3月3日夜、くしくも雛祭りの日の夜であった。
女の子の御祝いの日で「心ちゃん(3才女児)」を囲んだ
楽しく笑いさざめく声が熊本の町中に聞こえたはずである。
しかし、このHPを覗いている方々がご存じの様に
非常に残念で沈鬱な夜となってしまった。
わたくし達ができることは、共に悲しみ怒ると同時に、
こうした事件が二度と繰り返さないよう事件から何かを学びとることである。
それは重い事実を前にしたわたくし達大人の努めである。
この事件を報じる記事(X新聞3月5日及び6日朝刊)を見る限り、
次のような点が注目された。
①「警察庁幹部は『いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない』と話している」。
②スーパーの死角が突かれた。
③トイレというプライバシー第1の密室性が突かれた。
④防犯カメラの「存在を知る」ことで犯罪の発生を減少させることはできる。しかしトイレの中や周辺にはあまりその存在を示すモノがなく、カメラの効果が発揮できない。
学ぶことの①
①についていうと警察関係者意外にもコメントを求めるべきではなかったのか。
犯罪防止という点からまず警察であろう。
しかし、子どもの安全確保に関しては多角的な視点(見方、コメント)
があるべきだ、ということを過去の同種の事件は教えている。
「いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない」
というコメントに接すると、この事件からわたくし達は学ぶことは何もなく、
再度の同種事件の発生を許してしまうのではないかという感想を抱く。
防犯カメラと添付ステッカーが無ければ防げないのか。
確かに「いきなりの事件」を防止することは非常に難しい。
同時に警察には「市民と共に犯罪予防」という最近非常に強化してきている機能がある。
何もかもでなく、警察ができる主たる防犯機能には
「加害者となる可能性のある者を事前にそうしないよう注視する(再犯防止)」と
「被害者の外周=環境(外的社会的環境)を強化し危害に遭わないようにする」の
2つがある。
本事件でもそういう視点から警察が出来る働きは幾つかあったと思える。
例えば、犯罪は「犯罪者がやる気」になれば何処でも起きる、
という犯罪発生の基本原理に基づき、
被害者自身が身を守る「安全基礎体力」が十分に発達していない段階
(少なくとも小学校2年生まで)では、
周囲の大人はいかなる状況でも「目を離さないこと」は鉄則ですよ、
どんな幼い子どもでも危機の時代の今日では安全教育は必用ですよ、
と専門家の立場で普段から市民に広報・啓発活動を勤めていることは出来たはずだ。
しかしこの機能が充実するためには「保護者・子どもの教育」と結びつかねばならない。
交通事故等の教育を除いて警察が中心となってこうした日常生活の安全教育機能を十分に果たすことが出来るのか、やれるほどの人員があるのか、やるべきなのか。
ここで述べるべきことは、上記の新聞のコメントは
文部科学省や厚生労働省そして内閣府にも求めるべきであった、ということだ。
文部科学省以下の行政は、保護者と共に3歳児でも身につけることが出来る
「最低限の安全基礎体力」を学ぶ安全教育をどのような内容で
実施しようとしていたのか、実施していたとすれば
その教育は今回の事件発生にどの様に無力であった、
まだそういった教育がなされていなかったとすれば
今後どうするかを問わねばならなかった。
こういた点に関して警察にコメントを求めても無理だ。
わたくし達はこれまでに稚い子どもが無法に未来を断ち切られる、
ということを無惨な忘れることの出来ない多くの事件から学んだ。
幼い子どもにも「安全教育は必須」なのだ。
3才の子どもといえども保護者と共に自己強化を目的とする
「学ぶことの出来る安全体験教育」はある。
逆にこの年令から安全教育を始めねば、
小学校に行って安全マップを作っても「お守り札効果」でしかない。
これまでいかに多くの子どもが「安全マップを描いて」被害に遭っていることか。
子どもの安全基礎体力を幼小児段階から付け伸ばすための安全教育が必用である。
その際、警察が出来ることは、
この種犯罪は現代という価値―規範が揺れ動く時代を背景に、
農村都市を問わずどこでも24時間365日いつでも起こるのだ、
という内容の重さを犯罪のプロという立場から市民にきちんと伝えることである。
「心ちゃん」という掛け替えのない幼い命を代償として、
この事件から私たちはこれらのことを学ぶ。
清永奈穂
女の子の御祝いの日で「心ちゃん(3才女児)」を囲んだ
