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●映画『放射線を浴びた『X年後』』: 「こんな巨大な事件が、・・・日本人としての資質が問われる」

2013年02月16日 00時58分32秒 | Weblog


レイバーネット日本(http://www.labornetjp.org/の『●木下昌明の映画の部屋』から(http://www.labornetjp.org/Column/20121211。東京新聞の記事(http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012082290070613.html)とコラム「筆洗」(http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2012091302000110.html。最後に、映画『放射線を浴びた『X年後』』のWPから(http://x311.info/message/、http://x311.info/keyword/)。

   「こんな巨大な事件が、全体像が明らかにされないまま現代史に
    埋没するなんてことは、日本人としての資質が問われる」

 こんな事件があったなんて、衝撃的。まったく知らなかった。1年ほど前に「NNNドキュメント」で映画の原本と云えるものが放映されたらしいが、覚えていないということは、見損ねたのか。
 第五福竜丸だけではなく、しかも日米両政府の「密約」があったというのが驚き。

   「たとえば「第二幸成丸」の乗組員20人中17人が、「新生丸」では
    19人中17人が死亡している。それなのに米政府は、200万ドルの
    慰謝料を支払うことで“完全解決”を図り、日本政府が受諾し、
    一切の調査を打ち切って隠蔽した。翌年から、すべての魚が無検査で
    全国の食卓にのぼった」・・・・・・。

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http://www.labornetjp.org/Column/20121211

木下昌明の映画の部屋・第153
伊東英朗監督『放射線を浴びたX年後』

「第五福竜丸」事件の実態暴く――フクシマ「X年後」の未来は……

 「3・11」以降に見た放射能問題を扱った数多くの映画のなかでも、伊東英朗監督の『放射線を浴びたX年後』は刺激的だった。一つの事件を介して、日本人とその社会のあり方を問うていたからだ
 この作品は今年1月「NNNドキュメント」で放映されたテレビ番組を、新たな映像を加えて映画用に編集し直したドキュメンタリーである。1954年、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」がビキニの水爆実験によって被曝した事件を扱っている。この事件が、戦後文化の象微となったゴジラ映画誕生のヒントとなったことはよく知られている。
 だが、実は被曝したのは1隻だけでなく992隻に上った。しかも、船員の多くは若くしてがんで人知れず亡くなっていた。たとえば「第二幸成丸」の乗組員20人中17人が、「新生丸」では19人中17人が死亡している。それなのに米政府は、200万ドルの慰謝料を支払うことで“完全解決”を図り、日本政府が受諾し、一切の調査を打ち切って隠蔽した。翌年から、すべての魚が無検査で全国の食卓にのぼった。
 この事件を、高校教師の山下正寿とその教え子たちが28年かけて調査、記録していた。そのことを知った南海放送の伊東監督は調査に参加するとともに独自に船員家族の取材を始める。埋もれていた実態が次々と明るみに出てくるこのシーンが見どころだ。
 また映画は、米国から入手した機密文書によって、日本全土が放射性降下物「死の灰」に覆われていた実態も図面によって明らかにする。米国は、日本の米軍基地で死の灰を予知し、観測していたのだ。
 山下は語る。「こんな巨大な事件が、全体像が明らかにされないまま現代史に埋没するなんてことは、日本人としての資質が問われる」と。
 この映画から、フクシマの「X年後」が見えてきて誰しも愕然となろう。
 映画は現在、全国で自主上映されているが、東京では今年の目玉の一つとして上映される。フェスタは、映画や音楽を通じて身近な労働や生活を見つめ直す趣旨で毎年開かれている。他に、中川五郎のライブや3分ビデオ大会など。
木下昌明/『サンデー毎日』 2012年12月23日号)

「レイバーフェスタ」は12月15日午前10時30分~ 新宿区大久保のR’sアートコートで。
問い合わせは、℡ 03-3530-8588

〔付記〕 再録にあたって、若干の加筆をした。
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http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2012082290070613.html

ビキニ水爆実験 調査続ける元教諭 死の灰1000隻に 恐怖今も
2012年8月22日 07時06分

 一九五四年の米軍のビキニ水爆実験では、第五福竜丸だけではなく、約一千隻ものマグロ漁船が死の灰を浴びた。高知県宿毛(すくも)市の元高校教諭山下正寿さん(67)は三十年近く調査を続け、船員たちが長く健康被害に苦しみ、がんなどで亡くなった実態を明らかにした。「核の恐怖は三十年後、四十年後でないと分からない」。福島という核の体験を重ねたこの国で命の重みを問い続ける。 (森本智之

