NPO法人体験型安全教育支援機構 (旧ステップ総合研究所子どもの安全教育グループACE ニュース

犯罪・災害から自分で自分を守る力をつける体験型安全教育プログラム・実践の記録等の情報をお伝えします

大地震に遭った子どもたち~日本海中部地震の教訓~①

2011-03-22 15:07:35 | 日記
今回の東日本大震災は、近年の地震の歴史の中でも特異な部類に入ります。というのも、阪神大震災や中越の地震は、子どもたちが学校に行っている時間に起きた地震ではありませんでした。子どもの在校中、または登下校の時間に起きた大地震は1983年の日本海中部地震以来28年ぶりのことです。
その時子どもがどうしたか、そしてその後子どもたちがどうしたか、歴史から学ぶためにも、まず日本海中部地震の当時の記録をひも解く必要があるかと思います。

弊所特別顧問の清永賢二は、28年前の日本海中部地震が起きた直後、現地に飛び、子どもたちの様子をつぶさに見てきました(「大地震に遭った子どもたち」NHK出版 昭和59年)。

日本海中部地震でも、大勢の子どもたちが、先生たちや父母の目の前で一度に、雑作もなく、津波によって海のそこに引きずり込まれていきました。何の援助の手を差し伸べる間もなく、海底に次々と沈んでいく、あるいは学校の建物に押しつぶされ、火に追われて逃げまどう、、、そうした状況がたくさんありました。

日本海中部地震の場合、死者は104名、そのうち子どもは13名でした。遠足に来ていた小学校の子どもたちが、津波のため、うずまく海に引きずり込まれ、つぎつぎに海に消えていったことが、日本海中部地震の残酷さをより浮き彫りにしました。

こんなところで、こんな大きな地震が起きるとは思わなかった。こんな大津波がここに押し寄せると思わなかった。
青森、秋田で遭った人たちのほとんどがそういいました。
まさか、ここで、この時、私達が、、。
そう思った人々がほとんどだったといいます。

それは前触れもなく突然に、おそいかかり、たくさんの命を奪っていきました。

「4時間目の終わりころ、地震が来ました。
はじめ、地面がぐらっと動いた時は「地震が来たのか」と思っただけでした。
それは、私達の方へくる地震と言えば、弱いものばかりだったからです」
(秋田県N小学校 5年生 女子 「大地震に遭った子どもたち」より)

天災とよばれる現象が全てそうであるように、
日本海中部地震も何の前触れもなく突然に襲いかかりました。
(明日に続く)

東日本大震災と犯罪防止

2011-03-18 10:44:22 | 日記
こんにちは、ACE清永奈穂です。
今日は、東日本大震災と犯罪防止についてお伝えします。

私達の所属する㈱ステップ総合研究所は、
阪神大震災や中越の地震の研究から、
こういった地震などによる生活の破たんから、
悲しい犯罪がたくさん起こる現場を見てきました。
日々の生活が壊れるということは、色々な隙間ができること。
いままで起こり得なかったことが、隙間から起きてきます。

犯罪にあわない、犯罪を起こさせないためにも、
まず、下記のような対策があります。


1.送って取りあえず喜ばれる小物(チェーンと防犯ブザー)

罹災者の苦難がこれから本格的に始まります。
生命と生活維持への苦しい闘いです。

同じ被災者そして避難場所に住まう者として「コミュニテイ(共に一緒に居るために何が出来るだろうと考えて人々の集まり)」が形成されることは間違いありません。
 しかし生命と生活維持の強い不安があるのも違いありません。
 「安全安心」が脅かされているのです。
 
 そこで阪神淡路大震災で学んだことを全国の防犯団体や防犯に勤めているたちに
「ともかく出来ること」を伝えたいとおもいます。


2.罹災者は今、自分が持っている物を、ともかく、身辺に安全に確保しておきたい。

 このことを確かにするため、自転車の「盗犯防止のためのチェーン」が有効です。
 停めた自転車、身の回りのちょっとした物を動かない物に固定する等々。

3.手で提げるくらいの持ち物が身辺から不意に離れるのを覚知するための「防犯ブザー」。
防犯ブザーの引きヒモを別な長めのヒモで結び、不意に引っ張られるとブザーが鳴り響くようにする。

こうした一寸した工夫でも、夜安心して眠ることを確かにしてくれます。
心配なく熟睡出来るということは本当に嬉しいことです。
あまりに多くのチェーンやブザーがあってもどうにもなりませんが
少なくとも1家に1個は必用です。

悪質商法が出始める前に、全国の方々のこうした小さな支援は可能なのです。

体験型安全教育のための「安全基礎体力プログラム」公開します。

2011-03-18 10:33:30 | 日記
今回の地震で思ったことは、
危機的状況で的確な判断をするには、
とにかく体験的な経験と練習を積むことしかない、ということです。
それは防犯も防災も一緒です。


