感を持っていた一方で、戦争を止める力にはならないと考えたからだ▼だが現実は異なる。映画でどれだけの人が戦争の悲惨さを知り、どれだけの親子が戦争について語り合ってきたか。反戦映画の枠を超える名作になった▼著書では<私たちは先立った人たちに見つめられているのだ、という…感覚をもつことが必要ではないか>とメッセージを残した。これからは作品の向こうからわれわれを見つめることになる》。
『●「「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」
という気持ちこそが、戦争の抑止力となる」』
「【反戦のふりをした戦争肯定映画『永遠の0』にだまされるな!
本当の反戦とは何か、ジブリ高畑勲監督の言葉をきけ!】
(http://lite-ra.com/2015/07/post-1342.html)」
《いまなお“反戦映画”の名作として受け継がれている。ところが、
当の高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない、『火垂るの墓』では
戦争を止められない」と語っているのだ。高畑監督のいう、
本当の反戦とは何か…高畑監督にいわせれば、
「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、
殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだ
と指摘する…実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた
…本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、
「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる》
《「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる》。
恐ろしく暴走を繰り返し、番犬様の家来となり、戦争したくてしょうがないデンデン王国の「裸の王様」とその狂気・凶器な取り巻き連中。彼・彼女ら自公お維議員を支持できる神経が知れない。平和憲法は徳俵。壊憲へまっしぐらで、戦争法まで出来てしまう始末。そんなに、子や孫を「人殺し」に行かせたいものか。小泉純一郎氏やアベ様らが唱えた「非戦闘地域」の惨状は、南スーダンやイラクの日報を隠蔽・改竄・破棄してまで、隠したかったことだ。
さて、沖縄との関係では、以下の記事が興味深い。《あなたがつくっているような映画が、次の戦争を止める。だから、あなたはもっと頑張りなさい》…という、三上智恵さんへの大激励。
『●高畑勲監督より三上智恵監督へ、
「あなたがつくっているような映画が、次の戦争を止める」』
「リテラの記事【高畑勲監督が沖縄の基地問題を描き続ける
三上智恵監督と対談、安倍政権を止められない苦悩を吐露】
(http://lite-ra.com/2017/04/post-3070.html)」
《すると高畑監督は、「『火垂るの墓』のような作品では
次の戦争は止められない。あなたがつくっているような映画が、
次の戦争を止める。だから、あなたはもっと頑張りなさい」と語ったという》
「恐ろしく暴走を繰り返し、番犬様の家来となり、戦争したくてしょうがない
デンデン王国の「裸の王様」とその狂気・凶器な取り巻き連中。
彼・彼女ら自公お維議員を支持できる神経が知れない。
高畑監督をして、《安倍政権を止められない苦悩》、
《間近に迫る戦争をどうやったら止めることができるのか、自身の苦悩を吐露》
する一方で、《未だに「内閣支持率は52・4%》。
そんな《苦悩》を感じない人が多数派らしい」
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【http://lite-ra.com/2018/04/post-3933.html】
高畑勲監督が最後に遺した無念の言葉「これで安倍政権が崩れないのが信じられない」「自由で公平で平和な国で死にたい」
2018.04.07
(2017年4月、東京で行われた三上智恵監督との
トークイベントでの高畑勲監督(撮影=編集部))
『火垂るの墓』『平成狸合戦ぽんぽこ』『かぐや姫の物語』など、多くの作品を手がけた高畑勲監督が、5日、東京都内の病院で死去していたことがわかった。82歳だった。
スタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫は「やりたい事がいっぱいある人だったので、さぞかし無念だと思います」とのコメントを発表していたが、その無念のなかには、いま、この国に進行している事態を止められなかったという思いも含まれていたのではないだろうか。
そのことをあらためて強く感じたのが、高畑監督の死去が報道されたあと、長い親交のあった映像研究家の叶精二氏が、ツイッター上で公開した年賀状だった。