 二十一日の東京・築地市場の正門近く。被ばくマグロが大量廃棄されたことを伝える金属板に、足を止める観光客はいない。「寂しいですね」と山下さんがつぶやいた。
 終戦四十年に当たる八五年夏。社会科教諭だった山下さんは高校生らと地元の原爆被爆者への聞き取りをした。年老いた女性から「長崎で被爆した息子はビキニでも被ばくし、最後は自殺しました」と聞いた。
 爆心地から一・八キロの長崎市の自宅で被爆。宿毛に移り住み、母子家庭を支えるためマグロ漁船に乗り始めたという。戦後復興のため「沖合へ遠洋へ」と国が旗を振った時代。貧しい港町でほとんど唯一の高収入を得る手段だった。航海を重ねるうち、のどの痛みなどを訴えるようになり、入院先の神奈川県で海へ身を投げた。二十七歳だった。
 「第五福竜丸の他に死の灰を浴びた人がいた。それも身近に」。当時の新聞記事や公文書を調べると、計六回の水爆実験の際、付近で操業していたマグロ漁船は帰国後、被ばく検査を受けた。マグロの廃棄を求められたのは九百九十二隻。三分の一に迫る約二百七十隻は高知県船籍だった。日米両政府は二百万ドル(当時のレートで七億二千万円)の慰謝料で決着。その後、船員の健康調査は行われていない
 山下さんたちは突き動かされるように、県内の漁村を訪ね歩く。偏見や風評被害を恐れ沈黙していた船員たちも口を開き始めた。航海中、汚染された雨水を飲み、被ばくマグロを食べていた。「きのこ雲を見た」「白い粉が降ってきて口に含んだ仲間が、血を吐いて死んだ」という証言をいくつも得た。
 身元が判明した百八十七人中、四十人は死亡していた。大半は六十代前後。うち十三人ががんだった。「マグロ漁師は早死にする」とうわさされる地域もあった。
 元船員らの団体をつくるなどして補償を国や県に求めた。「因果関係が不明」と相手にされない中、元船員らは相次いで亡くなった。今も調査は続ける。
 東京電力福島第一原発の事故後も「放射能の直接的な影響で亡くなった人はいないという論で再稼働を求める動きがあることに、市民の被害を過小評価する姿勢は変わっていないと危惧する。
 今夏、自身の前立腺がんが分かった。この日、東京を訪れたのも治療のためだ。「核実験でがん患者の数が増えていると警鐘を鳴らしてきた。その私ががんにかかるとは『もっと頑張れ』と誰かに言われているような気がする」

<ビキニ水爆実験> 1954年3~5月、米国が南太平洋ビキニ環礁などで計6回行った。放射性物質を含む死の灰が広範囲に降り、近くで操業していた静岡県焼津市のマグロ漁船「第五福竜丸」の無線長久保山愛吉さんは急性放射線障害で死亡した。この年を含め、米国は周辺海域で原水爆実験を繰り返しており46~58年に計67回行った

(東京新聞)
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http://www.tokyo-np.co.jp/article/column/hissen/CK2012091302000110.html

【コラム】
筆洗
2012年9月13日

 米国は一九五四年、太平洋のビキニ環礁などで、六回もの水爆実験を繰り返した。無線長だった久保山愛吉さんが亡くなった「第五福竜丸」以外にも、多くの日本の漁船が「死の灰」を浴びたことはほとんど知られていない▼同じ海域で数多くのマグロ漁船が操業していた。二百七十隻は高知県の船だった。闇に葬られそうだった事実を発掘しようと、高校の教員だった山下正寿さんは三十年かけて、生徒とともに漁村を訪ね歩き、聞き取りを続けた▼調査の過程で二百人以上の元船員の消息が分かった。健在なら五十代から六十代のこの時期に、三分の一の人はすでにがんなどで亡くなっていたという▼山下さんの調査の足跡を丹念にたどり、生存している元船員や遺族への取材を重ねた南海放送(松山市)のドキュメンタリーが映画になった。「放射線を浴びた『X年後』」。十五日から東京都内で上映が始まる▼なぜ、被曝(ひばく)の記憶が消えたのか。船員には米国からの補償金は届いたのか。歴史の底に沈む闇を照らそうとするジャーナリズムの熱意が伝わる。山下さんの執念が、地方のテレビ局に乗り移ったかのようだ▼南海放送が独自に入手した米国の原子力委員会の機密文書からは、日本全土が核実験の死の灰で覆われていた実態も明らかになる。福島第一原発の事故を経験した今、映像は重い問い掛けを発している。
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http://x311.info/message/