子どもの安全教育グループACEは体験型安全教育で「安全基礎体力プログラム」を用い
様々な発達段階にそった体験型の教室を行っています。

この度、そのプログラムを公開することにいたしました。

今までは、色々な点を考え、
公開しておりませんでしたが、
できるだけ広い範囲で知っていただき、
ご家庭でも、学校でもどんどん試していただきたいと思い、
公開に踏み切りました。
(「http://www.ri-step.co.jp 子どもの安全教育グループACE 安全基礎対六プログラム」 をご覧ください。)

「安全基礎体力」を構成する基礎中の基礎プログラムは、
以下の表のような行動形成から構成されています。

 このプログラムの気を付けねばならないことが3点あります。

①この行動プログラムは、さらに追加されて行くもので,これで終わりというものではありません。

②この中は「子どもの発達段階」によって並べられねばなりません。年令だけでなく、まさに子どもが持っている能力の違いが踏まえられねばなりません。そのためには、あらかじめ「その子どもがどの位の潜在的な安全基礎体力」を診断しておかねばなりません。その診断表も完成しています。

③子ども達に「なぜ20メートル走らねばいけないか」の根拠が教えられねばなりません。
たとえば「暗いところでは10メートル離れて顔が薄らボンヤリ見えるところは注意しなければいけません」が何故10メートルか、薄らボンヤリとはどの位の「明るさ」かが示されねばなりません。
 根拠のないことを「」で説明されてもしようがないのです。

④この表に示された「大きく7つの項目」を乱暴に取り出し実施したとしても、安全基礎体力の向上にはさほどの効果はありません。子どもを前もって診断し、どこを伸ばせばよいかを良いかを中心「その子の能力」にあったメニューがつくられねばなりません。そのために②の診断表の開発がなされているのです。

この表の他にも「不審者」「危ない場所」「被害に遭いやすい子」「被害遭遇時の対応」「変な誘いを上手に断る方法(Social Skill Training for Critical Situation=SSTfCS)」などのプログラムが、各種調査結果、元犯罪者たちの協力を得て完成しました。
是非、子ども達に実施してみて下さい。完全です。


私達子どもの安全教育グループACEもお手伝いいたします。

体験型安全教育のための安全基礎体力プログラム
www.ri-step.co.jp

大学で教育学を学ぶ皆さんへ~東日本関東大地震に関連して~

2011-03-17 15:42:13 | 日記
こんにちは、ACEの清永です。

先週の大地震以来、信じられないような毎日がすぎています。

娘の学校は休校、
息子の学校は毎日登下校に防災ずきんをかぶり、給食もなくなり
お弁当持参です。

東京のど真ん中の学校ですが、
それでも大地震や余震で体育館の窓が割れたり、
うなされて熱が出たり、
子どもたちの生活に影響が出てきています。

ただ、こんな影響は、被災地の方々のご苦労に比べたら、
微小なことです。
被災地の、そしていま原子炉周辺で苦しんでいる方々、
特に子どもたちのことを思うと、胸が詰まります。

私の父は、防災防犯に関して、
長年研究して参りました。
被災地の皆さんに比べれば、
大した経験ではないのですが、
過去の研究から、皆さんにメッセージを伝えたいそうです。

もしよければ、下記、お読みください。



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日本女子大学 清永賢二


清永は元長岡造形大学教授の平井邦彦さん等と1983年に起こった
「日本海中部地震」で逃げまどった子ども達を調査いたしました
(日本放送出版協会「大地震に遭った子どもたち」)。

また阪神淡路大震災も現地に赴きました。今清永は自身が動くことが出来ません。悔しい思いで毎日を過ごしています。

日本海中部地震で罹災校を訪れた経験でいえば、子ども達の苦しみは今から始まります。

勉強したくとも教室も教科書もノートも鉛筆1本も無いのです。
場合によっては、仲の良かった友だちもいません。
先生も消えてしまい泣いている子どももいるものと思います。
避難場所の大部屋を区切った教室では隣室の騒音がうるさく集中できません。

将来、大学で教師を目指している皆さん、今こそ罹災地の子どもと向き合い、
一緒に本物の教育学の勉強をする時が来ました。
是非、現地に赴く用意をして下さい。子どもと向き合って下さい。

ただ、焦って行っても反って現地は迷惑かもしれません。
することが見つからないかもしれません。
もう少し待って、それから友達と一緒に行動を起こしても良いのではと思います。

苦難の時こそ、子どもたちの将来に希望を寄せましょう。

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私達ACEも、何らかの形で
お役に立てることがないか、考えています。

