Activated Sludge ブログ ~日々読学~

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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(1/8)

2010年01月31日 19時02分44秒 | Weblog

松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程』、1月に読了。梶原得三郎新木安利編。海鳥社。2008年6月刊。

 扉の写真は、豊前市明神海岸にて松下センセ。福岡地裁小倉支部にて七人のサムライ、そして、「アハハハ・・・・・負けた負けた

 Ⅰ章「タスケテクダサイ」、Ⅱ章「暗闇の思想を掲げて」、Ⅲ章「「アハハハ・・・・・・負けた、負けた」」、Ⅳ章「草の根通信は続く」。

 松下センセの目を見開かせた岡部保さん仁保事件(pp.5-16)。

 大分県臼杵風成裁判(p.31、40、50、101、117)。「〈父性の文明〉・・・。/それをやれるのは〈母性の文明〉しかあるまい。・・・/・・・公害企業の進出から守りぬいた中心は、風成という小漁村の母たちであった。・・・〈母性文明〉の価値観が、物質的豊かさよりも、貧しくても美しい環境を選択したのだ」(p.101)。

 「電気需要増加は必至ではないかという問いかけ・・・。・・・現在の電力に頼りきった文化生活そのものへの反省と価値転換であり、少数の被害者には目をつぶって成り立つ多数の幸福という暗黙裡の差別的発展への懐疑であり、さらに大きく根本的には、電力をとめどなく食いつぶしてやまぬ高度経済成長政策の拒否である」(p.107)。「・・・だれかの健康を害してしか成り立たぬような文化生活であるのならば、その文化生活をこそ問い直さねばならぬと。/じゃあチョンマゲ時代に帰れというのか、と反論が出る。必ず出る短絡的反論である。・・・今ある電力で成り立つような文化生活をこそ考えようというのである。・・・/・・・ただひたすらに物、物、物の生産に驀進して行き着く果てを、私は鋭くおびえているのだ。/「一体、物をそげえ造っちから、どげえすんのか」という素朴な疑問は、・・・開発を拒否する風成で、志布志で、佐賀関で漁民や住民の発する声なのだ。・・・/・・・都会思考のキャッチフレーズで喧伝されるのなら、それとは逆方向の、むしろふるさとへの回帰、村の暗がりをもなつかしいとする反開発志向の奥底には、〈暗闇の思想があらねばなるまい」(pp.116-117)。内橋克人さんの〈浪費なき成長につながる〈暗闇の思想〉。
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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(2/8)

2010年01月31日 19時00分34秒 | Weblog

梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 下河辺淳氏とはそういう人だったのか、と納得(p.62、103、129)。

 巨大開発の夢のような話の裏。「なんのことはない。その新コンビナートがまた新しい公害を生む。その対策費をひねり出すためには第四コンビナートを造る。このとめどない悪増殖をどのように考えればいいのか。市民を待ち受けるのは地獄ではないのか」(p.90)。
 「そうなのだ。それでいいじゃないか。おれ貧乏なのかなあ、などと無理に悩む必要などありはしない。/〈ゆたかさ〉とは意識問題なのだ。・・・松林の海岸を持つし、遠浅の海では貝掘りも楽しめる。心身を破壊する公害とは無縁だ。―――これほどゆたかな生き方があろうか。/・・・演劇を見ることによる一時的感興と、中津市の子供たちが幼い頃からゆたかな自然の中で生育していくことのすばらしさを比較すれば、私はためらいもなく後者を選ぶ。/・・・都市化により喪われた自然が市民の心の生育に与える底深い破壊は、その何をもってしてもつぐないうるものではない」(pp.92-93)。
 内在的価値の萌芽。あのトンデモナイ冤罪事件で有名な志布志。「若者の流出に対する志布志の人たちの考えは面白い。若者が都会に働きに出て送金して来るのはやむをえないじゃないか。その若者たちが時折帰郷するときのために、あくまでも美しく静かな町を残しておくのだという」(p.94)。「「あなたの息子さんが疲れて帰郷して来るとき、せめて憩いを与えるような美しい故郷を守り通すのが、われわれの務めではないでしょうか」・・・今までの開発論議で常に欠落していたのは、自然愛好的心情論であった」(p.108)。「・・・漁業者が放棄したのは漁業権にすぎない。埋め立て海域で漁業を営む権利を放棄したに過ぎない。しかして、海は厳然として残るはずである。海そのものを売買する権利などは誰にもありえない。魚業権の放棄されたあとの海は、誰のものなのか。それは誰のものでもあるまいし、同時に誰もの共有物だろう。私企業が、漁業権を買い上げたからといって、それがあたかも海そのものまで買い上げたかの如く専横に海を埋め立てることが許されるとは呆れ果てるばかりである。」(p.184)。「漁業権さえ買い上げれば海を占有できるなどということが許され続けて来たこと自体、不思議なほどである。・・・今の社会機構が、「物の生産高計算」でしか評価基準を持たぬゆえ・・・。/海というものの評価の中で、実は生産高での計算はもっとも矮小な評価でしかなく、万人が来て海を楽しむ価値は、計算を超えて巨大なはず、その楽しみは万人がもつ権利であり、それこそが環境権なのである(私は安易に、海を楽しむ価値と書いてしまったが、それではまだ卑小ないいかただという気がする。海がそこに存在するその存在自体の価値というべきか)」(p.137)。