叶氏は〈昨年の元旦に高畑勲監督から頂いた年賀状です。20年来、毎年簡潔かつ独創的な賀状を頂くのが楽しみでした。これが最後の一枚。高畑監督のお叱りを受ける覚悟で、ご本人の一字一句をファンのみなさまと共有したいと存じます〉とのコメントとともに、2017年の正月に高畑監督から送られてきた年賀状を公開。そこにはこのような文章が書き添えられていた。
〈皆さまがお健やかに
お暮らしなされますようお祈りします
公平で、自由で、仲良く
平穏な生活ができる国
海外の戦争に介入せず
国のどこにも原発と外国の部隊がいない
賢明強靭な外交で平和を維持する国
サウイフ国デ ワタシハ死ニタイ です〉
しかし、現実の日本はいま、安倍政権によってまったく逆の状況が進行している。格差が激化し、国民の権利や自由が侵害され、原発がどんどん再稼動し、米軍基地は沖縄の人たちの生活を危険にさらし続け、海外への戦争介入や軍備増強の裏で、外交は弱体化の一途をたどっている。高畑監督の無念はいかばかりだろうか。
高畑監督が発言しつづけた「『火垂るの墓』では戦争を止められない」理由
高畑監督は“戦争のできる国”づくりをなんとか止めようと、積極的に発言し、行動を起こしていた。
2014年には特定秘密保護法に反対するデモに参加。その後もデモへの参加は継続しながら、15年の安保法制の際には講演会などでメッセージを発信し、また、沖縄基地問題にも精力的に関わっている。
16年には、実際に辺野古と高江に足を運んだほか、警視庁機動隊員の派遣中止を東京都公安委員会に勧告するよう求める住民監査請求に請求人のひとりとして参加。その年の年末には、高江ヘリパッド建設中止を求めるアメリカ大統領宛の緊急公開書簡の賛同者にも名を連ねた。
高畑監督をつき動かしていたのはもちろん、自らの戦争体験を通じた、戦争への恐怖だろう。1935年生まれの高畑監督は先の戦争で、その恐ろしさを嫌というほど体験している。小学校4年生のときには空襲を受けた。空襲の夜、焼夷弾が降り注ぐなか、高畑監督は姉と2人、裸足で逃げたのだ。爆弾の破片が身体に突き刺さり失神した姉を必死で揺り起こしたりもしたという。一夜明け、自宅のほうに戻ると、遺体だらけだったという体験も語っている。
代表作である『火垂るの墓』があれだけ人々の感情を揺さぶり、高い評価を得たのも、そんな高畑監督のリアルな戦争体験と戦争への思いが強く反映されていたからだろう。
だが、その高畑監督は近年、「『火垂るの墓』では戦争を止められない」と発言するようになっていた。
『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと多くの人が認識しているし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。
しかし、高畑監督は、もっとシビアに現実を見つめていた。神奈川新聞(15年1月1日付)のインタビューで、高畑監督はこう語っている。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのものであるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか」
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる」
また、昨年4月、東京・ポレポレ東中野で行われた、映画監督・三上智恵氏とのトークイベントで同様に、こう語っていた。
「『火垂るの墓』のようなものが戦争を食い止めることはできないだろう。それは、ずっと思っています。戦争というのはどんな形で始まるのか。情に訴えて涙を流させれば、何かの役にたつか。感情というのはすぐに、あっと言うまに変わってしまう危険性のあるもの。心とか情というのは、人間にとってものすごく大事なものではあるけれども、しかし、平気で変わってしまう。何が支えてくれるかというと、やはり『理性』だと思うんです。戦争がどうやって起こっていくのかについて学ぶことが、結局、それを止めるための大きな力になる」
森友、日報隠蔽…高畑監督「これで安倍政権が崩れないのは本当に信じられない」
高畑監督が、感情による戦争への忌避感が反戦につながらないと考えたのは、おそらく、この国がもつどうしようもない体質に強い危機感を抱いていたからだ。勝手に空気を読み、世間の動きには逆らわず、その流れに身を任せていく。高畑監督はそれを「ズルズル体質」と呼んで警鐘を鳴らしていた。15年7月、東京都武蔵野市にて行われた講演会で高畑監督はこのように話している。
「政府が戦争のできる国にしようというときに“ズルズル体質”があったら、ズルズルといっちゃう。戦争のできる国になったとたんに、戦争をしないでいいのに、つい、しちゃったりするんです」