楽しく笑いさざめく声が熊本の町中に聞こえたはずである。
しかし、このHPを覗いている方々がご存じの様に
非常に残念で沈鬱な夜となってしまった。
わたくし達ができることは、共に悲しみ怒ると同時に、
こうした事件が二度と繰り返さないよう事件から何かを学びとることである。
それは重い事実を前にしたわたくし達大人の努めである。
この事件を報じる記事(X新聞3月5日及び6日朝刊)を見る限り、
次のような点が注目された。
①「警察庁幹部は『いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない』と話している」。
②スーパーの死角が突かれた。
③トイレというプライバシー第1の密室性が突かれた。
④防犯カメラの「存在を知る」ことで犯罪の発生を減少させることはできる。しかしトイレの中や周辺にはあまりその存在を示すモノがなく、カメラの効果が発揮できない。
学ぶことの①
①についていうと警察関係者意外にもコメントを求めるべきではなかったのか。
犯罪防止という点からまず警察であろう。
しかし、子どもの安全確保に関しては多角的な視点(見方、コメント)
があるべきだ、ということを過去の同種の事件は教えている。
「いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない」
というコメントに接すると、この事件からわたくし達は学ぶことは何もなく、
再度の同種事件の発生を許してしまうのではないかという感想を抱く。
防犯カメラと添付ステッカーが無ければ防げないのか。
確かに「いきなりの事件」を防止することは非常に難しい。
同時に警察には「市民と共に犯罪予防」という最近非常に強化してきている機能がある。
何もかもでなく、警察ができる主たる防犯機能には
「加害者となる可能性のある者を事前にそうしないよう注視する(再犯防止)」と
「被害者の外周=環境(外的社会的環境)を強化し危害に遭わないようにする」の
2つがある。
本事件でもそういう視点から警察が出来る働きは幾つかあったと思える。
例えば、犯罪は「犯罪者がやる気」になれば何処でも起きる、
という犯罪発生の基本原理に基づき、
被害者自身が身を守る「安全基礎体力」が十分に発達していない段階
(少なくとも小学校2年生まで)では、
周囲の大人はいかなる状況でも「目を離さないこと」は鉄則ですよ、
どんな幼い子どもでも危機の時代の今日では安全教育は必用ですよ、
と専門家の立場で普段から市民に広報・啓発活動を勤めていることは出来たはずだ。
しかしこの機能が充実するためには「保護者・子どもの教育」と結びつかねばならない。
交通事故等の教育を除いて警察が中心となってこうした日常生活の安全教育機能を十分に果たすことが出来るのか、やれるほどの人員があるのか、やるべきなのか。
ここで述べるべきことは、上記の新聞のコメントは
文部科学省や厚生労働省そして内閣府にも求めるべきであった、ということだ。
文部科学省以下の行政は、保護者と共に3歳児でも身につけることが出来る
「最低限の安全基礎体力」を学ぶ安全教育をどのような内容で
実施しようとしていたのか、実施していたとすれば
その教育は今回の事件発生にどの様に無力であった、
まだそういった教育がなされていなかったとすれば
今後どうするかを問わねばならなかった。
こういた点に関して警察にコメントを求めても無理だ。
わたくし達はこれまでに稚い子どもが無法に未来を断ち切られる、
ということを無惨な忘れることの出来ない多くの事件から学んだ。
幼い子どもにも「安全教育は必須」なのだ。
3才の子どもといえども保護者と共に自己強化を目的とする
「学ぶことの出来る安全体験教育」はある。
逆にこの年令から安全教育を始めねば、
小学校に行って安全マップを作っても「お守り札効果」でしかない。
これまでいかに多くの子どもが「安全マップを描いて」被害に遭っていることか。
子どもの安全基礎体力を幼小児段階から付け伸ばすための安全教育が必用である。
その際、警察が出来ることは、
この種犯罪は現代という価値―規範が揺れ動く時代を背景に、
農村都市を問わずどこでも24時間365日いつでも起こるのだ、
という内容の重さを犯罪のプロという立場から市民にきちんと伝えることである。
「心ちゃん」という掛け替えのない幼い命を代償として、
この事件から私たちはこれらのことを学ぶ。
清永奈穂
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