 埋め立て「協定調印の翌夜・・・一人のおじいさんが、さも納得いかぬげに質問に立った。「わしゃあ百姓をしちょるもんじゃが・・・・・・協定がもう結ばれたちゅうけんど、そらあおかしいなあ。わしんとこには、なんの相談もこんじゃったが・・・・・・」/・・・まさに自分は市民の一員なのだから。/首をかしげいうおじいさんの疑問に、私は胸が熱くなり「そうなんです。市民一人一人の声に耳を傾けてまわらない政治が間違っているのです」と答えた。・・・むしろ、おじいさんの発言を常識外れとして失笑した人々の、その〈ならされた常識〉にこそ、現今の民主主義の衰退があるのだ。/・・・その可否には、それこそ市民一人一人の意見を徴して回るのが当然である。今の行政機構の中でそれが不可能だとしても、そのような姿勢だけはもたねばならぬ。」(p.106)。「それこそが真の民主主義である」(p.141)。
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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(3/8)

2010年01月31日 18時58分15秒 | Weblog

梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 日本列島改造論に対する「素朴な問い」。「「一体、そげえ物を造っち、だれに売るんじゃろうか?」/宇井純氏は・・・「・・・外国に売りつける。ことにアジアに。・・・きらわれ者ですから、・・・武力による威嚇が必要になってきます。・・・国内に溢れる物をかかえこんで自爆してしまうしかありません。どちらをたどってもほろびます」/・・・地域エゴのはずの私たちの住民運度は、実は巨視的には救国の闘争だということになってくる。/そうなのだ。もう、もうけもほどほどにしましょうやと、昨年の年収五十四万円の貧乏作家はいいたいのだ。これで一家五人生きられたんだから」(p.111)。

 環境権とは? 「・・・あと残されたほとんど唯一の無傷な海岸線は、〈絶対自然〉として、すべての人為的な触手から、完全に凍結されるべきである。・・・/・・・なぜトキの絶滅を憂うるのか。その答えをあっけらかんとしたいいかたですれば、つまり後の世代に残してやりたい愛すべきもの〉であるということに単純化される。豊前海海岸も我々沿岸住民にとって、まさに後の世代に残してやりたい愛すべきもの〉なのである。/〈環境権〉というものは、かくの如く、後に来る者とのかかわりが密なのであり、もっといえば、のちに来る者たちの無言の権利をも含んだ主張であるはずであり、その重さは人類の歴史を曳いて、裁判官とてたじろぐほどのものであるはずなのだ。裁判官をも含めて、我々だけでこの豊前海海岸を処分するなら、のちに続く世代から我々は永久に〈愛すべきもの〉を奪い去ったのであり、彼らの環境権を抹殺したことになるのである」(p.136)。
 
『瓢鰻亭通信』の前田俊彦さんは、酒井伝六氏著『ピグミーの世界』から引用して、「・・・ピグミーにとっては一切が森の〈〉であるという発想・・・。まして人間は、何者といえども森の〈たることはできない」(p.143)。「この世の〈客〉たる謙虚さを忘れたわれわれは、あたかもの如く海を埋め大気を汚染し続けてきた。・・・/さればこそ、もう発展とか開発とかはいらない、せめてここらで踏みとどまって、もはやこれ以上〈預かりものである海を大地を大気を汚してはならぬという住民が各地にふえているのであり、その皆が〈環境権〉に切なる〈魔法の杖〉の夢を託すのである」(p.145)。
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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(4/8)