プロデューサー 大西康司

 はじめに、何故「もうひとつの第五福龍丸事件」を愛媛の放送局が?という疑問を持つ方が多いと思います。今から8年前、私にとっても1954年に起きたいわゆる'第五福龍丸事件'は遠く、歴史上の、そして教科書上の出来事に過ぎませんでした。しかし伊東英朗ディレクター(監督)が掴んできた「ビキニで被災した元マグロ漁船乗組員が、愛媛にもいるらしい」という思わぬ情報は「不思議な感覚」を私に呼び起こしました。それは歴史が'今'に生きている「不思議さ」であり、広島・長崎・第五福龍丸だけと思っていたこの国の被ばく者が、自分の近くに共存している「驚き」でした
 2004年から始めた取材。伊東ディレクター(監督)との約束事は一つ。それは、被取材者と近い位置にいるローカル局制作者として「一人の人間の'痛み'を忠実に丁寧に描くこと」によって、「個人と国家」の関係が問われるこの事件の実態・本質に迫っていこう、ということでした。そう、「一人の人間に寄り添うことから本質へと迫る」…これはローカル局の'限界'ではなくローカル局だからできる'可能性'なのです。手探りの中、ひたすら、ひたすら現地を訪ね、一人一人の証言を積み重ねていく取材…「小さな井戸を掘り続け、それを'普遍'につなげていく」…8年の取材を重ねる中、社の理解を得てローカルで粘り強く放送を続けることができたこと、そして何より日本テレビ系「NNNドキュメント」で2回に渡り全国放送できたことが、この'小さな井戸'を掘り進んでいく大きな勇気となりました。
 そんな取材の集大成として突き進んだ映画化。
 この映画が発掘した事実を'一人'でも多くの方に知って欲しい。
 この映画を見て頂いた'一人'が、その立場や考え方を超えて噛みしめて欲しい。
 この映画を'一人''一人'にしっかりと届けたい。
 …'一人'の人間にこだわる私達の願いです。
 最後に、南海放送というローカル局が'テレビ'というメディアを超え'映画'に挑戦する試みが可能になった背景には、日頃「メディアとメディアの新しい組み合わせ」を積極的に推進してきた南海放送トップの後押し、様々な現場の仲間による社を挙げての協力・応援がありました。そして勿論、'映画'という未知の航海への'灯台'となって頂いた 日本テレビ系「NNNドキュメント」関係者の皆様のご指導、御協力があったればこそです。改めて深く感謝致します。

大西 康司【プロフィール】
 昭和57年南海放送入社。以来、様々な番組を制作、プロデュースを行う。報道情報本部制作部長などを経て、現在 執行役員テレビ局長。


監督 伊東英朗

『高校生で訪れた広島』
 原爆で焼かれた一人ひとりの壮絶な死を知り、その苦しみに自らを重ね合わせた時、深い絶望と強い怒りを覚えた。10代だった僕はその思いを「忘れること」は、加害と同じだと考えた。以来、折にふれ広島を訪れるようになった。そしていつからか「忘れない」ではなく「何かできることをしたい」と思うようになった。

『8年前』
 インターネットで番組リサーチをしていた時。元高校教師 山下さんの活動を伝える記事が目に飛び込んできた。『…第五福竜丸以外の多くの被ばく船を調査…』「第五福竜丸以外の船?そんな話聞いたこともない。僕だけが知らないことなのか。」まるで狐につままれたような感覚だった。

『確かめたい』
 番組制作を共にやってきたプロデューサーの大西と、4時間をかけ高知県の山下さんを訪ねた。山下さんは静かに語り始めた。「多くのマグロ漁船、貨物船が被ばくし、汚染された魚が水揚げされ食卓に運ばれた。いつしか事件は第五福竜丸事件として記憶された」と言う。それまで当たり前のように使ってきた「広島、長崎、唯一の被ばく国というフレーズは正確ではなかった。「なぜ事件が記憶から消え去ったのか」僕は、その理由をこの手で解き明かしたいと思った。
 その日からこの事件の取材が始まった。抱えている番組制作の隙間を見つけては現場に通った。費用を節約するため山下さんの自宅を宿舎兼取材拠点とさせてもらった。カメラマンと2人、愛媛西部から高知東部まで300キロを何十回となく往復。被ばく者を訪ね歩く日々。時に怒鳴られ凄まれ、飯が喉を通らないこともあれば「よう来てくれたなあ、ありがとう。お父さんが生きとったらあんたら大歓迎するに。腹減っちゅうがやろ」とカレーをおご馳走になることも。取材で疲れた体で車を運転し会社まで4時間をかけ戻る。その繰り返し。その年2004年には、日本テレビ系列(NNNドキュメント)で全国の人にその事実を伝えることができた。以降、新事実が見つかるたびにローカルでの放送を繰り返した。しかし、番組が事件解明へつながることはなかった。

『乗組員の証言も積み重ねた』
 日米両政府の公的文書、調査記録も検証した。
しかし乗組員が被ばくしたことを裏付けることができないままだった。ところが2009年、米エネルギー省の機密文書を発見。放射性降下物が漁場を中心に拡大、日本全土までもが放射性降下物で覆われていたことが分かった。