「日本は島国で、みんな仲良くやっていきたい。『空気を読み』ながら。そういう人間たちはですね、国が戦争に向かい始めたら、『もう勝ってもらうしかないじゃないか!』となるんです。わかりますか? 負けちゃったら大変ですよ。敗戦国としてひどい目にあう。だから『前は勝てっこないなんて言っていたけれど、もう勝ってもらうしかない』となるんです」
また、前掲神奈川新聞のインタビューでは、こう語っていた。
「『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にかもっていく。あの戦争の負け方と同じです」
そして、高畑監督はだからこそ、「ズルズル体質」のストッパーとなる存在、つまり憲法9条にこだわっていた。高畑監督は、日本国憲法を勝手な解釈で骨抜きにし、さらには、その意義を根底から覆そうと企む安倍政権の動きに対して、このように語っていた。
「日本がずっとやってきた“ズルズル体質”や、責任を取らせない、責任が明確にならないままやっていくような体質が、そのまま続いていくに決まっている。そうしたら、歯止めがかからないのです。だから絶対的な歯止めが必要。それが、9条です」(前掲した武蔵野市の講演会)
「『普通の国』なんかになる必要はない。ユニークな国であり続けるべきです。 戦争ができる国になったら、必ず戦争をする国になってしまう。閣議決定で集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に直面しているのではないでしょうか。あの戦争を知っている人なら分かる。戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。始めてしまえば、私たちは流されてしまう。だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが必要なのです。それが9条だった」(前掲・神奈川新聞インタビュー)
高畑監督の危機感と、護憲の姿勢は、けっして理想論ではなく、シビアでリアルな視点から出てきたものだ。だからこそ、高畑監督は精力的な作品づくりの一方で、アクティビストとしての活動を始めたのだろう。
しかし、これだけの行動をとりながらも、その結果として、高畑監督が吐露したのは、圧倒的な「無力感」だった。前述した昨年4月の映画監督・三上智恵氏とのトークイベントでこのように語っている。
「なんとかしなきゃと言いながら、無力感が強いですね。安倍政権には(自衛隊南スーダン派遣の)日誌のことも、森友学園も、すごい不祥事が続いていて、でも、なんでそんなことになっているのかを考えたら、えらいことでしょう? 『政権を維持するため』ですよね、簡単に言えば。忖度であれ、なんであれ、どういうメカニズムかは知りません。もちろん、それは改善する必要があるんでしょうが、しかしどっちにしても、それを支えようという力があれだけ働いているのが露骨にわかるにもかかわらず、これで崩れないというのは、もうちょっと考えられない。本当に信じられない」
わたしたちは高畑監督が素晴らしいアニメーション作品を残してくれたことにあらためて感謝するとともに、この無念の言葉をもう一度、噛みしめる必要がある。
(編集部)
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【https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/226756】
沖縄の現状に思い寄せ アニメ巨匠・高畑勲監督の“遺言”
2018年4月7日
(高畑勲監督(C)共同通信社)
肺がんのため5日に死去した、日本を代表するアニメーション監督・高畑勲さん(享年82)。終戦前後の混乱を生きる兄妹を描いた「火垂るの墓」などメッセージ性のある作品が多く、反戦・反核の人だったが、とりわけ強い思いを寄せていたのが沖縄の現状である。
高江の米軍ヘリパッド建設の中止を求めて米大統領へ送った公開書簡の賛同者に名を連ねたり、ヘリパッド建設の警備に警視庁が機動隊員を派遣したことを「違法な公金支出」だとした住民訴訟の原告団にも加わった。
2015年12月に沖縄大学で講演した際には、辺野古の新基地建設について「許し難いひどい話」、沖縄県に米軍基地の負担が集中していることについて「後ろめたい」などと話していた。琉球新報のインタビューでこう語っている。
「沖縄と政府は裁判になっているが、(沖縄は)当然のことをしている。私としては全部支持する」
「日本は70年間、戦争をせずに済んだ。一方で沖縄を米国に提供して犠牲にし、日本は多額なお金を米国に提供してきた。米国は戦後、日本を軍隊として戦争に協力させたかったと思う。できなかったのは憲法9条を日本が持ち、それを支持した日本国民がいたからだ」
「沖縄が戦後ずっと大変な目に遭い続けてきたことが、日本に70年間の平和をもたらした。9条を日本国民が支持したから70年間平和になった、と簡単に言えないのではないか。『後ろめたい』とはそういうことだ」