2010年01月31日 18時55分14秒 | Weblog

梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 心の中での葛藤。「執拗にこだわりたいのは闇なのだ。発電所建設反対運動を押し進める者の拠るところ、つづまりは〈暗闇への志向〉以外にあろうか。/・・・/もとよりわれら住民が撲(う)つのは公害であってみれば、公害の問題に需要などの入りこむ余地はないと、一言に峻拒する正論である。・・・/・・・やはりこの舌鋒の刺すきっ先は、みずからにかえってくる部分を含まぬとはいいきれぬ。/・・・/それにカッコよく応ずる論理はない。・・・/恥ずかしながら、ささやかな電力はほしいのであり、それをしも否定しさるのではなく、ただ貪欲に野放図にふくれあがり海岸線を喰いつぶしてやまぬ電力需要を懐疑し瞬絶し、われらの豊前平野と周防灘を守り抜かんとするのみである。いうまでもなく、われらの志向する暗闇も光ありての闇であり、ともに綯(な)い合わせてこそ、密度も放射も濃いのである。闇が闇であり続けてもならぬし、光が光のみであり続けてもならぬ。/筑豊の闇を棲み家とする作家上野英信氏の、既にして十年前の断片を引こうか―――。/
  
闇―――それはけっして空間ではない。・・・どこにも闇をたたえない近代式
  アパート
生活者たちの倦怠と無気力を思った。/・・・闇を持たない人間。
  それゆえに真の光を
もたない人間。かれらは生まれた国ももたず、生むべき国も
  もたぬ二重の国籍喪失者
として、人工光線のうすら明りの海をけだるく
  さ迷い歩くだけである。
闇ありて光は放射し、光ありて闇は密度を深化する。さればわれらの暗闇への志向とささやかなる電力要求と、なんの矛盾であろうか。われらは敢然と開き直って家庭用電力を要求し、しかして〈停電の日〉を要求することによって、これ以上のとめどない発電所建設を、もちろん高度経済成長そのものとともに、明快に否定しさるのである」(pp.150-155)。

 「「・・・多少の公害はあるじゃろう、しかし、なんちゅうてん電力は国にとって必要じゃもんな―――」と説くときの良識派市民の口ぶりたるや、まるで国政の一端をでもになうエライさん化したがごとく憂いに満ちているのである。おお、田舎のおっさんが、国の電力まで心配しているいじらしさ(待てよ、この表情は・・・ああ思いつく。ちょうど選挙のとき、おだてられて票集めの先兵となって駆けまわる田舎のおっさんが、さもいっぱし代議士某と結びついて政治の重要部分に関与しているごとく、興奮にのぼせあがって懸命なさまと、なんと酷似していることか)。/日頃、政治のセの字も触手できぬ背番号的市民われらであれば、かかるときこそテッテイテキに復讐の快を遂げればならぬのだ。「俺たちは電力を要求する。されど俺んちのそばにゃ発電所は真っぴらごめんだ。―――さあ、あとどうするかはお国の方で考えろちゃ。国っちゅうもんな、そんなこつ考えるためにあるんと違うんけ?」と開き直ってうそぶけばいいのである。それが現状況で、みずからの命と健康を守りわが里を守る住民側のしたたかな論理である。しかり、開き直ること以外に、虫ケラ住民われらに抵抗の論理があられようか。/・・・はっきりしていることは、民衆にとって電力危機即社会の破局ではないことだ。・・・/電力危機を恐れること民衆にあらずとすれば本当にそれを破局としてうろたえる者は、いま電力危機を煽りたてている電力会社であり財界であり政界以外の誰だというのだ」(pp.156-157)。
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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(5/8)