『2011年3月11日』
 その日を境に人々の関心は放射能に集まった。「直ちに健康に影響はない」という言葉に疑心し、目に見えない放射線に怯え、風評被害が起こった。

   「ついにあの時がやってきた

テレビの前で呆然と立ち尽くす自分の姿がありった。

『人々に向けられる線量計』
 風で舞い上がり、雨で落下する放射性物質。セシウム、ストロンチウム、ホットスポット、シーベルト…専門用語が飛び交い、新聞紙上に、牛乳やお茶、魚、水などから放射線が検出されたと記事が踊る。風評被害が起こり、わずかの期間で政府は、終息宣言をした。
僕が、港を歩き老人や未亡人から聞いた半世紀前の話が、目の前で起こっていることと重なる。心の中で叫んでいた。

   「半世紀前に身の回りで同じことが起こっていたんだ。
    皆知らないのか
    同じ轍を踏んではいけない。」

 過去の被ばく事件を未清算のまま放置してはいけない。この事件を解明しなければ、今後起こりうる被害を防ぐことができない。
 2012年1月、日本テレビ系列(NNNドキュメント)で1時間番組として8年ぶり2回目となる放送を行った。全国から大きな反響を得、多くの若い世代が見てくれたことが分かった。

『今度は映画化』
 映画館での上映はもちろん、その後の小さな自主上映が調査などにつながって欲しい。それが僕の強くささやかな願いだ。事件はほぼ未解明なままだ。全国津々浦々にかつてマグロ船に乗った人がいる。生存していれば70歳台から80歳台。核実験は、太平洋だけとっても1954年から1962年まで続けられた。被害者の数は計り知れない。解明の第一歩となる被害の実態を調査し、救済の道筋をつけなければならない。小さな行動が積み重なれば光が見えてくると信じている。
 日本テレビ日笠プロデューサーには番組製作から映画化まで親身になってアドバイス頂いた。また、当時のマグロ漁をとらえた「荒海に生きる」、そして高校生たちの取り組みを記録した「ビキニの海は忘れない」などの映像によって、よりリアリティをもってビキニ事件の実相に迫ることができた。
 今、被ばく者たちは自らの死をもって被ばく事件のX年後を伝えている。僕らはそれを重く受け止め、事件を伝え続けなけれならない。
 人々が事件を知ることが、被ばく事件解明の一歩につながると信じている。

伊東 英朗【プロフィール】
 1960年愛媛県生まれ。16年間公立幼稚園で先生を経験後、テレビの世界に入る。東京で番組制作を経験した後、2002年から地元ローカル放送局 南海放送で情報番組などの制作の傍ら、地域に根ざしたテーマでドキュメント制作を始める。2004年ビキニ事件に出会い、以来、8年に渡り取材を続ける。
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http://x311.info/keyword/

ビキニ水爆実験
 米国が1954年3月1日から5月まで、中部太平洋のマーシャル諸島ビキニ環礁で行った実験。キャッスル作戦と名付けられた実験は6回(うち1 回はエニウェトク環礁)。3月1日に爆発させた「ブラボー」は広島に落とされた原爆の1千倍以上の破壊力があるとされ、近海で操業中の第五福龍丸(乗組員23人)が被ばく。同年9月、無線長の久保山愛吉さんが死亡した。

ビキニ被災事件の補償問題に関する日本側書簡返信
 日本政府は、1954年12月、被ばくした魚は、人体に影響を及ぼすものではないとして、放射線の検査をすべて打ち切った。そして翌日からは、すべての魚が水揚げされた。その直後、日本政府とアメリカ政府は、公文書を取り交わしている。アメリカ政府が「完全な解決」を条件に、慰謝料として200万ドル(当時、日本円にして7億2千万円)を支払うという文書。日本政府は、その条件を受け入れ、事件は完全な解決とされた。慰謝料は、4分の3が、魚の廃棄や魚価が下がったことによる損害に、残りは、第五福龍丸乗組員の治療費などにあてることが閣議決定されている。

アメリカ原子力委員会の機密文書
 南海放送は2009年、アメリカエネルギー省から、水爆実験を所管した米原子力委員会の機密文書を入手。これは、米国気象局のロバート・J・リストが、1955年5月(実験のおよそ1年後)にまとめたNYO-4645と呼ばれるもので、非公開資料として長年機密扱いされてきた、しかし、1984年8月に一部の数値や文章を削除した状態で公開したものである。「キャッスル作戦からの世界的規模の放射性降下物」と題された機密文書には、世界規模の放射性降下物の広がりが記録されている。各水爆実験の広がりの他、1日毎の広がりが記録されている。この機密文書から、多くのマグロ漁船が放射性降下物に覆われた場所で操業していたこと日本全土が放射性降下物で覆われていたことが裏付けられることになった。また、この文書から、実験の1年前に、すでに122ヶ所のモニタリングポストが設けられていることが分かった。日本では、三沢や東京など5ヶ所。さらに広島や長崎ではABCCが利用され測定が行われていた。