ACEのメンバーーは、ほとんどが、
小学生、また小学生以下の子どもの母親でもあります。
自分たちの子どもの姿と被災地の子どもたちの姿をみて、
切実に、自分自身の問題として考えています。
私達のできる形で、
息の長い行動をしていきたいと思っています。

熊本「心ちゃん」事件;本当に被害者化を防ぐ手だてはなかったか②

2011-03-10 11:40:52 | 日記
事件に学ぶ

熊本「心ちゃん」事件;本当に被害者化を防ぐ手だてはなかったか②

 この事件を報じる記事(新聞XとY紙、3月5日及び6日朝刊)を見る限り、次のような点が注目された。
①「警察庁幹部は『いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない』と話している」。(既載)
②スーパーの死角が突かれた。 (今回)
③トイレというプライバシー第1の密室性が突かれた。 (今回)
④防犯カメラの「存在を知る」ことで犯罪の発生を減少させることはできる。
しかしトイレの中や周辺にはあまりその存在を示すモノがなく、
カメラの効果が発揮できない。

学ぶことの②
②と③を合わせて注目すると、
「死角」「密室」という言葉が明確に定義されて使用されるべきではなかったか。

 死角は密室性と結びつき、
「犯罪」という言葉にミステリアスで秘密めいた臭いをふりかける。

都市の死角、高層ビルの死角、家屋の死角。男女の死角。
スーパーの死角。トイレの死角。

何でも「死角」という言葉を後ろにつけると、
無機質で冷たい「犯罪」という言葉も深みを増し、
人間そして人間が造りあげてきた人工物の犯罪への強い関わり、
「犯罪」と「人間」の関わりが強調されてくる。

しかし、改めて「死角」とはどう定義されるのかと問われると
思わずグッと息が詰まるのも事実だ。死角とは何か。

 「死角」を理解するには、そもそも犯罪とはどうして起こるか、
から説き起こさねばならない。

 犯罪はなぜ起こるか。簡単なことだ。
犯罪者がいて被害者がおり、彼らを取りまく社会的物理的環境があるからだ。

この3者が交わる真ん中の1点、そこで犯罪は起こる。

この1点を犯罪者は「機会(chance またはopportunity)」という。

いわゆる「チャンス」だ。
これに対し同じ1点でも被害者は「死角(dead angle)」という。

そして犯罪予防論の立場では「隙間」と呼ぶ。犯罪はこの隙間を突いて起こってくる。

犯罪は隙間産業だ。

被害者の立場からの「死角」をもう少し砕いて表現すると
「見えない、見えにくい」ことをいう。

周囲から見えにくい「死角」を「チャンス」として犯罪者は襲いかかるのだ。
「密室」はこの「見えない、見えにくい」が完璧に形成されている空間に外ならない。


今回の熊本事件に焦点を当てよう。

事件現場は「トイレ」という「密室」であるが、
そこに至る入り口は、店員や買い物客から見通しの良いフロアーとなっている。
見えるのである。「死角」ではない。
ということはこのトイレに関して云うと最終的な女児と被疑者が対峙した
「女性トイレそして死体をリュックに詰めた障がい者用トイレ」は、
通常の「死角」概念で説明できるが、
売り場フロアーの便所入り口から個室までのアプローチ(以下、アプローチ)は「死角」以外のあるいは「死角の別な説明概念」を必用とするということだ。

今回事件のトイレのアプローチは防犯カメラも備わった、
周囲から「見ようと思えば見えた」現場である。しかし誰も気がつかなかった。

ここで「トイレ」とはどういう空間か、という説明が必用となる。

トイレとはご不浄で恥ずかしい空間であり、
出来れば見られたくない、見てはならない空間である。

また緊急にして必要不可欠な空間でもあり、
どの方角からでも駆け込める(閉じながら開いているという矛盾)、
その必用とする姿を利用する者は見られたくない空間でもある。

そこでトイレの入り口から最終的な密室空間まで
「見られないよう」「見せないよう」
しかし「できれば利用しやすいよう」な造りが求められることとなる。

しかし、この「閉じながら開く」という矛盾を解決する巧みな工夫はない。
どちらかを犠牲にせねばならない。

そこで多くのデパートのトイレに見られるように、
トイレは売り場の一番外れで、周囲から見えないよう(わざわざ不便さを求め)、
かつ個室アプローチへの入り口手前に利用され易い、
どちらからも駆け込めるよう(犯人側から見ると獲物に近づきやすく、
逃げやすいという犯罪者行動の基本原理を満足させる)
簡単なT字の壁を設けるという工夫がなされる。
確かに視線は通らない見えない。