2010年01月31日 18時51分07秒 | Weblog

梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 しろうと歌人・しろうと運動家としての居直り。「だが、しろうとにもしろうとなりの判断基準がある。・・・一人の人間を一党の情報で裁断する前に、自分の目と耳での判断にかけたいと決めた。/・・・/ふと私は、そこにしろうと歌壇のあの清新でなまなましい息吹と、くろうと歌壇の整いすぎた技巧・・・対比を思って奇妙な気がするのだ。運動と歌壇という突飛なまでに懸隔した両者の内側で、なにやら〝しろうと〟と〝くろうと〟の対比だけは相似ている気がして不思議なのだ。/・・・/だが、もはやしろうとであることに居直る覚悟の私は、そのような批判によって揺らぎはしない。なぜ心情的発言が、政治理論や経済理論の下位に著しくおとしめられねばならぬのか、その根拠をこそ逆問したいのである。砂浜に残るかそかな水鳥の足跡をこよなくいとおしむ心情的発言は、政治や経済の側からの発言で、あっけなく圧殺され続けてきた。その結果が、救い難い環境破壊であり、なおも政治や経済の論を優位させる限り、その加速は誰しも予知するところであろう。それを制止できるのは、もはやしろうとの心情的発言の復権にしかないのではないか」(pp.162-163)。
 当書籍の副題の主軸部分。「「たった四日半の調査で、豊前平野の年間気象をうんぬん出来るのか!」/・・・/「それが科学というものですよ」という一言は、恐らく全国各地でしろうと住民を沈黙させる権威的発言として機能してきたに違いない。専門家の口から、それが科学だといわれれば、科学のしろうとは恐れ入るしかなかったのである。だが、そのような権威によって保証されたはずの安全開発地域で予測を超えた公害が噴出するに至って、もはやしろうととて科学に疑い深くなっているのである(否、科学そのものとはいわぬ。それを操作する者に対して)」(p.165)。
 「七十三年八月二十一日、私たちしろうと市民七人、豊前火力建設差止請求訴訟を提起したのである。いわゆる環境権訴訟である。/「国民はすべて健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」(憲法二十五条)を有し、「幸福を追求する権利は尊重される」(憲法十三条)のであってみれば、それを充足するためのよりよい環境に住む権利は基本的人権であり、それはだれからも侵害されない―――〈環境権〉とは、端的にいえばこのような法理であり、まこと私たちしろうとに理解されやすく、共感は濃い。/もっといえば、海の問題でこの法律はきわ立って来る。従来、海を埋め立てるには当該海域の漁業者が漁業権放棄をすませれば全手続きは完了した。背後地住民に海への権利はなく、一片の発言も認められない。だが〈環境権〉は、海に対する住民の権利を鋭く主張する。なぜなら、海は万人共有のものであり環境の主要因子だからである」(p.166)。「・・・法理などはクソクラエとしか思っていないのであり、こんな当たり前な権利が法理で鎧われなくとも認められて当然ではないかと、・・・」(p.265)。「環境権とは「・・・元来大気や水・日照・通風・自然の環境等という自然の資源は、人間の生活にとって欠くことのできないものであり、不動産の所有権とは関係なく、すべての自然人に公平に分配されるべき資源である。・・・それは当然に万人の共有に属すべき財産」・・・」(p.281)。
 戦略的アセスのハシリ。「人が死んだり病床に呻吟してからの救済などありえないのだという痛切な反省から、ではそこまで行く前に阻止手段はないのかという発想で始まったのが環境権の主張であったはずだ。いい換えれば、〈生命〉や〈生活〉が直接におかされる数歩前で侵害行為を食い止めようということなのだ」(p.323)。

 横田耕一さん(p.325)。ユージン・スミス(p.219)。
 
「国立岡山療養所の重症結核患者朝日茂氏が、国の生活扶助費では到底療養所生活は出来ず、これは憲法第二十五条一項に違反するとして厚生大臣を訴えた〈朝日訴訟・・・」(p.286)。
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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(6/8)

2010年01月31日 18時48分16秒 | Weblog


梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 弁護士無しでの本人訴訟である豊前環境権裁判の第一準備書面での心情的発言。「・・・私たちを救済する法律は当然存在するはずだと信じる。そしてそれは、私たちが主張せずとも、裁判所が判断して適用してくれるものだと私たちは信じる。裁判とは、そういうものであろうと、私たちは理解して来た」(p.199)。裁判員制度などといったことの前に考えるべきことがあるのでは。