山下正寿(やましたまさとし)と幡多ゼミ(はたぜみ)
 元高校教師の山下正寿氏らが顧問を務める高校生ゼミナール(1983年設立)。高知県幡多地区の高校生が主体となり「足もとから平和と青春を見つめよう」をモットーに、地域の現代史調査活動をしている。1985年から地域のビキニ事件を調査。その姿は「ビキニの海は忘れない」(1990年)で描かれた。
 教師になって高知に帰ってきた山下さんは、仲間の教師や教え子たちと共に、被災者の聞き取り調査を始め、高知県の沿岸部を3年に渡り調査した結果、消息が分かった乗組員は241人。生存していれば50代から60代のこの時期に、既に3分の1が死亡していた。被ばくした魚を水揚げした船は、東北から九州まで全国に渡っていた。その内、3分の1が山下さんの地元、高知船籍の船だった。山下先生は現在も、被災した乗組員たちに、被爆者健康手帳が交付されるように働きかけている。
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●原発と核兵器は同じ: 「怖いと思わなかった。何も知らなかったから」

2013年01月30日 00時00分21秒 | Weblog


東京新聞の記事(http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013012690070255.html)。

 「米国の水爆実験により被ばくした漁船「第五福竜丸」・・・元乗組員、大石又七さん(79)・・・福島第一原発事故後の日本を生きる若者たちに「原発も核兵器と同じ。なくさなければ安心して暮らせない。一人一人が考えて答えを出して」と訴えた」そうだ。
 「怖いとも思わなかった。何も知らなかったから」とも語ったそうだ。

 自民党の議員や彼らを支持する人たちは、東京電力原発人災で何も理解しなかったのか、知ろうとしなかったのか? 平気で原発を推進し、再稼働し、新規建設を進められる、その意識を理解できない。次に原発人災が起こっても「何も知らなかった」と答えるのだろうか・・・。

   『●戦争と原発: 伊丹万作さん「だまされるということ自体がすでに一つの悪である」
   『●『戦争の世紀を超えて』読了
   『●『だまされることの責任』読了(1/3)

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http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2013012690070255.html

来館500万人の第五福竜丸  「ビキニと福島  つながっている
2013年1月26日 07時02分

 太平洋のビキニ環礁で米国の水爆実験により被ばくした漁船「第五福竜丸」=写真=元乗組員、大石又七さん(79)=東京都大田区=が二十五日、都内の中学校で講演した。四十年にわたり八百回近く体験を語ってきたが、昨年四月に脳出血で倒れ、この日は約一年ぶりの講演。福島第一原発事故後の日本を生きる若者たちに「原発も核兵器と同じ。なくさなければ安心して暮らせない。一人一人が考えて答えを出して」と訴えた。 (小林由比)

 「怖いとも思わなかった。何も知らなかったから」。三輪田学園(千代田区)の講堂。中学二年生百七十二人を前に大石さんは、久しぶりの講演だからか、やや緊張気味に話した。
 福竜丸の冷凍士だった大石さんは当時、二十歳。早朝の暗がりに突然、光と赤みがかった色が船を覆った。数分後、ドドドドーというごう音。しばらくすると、白い粉が落ちてきた。放射性物質を大量に含んだ死の灰」。髪にも手にも付いた。
 二十三人の乗組員に頭痛や頭髪が抜けるなどの急性症状が現れ、半年後には久保山愛吉さん=当時(40)=が亡くなった
 「あの時、放射能の怖さ、内部被ばくの怖さ、平和の大事さを、ちゃんと説明できたはずだ」。元乗組員の半数以上が亡くなった今、大石さんは、自分たちの体験や警告が顧みられず、今なお世界中に核兵器が存在することを憂える。原発事故後は、より精力的に全国を回り、放射能や原発の危険性を訴えた。
 講演で大石さんは、A4判5枚の文章を生徒たちに手渡した。題は『ビキニの水爆と福島の原発はつながっている』。脳出血でリハビリ中、講演に行けなくても思いを伝えられるようベッドで書いた。
 この日、福竜丸を展示する都立第五福竜丸展示館(江東区)が来館者五百万人を突破。「それだけの重みを一般の人も感じているからだろう。大事なことを忘れない人は何%かいて、そういう人たちが世の中を守ってるのかな、という喜びがある」
 もう一つ、大石さんがうれしかったのは、展示館の学芸員市田真理さん(45)が共に舞台に立ち、対談形式で大石さんの言葉を引き出してくれたことだ。市田さんは大石さんの療養中、すでに予約が入っていた講演会で代理を務めてくれた。
 「史料に基づいた語りをしてくれる人がビキニ事件を伝えてくれていること、うれしく思っています」と大石さん。
 市田さんも「語り部・大石又七の、私は『語り継ぎ部』でありたい」と生徒たちに語った。