安倍政権の5年で、沖縄の“孤立”はますます深まった。9条改悪にも手を付けようとしている。高畑監督の言葉に、安倍首相も少しは耳を傾けたらいかがか。
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『LITERA 本と雑誌の知を再発見』(http://lite-ra.com/)の記事【反戦のふりをした戦争肯定映画『永遠の0』にだまされるな! 本当の反戦とは何か、ジブリ高畑勲監督の言葉をきけ!】(http://lite-ra.com/2015/07/post-1342.html)。
「『永遠の0』を反戦だと思い込んでる方にぜひ読んでいただきたい記事がある。スタジオジブリの高畑勲監督の反戦への思いを紹介した記事だ。高畑勲監督といえば、戦争孤児を描いた『火垂るの墓』が有名だ。戦争の悲惨さを描いた同作は、海外からの評価も高く、公開から20年近く経ったいまなお“反戦映画”の名作として受け継がれている。ところが、当の高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない、『火垂るの墓』では戦争を止められない」と語っているのだ。高畑監督のいう、本当の反戦とは何か・・・・・・高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する・・・・・・実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた・・・・・・本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる」。
『●アベ様の「誇りある国へ」=
戦争で「殺す側になる」「人殺しに加担する」、でいいのか?』
アベ様の「誇りある国へ」とは、戦争で「殺す側になる」「人殺しに加担する」ということだ。高畑勲監督の言う「「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる」、大事な視点だ。
『●高校生による壊憲法案反対デモ:
赤紙を受け取る側の論理、人殺しに加担させられる側の論理』
『●自民党の武藤貴也衆院議員: 赤紙を送る側の(非)論理、
人殺しに加担させる側の(非)論理』
同じようなことが、東京新聞の【【社説】 鶴見俊輔さん 民衆の中によみがえる】(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/editorial/CK2015080202000151.html)によると「鶴見俊輔さん・・・・・・「非暴力直接行動」を掲げて、「ベ平連(ベトナムに平和を!市民連合)」に参加し、「九条の会」の呼び掛け人になった。行動という枝葉、思想という幹の根元には「反戦」という土壌があった。大戦中は海軍軍属の通訳として、ジャカルタなどに送られた。「戦争中に私は、生き残りたいと思ったことはない。殺したくない。ただそれだけだった」(「戦争が遺したもの」)と語っていた」。
自民党の武藤貴也衆院議員の唱える「赤紙を送る側の(非)論理」、「人殺しに加担させる側の(非)論理」に乗せられてはいけない。
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【http://lite-ra.com/2015/07/post-1342.html】
反戦のふりをした戦争肯定映画『永遠の0』にだまされるな! 本当の反戦とは何か、ジブリ高畑勲監督の言葉をきけ!
【この記事のキーワード】スタジオジブリ, 百田尚樹, 編集部 2015.07.31
本日『永遠の0』が地上波初放送された。『殉愛』や「沖縄の新聞はつぶせ」発言ですっかりトンデモ評価を定着させた百田尚樹だが、この『永遠の0』だけはすばらしいという人が少なくない。
本サイトでは『永遠の0』が戦争賛美のファンタジーであることを繰り返し指摘しているが、「読まずに、百田だからレッテル貼りで戦争賛美と言ってるだけ」「『永遠の0』は戦争の恐ろしさを描いている」「命の大切さを訴えている」だから、『永遠の0』は反戦映画である、という声が変わらず多い。作者の百田自身も、「戦争賛美ではない」と主張している。
しかし、『永遠の0』を反戦だと思い込んでる方にぜひ読んでいただきたい記事がある。スタジオジブリの高畑勲監督の反戦への思いを紹介した記事だ。高畑勲監督といえば、戦争孤児を描いた『火垂るの墓』が有名だ。戦争の悲惨さを描いた同作は、海外からの評価も高く、公開から20年近く経ったいまなお“反戦映画”の名作として受け継がれている。
ところが、当の高畑監督は「『火垂るの墓』は反戦映画じゃない、『火垂るの墓』では戦争を止められない」と語っているのだ。
高畑監督のいう、本当の反戦とは何か。この高畑監督の言葉を紹介した記事を再録するので、『永遠の0』で涙を流しているヒマがあったら、読んであらためて考えてもらいたい。
(編集部)