 居直り再び。「そこでわれらはニヤリと笑って、良識派に問い返すのである。「ここまで認めているからといって、なぜこれ以上をも認めねばならぬのか」と。一体なぜ、そのような論理の清潔さを通さねばならぬのかと。即ち、われらの〈居直り〉である。/・・・一度認めた以上、どこまでも認めるという論理の一貫性に立てば、かくてとめどなくなる。〈毒食わば皿まで〉という至言のままである。犯され続けた果ての破滅が見えぬか。/そうなりたくないために、われらは居直る。敢然と居直る。成程われらは電力なしでは生活できぬという事実は認めよう。しかし、だからとどこまでも容認するとはいわず、ほどほどにとどめようというのである。このほどほどにという言い方は、およそ思想の美学には合わぬらしく、イデオロギーの範疇では軽蔑される用語であろう。だからこそ、電力の必要性を認めた以上はどこまでも許し続けるという義理固い良識がはびこるそれにくみせぬなら暗闇にひそめと石を投げられる」(pp.208-209)。その後の石油危機時の政財界による省エネ宣言に対して、松下センセの機関紙『草の根通信は敢然と「節電協力宣言」! 「それは〈節電の正体を見抜けば、分かってくる。/・・・/これほど節電を呼びかけつつ、他方ではいま、九州になだれこんでくる新企業を野放しに受け入れているという矛盾を凝視するだけで、〈節電〉キャンペーンのインチキぶりは丸見えのはずなのだ。・・・九社長イコール九州・山口経済連合会会長であり、・・・新聞放談においても、「電力は豊富です」と企業向けPRは忘れなかった。それは向こうを意識しての談話であり、ささやかな家庭消費者であるこちらに向かっては、電力危機を説き節電を強要するのである。その分厚い二枚舌を思い浮かべるだけでヘドが出そうになる」(pp.211-212)。
 
「ほどほどに」! すばらしい。まさに、「浪費なき成長につながる発想。内橋さん曰く、「自給自足圏の中でも安定した経済成長は可能かとの問いに、「ほどほどの成長は可能です。それを実践しているモデルは世界にたくさんあります。『浪費なき成長』です」(p.221)。いわゆるFEC」(【内橋克人著、『不安社会を生きる】)。

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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(7/8)

2010年01月31日 18時43分25秒 | Weblog


梶原得三郎編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程
 都知事
等のニセ右翼の対極に居るはずの、真の右翼とは? 鈴木邦男さん以外にも居る。「その人宇治田一也氏は、ハンストを始めるにあたって、決意を短く告げている。/・・・/氏は・・・埋め立てに抗議して三十三日間にわたる長期ハンストを敢行しているが・・・。それほどの公害に苦しんでいる人々にとって、革新知事すらが、更に第二火力の増設を認めたことは、救いのないことであった。・・・/宇治田氏は・・・、右翼とされる。各地の公害問題地で、加害企業のガードマンとして登場する右翼をしか見ていない我々に、一見、氏の行為は奇異であるが、右翼思想の純粋な系譜は、当然なまでに〈国のまほら〉を守らんとする心なのであり、氏の行為こそ優れて右翼の真髄だと分かる」(p.220)。

 環境保全とは
? 「・・・されば、〈環境保全〉とは、このような〈環境〉そのもののそっくりな保全でなければならず・・・。/・・・/県知事にとっての〈環境保全〉とは、埋め立てによって周辺水域に及ぼす影響―――すなわち、水質汚濁防止法にかかわるところの水質基準値に汚濁がおさまるかどうかということだけなのである。背後地住民にとっての〈環境〉がそっくり喪われることなど、問題外なのだ。なぜなら、海水浴も、潮干狩りも、釣も眺望も、実定法に於ける〈権利〉として定着していないのだから、顧慮する必要はないということであろう」(p.225)。今から30年以上前にこのような論説を唱える松下センセの視点に感心する。