ビキニ事件> 1954年3月1日未明、米国は施政権下にあったマーシャル諸島ビキニ環礁で、広島に投下された原爆の約1000倍の威力の水爆「ブラボー」を使った実験を実施。公海上にいた静岡県焼津市の遠洋マグロはえ縄漁船「第五福竜丸」の乗組員や島民らが「死の灰」と言われる放射性物質を強く帯びた砂を浴びた。その後も実験は続き、同年末時点で太平洋で操業中だった日本漁船が少なくとも856隻被ばく、全国で水揚げされた魚が破棄された。

(東京新聞)
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●原発の父・正力松太郎のくだらない〝理由(わけ)〟

2011年07月23日 00時01分43秒 | Weblog


videonews.comからTHE JOURNALへの転載記事(http://www.the-journal.jp/contents/jimbo/2011/06/post_116.html)。

 そんないい加減な理由で、「原発の父」読売・正力松太郎氏が、原子力の安全利用・核開発を推進したなんて!? あきれます。そこに群がった政治屋や電力会社、その結果としてのFUKUSIMA。

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http://www.the-journal.jp/contents/jimbo/2011/06/post_116.html

正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか

マル激トーク・オン・ディマンド
532回(20110625日)
正力松太郎はなぜ日本に原発を持ち込んだのか
ゲスト:有馬哲夫氏(早稲田大学社会科学部教授)

 「原発の父」と呼ばれる正力松太郎は、独占的な通信網欲しさから原発を日本に持ち込み、田中角栄は利権目的で原発を利用した。こうして日本の原発は、その本来の目的とは乖離した、いわば不純な動機によって増殖を続けそしていつしかそれは誰も止めることができないものとなっていた。
 正力松太郎に詳しい早稲田大学の有馬哲夫教授によると、読売新聞の社長で日本初の民間放送局日本テレビの社長でもあった正力の真の野望は、マイクロ波通信網と呼ばれる国内通信網の実現だった。これを手にすれば、当時将来有望な市場と目されていた放送・通信事業のインフラを自らの手中に収めることができる。正力はそのための資金としてアメリカからの1000万ドルの借款、それに対する日本政府の承認、そして通信事業に参入するための公衆電気通信の免許が必要だった。
 正力は野望実現のために、当時の吉田茂首相やアメリカとの交渉に奔走した。しかし、正力はほどなく一つの結論にたどりつく。それは、野望を実現するためには自らが最高権力者、すなわち日本の首相になるしかない、というものだった。そして、正力は同じく当時将来が嘱望されていた原子力発電は、そのための強力なカードになると考えた。しかし、正力の関心はあくまでマイクロ波通信網であり、原発そのものは正力にとってはどうでもいい存在だった。
 当初はアメリカも、弱小紙だった読売新聞を大新聞に育て上げた正力のビジネスマンとしての才能や政治的コネクション、そして何よりもそのアンチ共産主義的な思想を評価していたと有馬氏は言う。更にアメリカは、1953年のアイゼンハワーの国連演説以降、核の平和利用を推進し、その恩恵を西側陣営に広げることを対ソ戦略の柱の一つにしていた。アメリカにとって正力は十分に利用価値のある人物だった。
 日本で初の原子力関連予算が成立した翌年の1955年、正力は衆院議員に当選するやいなや、原発の導入を強力に推進する。新人議員ながら既に70歳と高齢だった正力は、限られた時間の中で、自らが首相になるための実績作りを急がなければならなかった。そのために読売新聞や日本テレビを使った大々的な原発推進キャンペーンを次々と打ち、当時第五福竜丸の被爆などで高まりつつあった反米、反原子力の世論の懐柔に奔走した。こうして正力は初代の原子力委員会委員長、同じく初代の科学技術庁長官の座を手にし、権力の階段を着実に登り始めたかに見えた。
 しかし、その頃までにアメリカは正力の権力欲を警戒し、正力から距離を置き始めていたと有馬氏は言う。それでも正力はあきらめず、遂に19578月、茨城県東海原発実験炉に日本で初めて原子力の灯がともった。しかし、正力の首相になる夢は叶わず、マイクロ波構想も通信・放送衛星の登場によって、意味のないものとなってしまった。
 夢のエネルギーであるかに思えた原子力発電にも問題が起きる。その年の10月、イギリスのウィンズケールの原子炉で大規模な事故が起こり、原発のリスクが顕在化したのだ。正力が科学技術庁長官並びに原子力委員長を退任した後の1961年、原子力賠償法が成立したが、その内容は事業者負担の上限を定め、それ以上は国が負担するといういびつな二重構造だった。ここにも、民間と言いながら実際は国が保証しているという原発の二重性の欺瞞を見て取ることができる。
 しかし、原発は正力の手を離れた後も著しい成長をみせた。1970年の大阪万博には敦賀原発から電力が送られ、未来のエネルギーとしてもてはやされた。オイルショックも原子力の推進を後押しした。そうした中で登場した田中角栄首相のもとで、1974年、電源三法が制定され、原発は高度経済成長の果実を得ていない過疎地の利権としての地位を得て、更に推進されることになる。
 正力が「首相になるための道具」として日本に原発を導入してから、半世紀がたつ。一人の男の不純な動機で始まった日本の原発は、原発に利権の臭いを嗅ぎ取った希代の政治家田中角栄の手で、やはり本来の目的とは異なる別の動機付けによって推進されるなど、常に二重性の欺瞞に満ちているようだ。
 「原発の父」正力松太郎の生きざまを通じて、原発の歴史と今後のエネルギー政策へのヒントを、有馬氏と考えた。(今週の司会は武田徹、宮台真司の両氏です)
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 当時からヤラセや偽装が常態化していたというお話(http://www.asahi.com/politics/update/0717/TKY201107160721.html)。