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ついに日本時間の23日、第87回アカデミー賞が発表になる。注目は、長編アニメ映画部門賞にノミネートされている高畑勲監督作品『かぐや姫の物語』の行方。長編アニメ映画部門で日本人がノミネートされるのは、宮崎駿監督以外でははじめてのこと。さらにもし受賞すれば、2002年の『千と千尋の神隠し』以来2度目の快挙となる。下馬評では『ヒックとドラゴン2(仮題)』の受賞が有力視されているが、『かぐや姫の物語』の群を抜いた芸術性によって、高畑監督は世界から視線を集めているといっていいだろう。
高畑監督といえば、1988年に日本で公開された『火垂るの墓』が海外でも高い評価を受け、イギリスでは実写映画化される予定も。いまなお“反戦映画”として引き継がれている名作だが、じつは、高畑監督はこの自作について意外な認識をもっているらしい。
「『火垂るの墓』は反戦映画と評されますが、
反戦映画が戦争を起こさないため、止めるためのもの
であるなら、あの作品はそうした役には立たないのではないか。
そう言うと大抵は驚かれますが」
このように答えているのは、今年の元旦、神奈川新聞に掲載されたインタビューでのこと。
しかし、『火垂るの墓』を観たときに多くの人が抱くのは、なんの罪もない幼い兄妹・清太と節子が戦争に巻きこまれ、死に追いやられることへのやり場のない怒りと悲しみだ。そして、やさしいはずの親戚さえ手を差し伸べなくなるという、戦争のもうひとつの恐ろしさを知る。死にたくない、殺されたくない、あんなひもじい思いは絶対にしたくない──そういう気持ちが生まれる『火垂るの墓』は反戦映画だと思っていたし、実際、学校などでも「戦争という過ちを犯さないために」という理由で『火垂るの墓』が上映されることは多い。
それがいったいなぜ役に立たないのか。高畑監督はこう語っている。
「攻め込まれてひどい目に遭った経験をいくら伝えても、
これからの戦争を止める力にはなりにくいのではないか。
なぜか。為政者が次なる戦争を始める時は
「そういう目に遭わないために戦争をするのだ」
と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。
惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、
感情に訴えかけてくる」
そう。高畑監督にいわせれば、「死にたくない」だけではダメだというのだ。むしろ逆に、「死にたくない、殺されたくない」という感情につけ込まれて、再び戦争は始まるものだと指摘する。
これを聞いて思い出したのが、百田尚樹氏やその支持者がしきりに口にしている『永遠の0』=反戦小説論だ。
先日、本サイトでも検証していたように、『永遠の0』は反戦でも何でもない、明らかな戦争賛美ファンタジー小説だ。軍上層部を批判してはいるが、こうすれば勝てたのにと作戦内容を糾弾しているだけで、戦争を始めたこと自体は一切批判していない。「死にたくない」というのが口癖の人物を主人公にし、特攻隊員が生命をかけていることについては悲劇的に描いているが、彼らが米軍機を容赦なく撃ち落としていることはまるでスポーツ解説でヒーローを褒め称えるように全面肯定している。
つまり、百田たちはこの程度のものを「私は『永遠の0』で特攻を断固否定した」「戦争を肯定したことは一度もない」「『永遠の0』は戦争賛美じゃない、反戦だ」と強弁しているのだ。
それに比べて、あれだけリアルに悲惨な戦争の現実を描きながら、自作のことを「反戦の役に立たない」という高畑監督のシビアさはどうだろう。
だが、高畑監督の言うように、死にたくない、殺されたくないというのは、一見、戦争に反対しているように見えて、それだけで戦争を抑止する力にはならない、というのは事実だ。
死にたくない、というだけなら、その先には必ず、死なないために、殺されないために相手を殺す、という発想が出てくるからだ。さらに、存在を放置しておいたら自分たちが殺される、という理由で、先に攻撃を加えるようになる。
実際、これまでの多くの戦争が「自衛」という名目で行われてきた。日本国憲法制定時の総理大臣・吉田茂は「国家正当防衛権による戦争は正当なりとせらるるようであるが、私は斯くの如きことを認むることが有害であると思うのであります。近年の戦争は多くは国家防衛権の名に於て行われたることは顕著なる事実であります。」と言ったが、先の戦争はまさにそうだった。日本はアジア各国で『火垂るの墓』の清太と節子と同じように罪のない人たちを戦争に巻きこみ、日本兵が殺されたように他国の兵隊や一般市民を殺してきたのだ。
それは最近の戦争も変わらない。いや、ありもしない大量破壊兵器の存在を名目にアメリカが始めたイラク戦争のように、「殺されたくないから先に殺す」という傾向はますます強くなっている。自分は安全な場所にいてミサイルのスイッチを押すだけなら、戦争してもいいというムードさえ出てきている。