 センセ曰く「気恥ずかしき機関紙草の根通信
」。「・・・六〇年安保闘争の絶頂・・・。/同じ頃、九州の山奥、阿蘇山系の北麗の渓谷で国家権力に抗する壮大な戦いが展開されていたことを、人は記憶にとどめているであろうか。蜂の巣城闘争という。文字通り、急峻な山崖に無数の砦を築き、ダム反対の叛乱農民がこもったのである。城主・室原知幸は山林地主としての巨富をこの闘争にそそぎこんだ。六〇年安保闘争の終熄ののちも、この山峡の闘いは執拗に持続され、一九七〇年の室原氏の死まで国家をてこずらせた。/公共性をふりかざしての国家権力私権を拮抗させた、この壮絶な十三年間の闘いを記録すべく、今私は遅々たる取材を重ねているが、ほとほと弱るのが、この果敢な〝抵抗者〟達が長い闘争の期間を通じて、ほとんど〈文字〉の記録を遺してくれていないことである。/今やすべての住民運動につきものの、機関誌はおろかビラの一枚すら出されなかったのである。・・・/・・・当初マスコミをさえ砦の中に立ち入らせなかった。城主との会見を目指して東京から乗り込んできた安倍公房があっけなく拒否に遭い、・・・。/・・・機関誌も一枚のビラも残さなかった彼等のいさぎよさの前に、・・・号を重ねる機関誌『草の根通信』を持つおのれらの豊前火力反対闘争の、それこそが脆弱さの証明とみえて、ひそかに気恥ずかしくてならぬのである。まして、『草の根通信』は今や全国的に好評なのである」(p.248)。『草の根通信』は松下センセの死まで続き、室原翁の闘争は、風成の女たちと同じくブログ主の最も好きな松下センセの作品の一つである砦に拠るに纏められることになる。

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●『松下竜一未刊行著作集4/環境権の過程』読了(8/8)

2010年01月31日 18時28分20秒 | Weblog

梶原得三郎新木安利編、松下竜一 未刊行著作集4/環境権の過程

 痛切な反省再び、そして裁判制度の問題点。「四大公害裁判が勝利したあとの痛切な反省は、いくら裁判で勝っても死者は還らぬしむしばまれた健康は元に戻らぬというむなしさにあった。そこから、真に必要なのは環境が破壊される段階での事前差し止めでなければならぬという公害裁判の根本的な発想転換であったはずだ。もし、事前差し止めの意義を重視していれば、「あなた方の方は今のところなんの苦痛もあるわけじゃないし・・・・・・」というような裁判長の発言はありえぬだろう。/・・・事前差し止めを目指す裁判のほとんどが直面する腹立たしい現実である。たとえ差止訴訟が係争中であろうとも、それを無視して着工するのは企業・行政の常とう手段であり、いったん着工さえしてしまえば裁判遅延に助けられて工事は完成し、その既成事実の重さにとって裁判自体が左右されることになるのだ」(p.301)。さらに、埋め立てた所の復元など何ら考えず、敗訴などないと考え、裁判をやる意味など、全く頭の隅にさえない。しかも、そううそぶくのも当然で、〈原状回復ノ義務ヲ免除スルコトヲ得〉と定めた〝裏取引〟まで存在。「「一体、裁判はどんな役に立つのか」という私達の怒り」(p.303)。

 〝得さん〟こと梶原得三郎さんのこと(p.330-354)。その出会いから〝主犯〟へ、そして、魚屋さん、その後。玲子ちゃん(p.363)。

 一審敗訴において、賛否両論、大反響であった「アハハハ・・・・・・敗けた、敗けた」の意表を突いた型破りな垂れ幕(p.358、393)。「アハハハ、敗けた、敗けた、また出直すか、というしかないんですよ」(p.359)。田中正造の晩年の言葉にちなみ、伊方原発訴訟の原告たちが敗訴の日に掲げたのは「辛酸入佳境の垂幕。それに対して、やはり前代未聞の垂れ幕!
 大分の明神の海は埋め立てられたが、福岡側のスオーナダは取りあえず守られた。「・・・NHKの『新日本紀行』・・・スオーナダ開発に侵されなかったこの町の海岸を、美し過ぎる画面で描いてみせたが、それを視たこの町のいろいろな人々から、・・・「この海岸を護ったのは、あなた方の力ですよ。あなた方のことはいろいろ悪くいわれましたが、結局正しかったんですね」という過褒をいただいて、・・・周防灘開発が凍結・・・。・・・『暗闇の思想』は潜在的に普遍化していくのだと思う」(p.380)。

 「洋子病」という生涯直らぬ病(p.411)。

 解説は恒遠俊輔さんの「主張微塵も枉(ま)ぐと言わなく」(p.441)。

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