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http://www.asahi.com/politics/update/0717/TKY201107160721.html

201171731
原子力委の設置、裏に偽装報告 55年 初の海外調査団

 政府が1955年、原発を導入するために初めて派遣した海外調査団の報告書が、原子力委員会の設置を推進する内容に偽装されていたことがわかった。作成に関与した旧通商産業省の初代原子力課長(故人)の偽装を認める証言が、文部科学省の内部文書に記録されていた。
 文書は85~94年、日本の原子力行政の重鎮で、原子力局長や原子力委員を務めた故・島村武久氏が、原子力政策にかかわった政治家や官僚、学者など33人を講師として招いた島村研究会録音記録。A4判620ページにわたって文書化され、文科省が製本したものを朝日新聞が入手した。
 政府は54年12月、初めての原子力予算で、物理学者を団長とする15人の「原子力平和的利用海外調査団」を派遣。4班に分かれて米英仏やインド、スウェーデン、デンマークなど14カ国を巡り、原子力行政の組織体制を調べた。
 調査団は帰国後、原子力を推進・開発する政府の機関について「各国の統括機関はほとんどすべて委員会の形をとり多頭。各方面の意見を十分に入れるためと思われる」と報告書に明記して、集団指導体制による委員会の設置を日本でも急ぐよう提言した。
 事務局として作成にかかわった旧通産省工業技術院原子力課の初代課長の故・堀純郎氏は88年、「島村研究会」に招かれ、「(トップに)委員会をつくっているのは米国だけで、ほかにはどこもない」と指摘。フランスは「役所」、イギリスは「公社」だったにもかかわらず、「(諸外国は)どこでも委員会だ。だから日本でも委員会を作らなくちゃいかんと強調した」と偽装を証言した。
 さらに「若い事務官がこんなうそ書けるかと憤慨した」とも証言し、のちに資源エネルギー庁次長となる豊永恵哉氏が偽装に抵抗したことを明らかにした。
 豊永氏は朝日新聞の取材に「委員会は米国にしかなく、責任があいまいになり、日本になじまないと思った。むしろしっかりした行政組織を作るべきだと上司に進言した」と話す。
 政府は報告書をもとに原子力委員会を56年に発足させ、初代委員長に正力松太郎国務相、委員にノーベル物理学賞の湯川秀樹氏、経団連会長の石川一郎氏らを起用。著名人を集めた委員会を設け、米国の水爆実験で「第五福竜丸」が被曝(ひばく)した事件による原子力への世論の逆風を弱める狙いがあったとみられる。政府が公表した報告書の偽装は、原発導入期からの隠蔽(いんぺい)体質を示すものだ。(山岸一生)
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●アメリカのちょっかいとナチソネ氏、原子力の「安全」利用

2011年06月06日 01時26分23秒 | Weblog


videonews.comの記事(http://www.videonews.com/on-demand/521530/001876.php)のコピペ。

 原子力発電の「平和」利用の悪の根源、電源三法。金儲けしか頭にない哀しい人々。原子力・原発と手を切れない人たち。泥沼から足が抜けない被災者。

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http://www.videonews.com/on-demand/521530/001876.php

マル激トーク・オン・ディマンド 第526回(20110514日)
ゴジラ+鉄腕アトム+田中角栄=原発大国への道
ゲスト:武田徹氏(ジャーナリスト)