本当の意味で戦争をなくそうとするなら、「死にたくない」だけでは足りない、「人を殺したくない」という気持ちこそが、はじめて戦争の抑止力となる。おそらく高畑監督はそう言いたかったのだろう。
だが、残念ながら、この国はまったく逆の、百田的な方向に向かっている。「殺されたくない」という人の気持ちを利用して、集団的自衛権の行使容認や憲法9条の改正を目論む安倍首相をはじめとする勢力と、彼らがつくり出している空気に、いま日本は覆われようとしている。
高畑は同インタビュ―でそうした動きについても踏み込んで、つよく批判している。
「「戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。
われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う」
とも言うでしょう。本当でしょうか。私たちは戦争中の
人と比べて進歩したでしょうか。3・11で安全神話が
崩れた後の原発をめぐる為政者の対応をみても、
そうは思えません。成り行きでずるずるいくだけで、
人々が仕方がないと諦めるところへいつの間にか
もっていく。あの戦争の負け方と同じです」
そして、高畑は“憲法9条があったからこそ、日本は戦争によって殺されることも、だれかを殺すこともしないで済んできた”と言う。それがいま、安倍首相によって崩されようとしていることに強い懸念を示すのだ。
「(憲法9条が)政権の手足を縛ってきたのです。
これを完全にひっくり返すのが安倍政権です。
それも憲法改正を国民に問うことなく、
憲法解釈の変更という手法で、です」
「「普通の国」なんかになる必要はない。
ユニークな国であり続けるべきです。
戦争ができる国になったら、必ず戦争を
する国になってしまう。閣議決定で
集団的自衛権の行使を認めることによって9条は突如、
突破された。私たちはかつてない驚くべき危機に
直面しているのではないでしょうか。
あの戦争を知っている人なら分かる。
戦争が始まる前、つまり、いまが大事です。
始めてしまえば、私たちは流されてしまう。
だから小さな歯止めではなく、絶対的な歯止めが
必要なのです。それが9条だった」
高畑がその才能を見出し、ともにライバルとしてスタジオジブリで切磋してきた同志・宮崎駿も、先日、ラジオで改憲に踏み切ろうとする安倍首相への危機感と9条の重要性を口にした。だが。映画界の世界的な巨匠ふたりが揃って発するメッセージを、安倍政権がまともに相手にすることはないだろう。
しかし、それは結局、わたしたちの選択の結果なのだ。高畑はこの国の国民のメンタリティについてこんな懸念を表明している。
「(先の戦争について)いやいや戦争に協力させられた
のだと思っている人も多いけれど、大多数が戦勝を祝う
ちょうちん行列に進んで参加した。非国民という言葉は、
一般人が自分たちに同調しない一般人に向けて使った言葉です。
「空気を読む」と若者が言うでしょう。私はこの言葉を
聞いて絶望的な気持ちになります。私たち日本人は
昔と全然変わっていないんじゃないか、と。
周りと協調することは良いことですが、この言葉は
協調ではなくて同調を求めるものです。歩調を合わせる
ことが絶対の価値になっている。(中略)
古くからあるこの体質によって日本は泥沼の戦争に
踏み込んでいったのです。私はこれを「ズルズル体質」と
呼んでいますが、「空気を読む」なんて聞くと、これからも
そうなる危うさを感じずにはいられません。」
(酒井まど)
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gendai.netの三つの記事【都知事選で田母神氏支援…老いぼれた石原慎太郎は引退せよ】(http://gendai.net/articles/view/news/147092)と、
【「原発ゼロなら五輪返上」ハタ迷惑な森喜朗の“ご乱心”】(http://gendai.net/articles/view/news/147354)、
【「永遠の0」の百田NHK経営委「田母神氏に投票」で物議】(http://gendai.net/articles/view/geino/147421)。
『●『自然と人間』(2013年8月号、Vol.206)についてのつぶやき』
『●〝マニア〟が支える田母神俊雄氏こそ「国防上、極めて危ない!」』
『●ダブル党首選の街頭演説ネタ二題』
『●『ふたたび、時事ネタ』読了』
『●「憲政史上初となる珍事」: 〝日本〟vs〝日本〟』
『●『創(2009年11月号)』読了』
『●『創(2009年7月号)』』
『●『創(2009年6月号)』(1/2)』
ますます異常な行動の元東京「ト」知事殿・・・・・・。はた目には、足を引っ張ってるとしか見えないのですけれどね。「晩節は汚れすぎた」って、「汚れていない」晩節に至るまでの氏の人生ってどこら辺なのだろう?
一方、「サメ脳」と呼ばれた氏もご乱心。「「原発を人質にしている。卑怯だ」「原発ゼロなら五輪返上」」。ならば、原発を止めて、五輪も返上しましょうょ。今なら、返上しても迷惑を掛けませんよ。原発を再稼働して、世界に迷惑かけるよりもはるかにマシ。
そして、田母神俊雄氏を熱烈に支持している百田尚樹氏。書店員にモテモテで、映画でも人気のあるらしい・・・・・・百田氏の「思想」が分かろうというもの。こういうマニアがねぇ・・・・・田母神俊雄氏を支えている訳です。
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【http://gendai.net/articles/view/news/147092】
都知事選で田母神氏支援…老いぼれた石原慎太郎は引退せよ
2014年1月8日 掲載
田母神俊雄・元航空幕僚長(65)が、7日正式に都知事選への出馬を表明した。「都民の安心・安全のために、自衛隊中心の救助体制を整える必要がある」と主張し、“軍国主義”を防災に隠して支持を広げる戦略のようだ。応援団は、作曲家のすぎやまこういち氏など、自らを「危険人物」と自己紹介するようなウルトラライトがズラリ。その筆頭が石原慎太郎・日本維新の会共同代表(81)なのだが、永田町では、このところのモーロクぶりがヒド過ぎると評判になっている。
「話のキャッチボールがまともにできないんです。自分の話を始めると、
どんどん脱線し、延々と昔話を続ける。会議でも記者会見でも、
みんな『また始まった』とうんざりしています。TVでは発言を短く切って
放送するので、まだしっかりしているように見えますが、“ボケ老人”
そのものですよ」(維新関係者)
■昔話を延々と…
7日の田母神の会見でも、午後2時スタートなのに「歩くのが遅い」(関係者)からか、15分も遅れて会場に到着。20分の応援スピーチでは、「自衛隊に交戦規定がないのはおかしい」という持論を展開し、それに関する冷戦時代の昔話をダラダラ続けていた。
東京都は地方自治体だ。福祉や教育、街づくりといった重要テーマが目白押しで、国防は自治体の仕事ではない。石原は仮にも元都知事だから、そんなことわかっていて当然だが、モーロクした頭はもはや「尖閣」や「中国」のことしか考えられないようだ。
「一昨年の総選挙で大阪の橋下市長と組んで日本維新の会をつくった時は、
石原さんは自民党がここまで大勝するとは思わず、連立して総理に
なるつもりでした。最後の賭けに出たものの失敗。その後は燃え尽き
症候群の抜け殻として、ただ存在しているだけです。昔話しかできず、
何のために維新の共同代表をやっているのかもよくわからなくなっている。
今回の田母神氏の応援についても党内にまったく根回しせず、
勝手に動いた。維新内部は『田母神支持なんて、とんでもない』と不満が
噴出し、慌てて都知事選を『自主投票』に決めたほどです。体力の問題も
ありますし、このままでは石原さんは、年内にも議員辞職することに
なるんじゃないでしょうか」(政治評論家・浅川博忠氏)
田母神の会見は1時間半近く続き、石原は後半、イスに座った姿勢で頭を前後させフラフラだった。石原老人の晩節は汚れすぎた。一日も早く、引退した方がいい。
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【http://gendai.net/articles/view/news/147354】
「原発ゼロなら五輪返上」 ハタ迷惑な森喜朗の“ご乱心”
2014年1月20日 掲載
こっちの方がよっぽど「ご乱心」だ。
森喜朗元首相(76)が細川護煕元首相(76)への“バッシング”をエスカレートさせている。
東京五輪組織委員会会長に決まった途端、「原発を人質にしている。卑怯だ」と細川を“口撃”していたが、先週18日のテレビ番組では「原発ゼロなら五輪返上」とさらに踏み込んだ。原発の有無と五輪が、なぜ結び付くのか理解不能だが、歴代首相の中でも最低といわれる「サメの脳みそ」の頭では合点がいくらしい。しかし、森が本気で「五輪返上」を思っているなら、この男はやはり五輪組織委のトップは「失格」だ。