 日本は地震国で津波も多い。海に囲まれた国土は狭く、平地面積も少ないため、もしもの時に逃げる場所がほとんどない。その上、日本はそもそも世界で唯一の被爆国として、原子力の恐ろしさを誰よりも知っている。よりによってその日本が、なぜこともあろうに原発大国への道を選んだのか。この謎はそう簡単には解き明かせそうにない。
 しかし、マル激の司会でお馴染みのジャーナリスト武田徹氏は、著書『わたしたちはこうして「原発大国」を選んだ』の中で、ゴジラ、鉄腕アトムから大阪万博を経て田中角栄の電源三法、そして今日の福島に至る道のりを丁寧に辿っていくと、なるほどどうして今日日本が、54基もの原発を抱える世界有数の原発大国になっていったのか、少なくともその道程が見えてくると言う。
 今週のマル激は武田氏をゲストに迎え、その謎解きに挑んでみた。

 まず武田氏は、日本は被爆国であるが故に、原子力の威力を日本ほど痛感している国はないと指摘する。日本国憲法の起草の過程で、GHQのホイットニー准将が「戦争放棄」の条文を含んだGHQの憲法草案を呑ませるために、吉田茂外相ら日本の交渉団に対して口走ったという「原子力の日光」の一言は、当時唯一の核保有国だったアメリカの権勢を象徴する一言として、戦後の日本の針路に決定的な影響を与えることになる。
 水爆が生んだとされる怪獣ゴジラや原子力で動くロボットの鉄腕アトムなども、今では単なる特撮映画や漫画のキャラクターとしてお馴染みだが、実はそのオリジナルのストーリーでは、当時の日本人の原子力に対する複雑でアンビバレントな感情を色濃く反映していると武田氏は言う。

 しかし、原子力の威力も怖さも知っている日本が、最初に原子力開発への第一歩を踏み出したきっかけは、どうやらアメリカの意向だったようだ。1951年にサンフランシスコ講和条約が締結され、アメリカのアイゼンハワー大統領が国連演説の中で原子力の平和利用を提唱した1953年、日本では原子炉建造予算23500万円が国会で可決しているが、その予算案を改進党の中曽根康弘代議士が提出したのは、何と日本の第五福竜丸が被爆したアメリカによるビキニ環礁の水爆実験の二日後だった。
 当時日本では科学者たちは、被爆国である日本が原子力開発を進めるべきか否かについて、激しい論争が繰り広げられていた。その頭越しに、しかもアメリカの水爆実験の直後に国会で原子力予算が計上されたのは、ひとえにアメリカの意向を汲むものだった。そして、アメリカがそこまで日本に原子力発電を奨めた理由は、冷戦下における自由主義陣営に原子力の果実の分け前を与えることで、日本などの同盟国の共産化を防ぐ意図があったのだろうと武田氏は言う。

 畏怖と憧れが同居する中で、予算だけが先行して計上される形で歩みを始めた日本の原子力に対する感情を大きく変化させたのが、大阪万博だった。日本の高度成長と技術の進歩に対する自信の回復を象徴する大阪万博は、そもそも原発から電力が供給されていたが、そこではもっぱら技術が人類にもたらす輝く未来が強調され、その陰やマイナス面に人々は目を向けようとしなかった。日本でも1960年代から続々原発の建造が始まっていたが、既にこの段階で原発は様々な問題を起こしていた。しかし、そこから生まれる大きなエネルギーがもたらす豊かさに人々は目を奪われ、その負の遺産に気づかなかったか、あるいは気づいていても見て見ぬふりをしてしまった。

 ビデオニュース・ドットコムで毎週福島原発の現状を解説している京都大学原子炉実験場の小出裕章助教が、東北大学で原子力を志し、そしてその矛盾に気づいたのも、ちょうどこの頃のことだった。
『マル激トーク・オン・ディマンド第524回(2011年04月30日)原子力のこれまでとこれからを問う』
 そして、田中角栄首相の登場で、原子力政策は決定的な変質を迎える。日本列島改造論の一翼を担う形で実施された電源三法(電源開発促進法、電源開発促進対策特別会計法、発電用施設周辺地域整備法)過疎地への原発の誘致が完全に利権として定着するきっかけを作ってしまった。

 これもまた、自民党で脱原発を明言する数少ない政治家の一人、河野太郎衆議院議員が、430日のマル激の中で語った「自民党の原発関係の勉強会や部会には、原発を誘致した地元の議員しか来ていないため、エネルギー政策の議論を終ぞしたことがない」と符合する。
『マル激トーク・オン・ディマンド第524回(2011年04月30日)原子力のこれまでとこれからを問う』
 それ以降、日本の原子力政策は、エネルギー政策という表の顔のほか、地元への利益誘導や過疎地への再分配政策という裏の顔を併せ持つ形で、今日まで推進されてきたことになる。

 今回のマル激では更に、原子力政策の安全保障面での妥当性についても議論を試みた。

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