■招致委は「原発ゼロでもOK」と資料作成
「東京五輪招致委が作成した立候補ファイルで、電力供給のくだりが
出てきます。今のような原発稼働ゼロの状況でも大会運営が可能なのか
――というIOCの懸念に答えた内容で、招致委は<火力発電所の増設や、
火力発電所の新設>などを挙げ、<既存の配電システムで対応することが
できる>としています。その上、わざわざ<東京都内において、東電が
所有している原発は存在しない>とも強調している。つまり、招致委は
原発ゼロでも<供給能力は十分足りる>とアピールしていたワケです。
今さら<原発ゼロなら五輪返上>と言われても、IOCは<ハテ?>でしょう」
(都政担当記者)
検索大手「ヤフー」は森の発言をどう思うかをアンケート調査している。19日午後5時の時点で寄せられた回答は「納得できない」が約12万件で、「納得できる」(約4万件)の3倍。書き込まれた意見も「オリンピックに政治を持ち込むなら森が辞めればいい」「五輪を人質にして脅してるようにしか聞こえない」と至極まっとうなものばかりだった。
仮に森が会長のまま東京五輪を迎えたら、各国の要人に「Who are you?」とやりかねない。それこそ日本人は世界中の笑いもの。一刻も早くこの男を「コントロール」するべきだ。
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【http://gendai.net/articles/view/geino/147421】
「永遠の0」の百田NHK経営委「田母神氏に投票」で物議
2014年1月22日 掲載
不偏不党をうたうNHKの経営委員がこんな人物でいいのか。
上映中の映画「永遠の0」の作者で、昨年11月にNHKの経営委員に就任した作家の百田尚樹氏(57)のツイッター上の発言が物議を醸している。発言は、都知事選に対する今月18日のもの。
「私は関西在住だが、舛添にも細川にも、東京都の知事にはなって
ほしくないと思っている。もし私が東京都民だったなら、
田母神俊雄氏に投票する」
もちろん、ツイッターは自分の考えを自由に書き込んでいい場所だが、NHK経営委員という立場の百田氏には慎重さが求められてしかるべきだろう。そこらのアンちゃんとは違うのだ。
なにしろ、経営委員は、NHKの予算や事業計画を決め、会長の人事権も握るという強大な権限がある。そんな人物が田母神支持を訴えれば、職員の中には動揺する人も出てくるかもしれない。NHKの放送にも影響を与えるだろう。
当然、百田氏の発言後、「不偏不党を定めたNHK経営委の服務準則に違反するのではないか」「経営委から外すべきだ」といった声がNHKにも多数寄せられている。
ただし、これらの意見に対して百田氏が、同じツイッター上で「まとめて答えてやる。いいんだよ!!」と挑発する発言を繰り返したから、また火に油を注ぐ結果に……。何というか、アンちゃんレベルの人のようだ。
そもそも、百田氏が経営委員になれたのは、お友だちの安倍首相の強い推薦があったからこそ。その安倍率いる自民党は、舛添の支援を決めているから、首相も苦虫を噛み潰しているに違いない。
この人の“資質”についてNHKはどう思っているのか。
「経営委員の服務準則の第2条に<公正、不偏不党>の文言はありますが、
これは放送が主語で、今回の発言はとくに抵触しません。経営委員の
方々の政治活動を禁じている条文もございませんし、むしろさまざまな意見を
持った人にお願いしている。したがって、解任ということにはなりません」
とはいえ、公明正大を監視する“審判”が偏っていては話にならない。NHKがこんな人物を叩き出せないようなら、それこそ天下のNHKの名折れだ。
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