しかし今回の事件のトイレの場合は、アプローチ手前にT字の壁はなかった。
このような場合はどうなのか。

見ようと思えばフロアーの店員やお客から「見えた」のである。結論からいうと「見えたけれども見えなかった」のである。

ここで「見える、見通せる」ということを考えておかねばならない。

「死角」は「見えない」ことであり、
犯罪者が滑り込む隙間であることは前に述べた。
いずれも「見ようと努力しても見えない」状態を産み出す。
この隙間には
①空間の隙間、
②時間の隙間、
③個人(心)の隙間、
④人群れ(集団)の隙間がある。

しかし今回事件の場合、誰も「見ようと努力」していなかったのである。
見えたのに見えなかった。
それは「今回事件がトイレを舞台」として起こったということに起因している。

即ち、誰も「トイレ」を見ようとしなかったのである。
なぜ見ようとしなかったのか。
先に述べたようにトイレが見てはならない空間であったからだ。
じろじろ、または注視しては変で怪しいのだ。

「死角」の場合は注視する、
注視しようと努力しても「見えない、見通せない」のに対し、
トイレの場合は
「注視できずに、そしてかつ(and/or)入ってしまえば完璧に視線が遮断」
されてしまうのである。

ここで大切なのは「注視できない」ということで、
多くの人は「さりげない無関心」を装い注視しない。

つまり(注視することが職業化している人、あるいは余程の変態かを除いて
)見えても見えない、見ようという努力を放棄した状態を作り出すのである。

即ち、今回事件の背後には、努力して注視しても見えない
「死角(個室という密室)」と合わさって、
注視しようとしない努力をする
「さりげない無関心(トイレというご不浄空間全体)」が作用し、
周囲の店員やお客さんからの視線を奪っていたのである。

この分け目は大切である。

なぜならこうしたトイレのような空間に対する犯罪防止の重要な鍵を
与えてくれるからである。

自然で嫌みを伴ない鍵がここから得られる。

環境設計論(CPTED)からの工夫だ。
どのようなことかは後に述べたい。

安易に「死角」という言葉を使うな、
使うことによって犯罪はなぜ防げなかったのかという考えを
煮詰めてゆく努力を放棄させ、再度の事件を招きかねない、
という教訓をこの事件は教えてくれる。

 (子どもの安全教育グループAEC代表  清永奈穂 2011年3月9日)

事件に学ぶー熊本「心ちゃん」事件;本当に被害者化を防ぐ手だてはなかったか①

2011-03-06 10:19:51 | 日記
3月3日夜、くしくも雛祭りの日の夜であった。
女の子の御祝いの日で「心ちゃん(3才女児)」を囲んだ
楽しく笑いさざめく声が熊本の町中に聞こえたはずである。

しかし、このHPを覗いている方々がご存じの様に
非常に残念で沈鬱な夜となってしまった。

わたくし達ができることは、共に悲しみ怒ると同時に、
こうした事件が二度と繰り返さないよう事件から何かを学びとることである。

それは重い事実を前にしたわたくし達大人の努めである。


 この事件を報じる記事(X新聞3月5日及び6日朝刊)を見る限り、
次のような点が注目された。

①「警察庁幹部は『いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない』と話している」。
②スーパーの死角が突かれた。
③トイレというプライバシー第1の密室性が突かれた。
④防犯カメラの「存在を知る」ことで犯罪の発生を減少させることはできる。しかしトイレの中や周辺にはあまりその存在を示すモノがなく、カメラの効果が発揮できない。

学ぶことの①
①についていうと警察関係者意外にもコメントを求めるべきではなかったのか。
 犯罪防止という点からまず警察であろう。
 しかし、子どもの安全確保に関しては多角的な視点(見方、コメント)
 があるべきだ、ということを過去の同種の事件は教えている。

 「いきなり女児を襲って、殺害するような事件は防ぎきれない」

というコメントに接すると、この事件からわたくし達は学ぶことは何もなく、
再度の同種事件の発生を許してしまうのではないかという感想を抱く。
防犯カメラと添付ステッカーが無ければ防げないのか。

確かに「いきなりの事件」を防止することは非常に難しい。
同時に警察には「市民と共に犯罪予防」という最近非常に強化してきている機能がある。

何もかもでなく、警察ができる主たる防犯機能には
「加害者となる可能性のある者を事前にそうしないよう注視する(再犯防止)」と
「被害者の外周=環境(外的社会的環境)を強化し危害に遭わないようにする」の
2つがある。

本事件でもそういう視点から警察が出来る働きは幾つかあったと思える。

例えば、犯罪は「犯罪者がやる気」になれば何処でも起きる、
という犯罪発生の基本原理に基づき、
被害者自身が身を守る「安全基礎体力」が十分に発達していない段階
(少なくとも小学校2年生まで)では、
周囲の大人はいかなる状況でも「目を離さないこと」は鉄則ですよ、
どんな幼い子どもでも危機の時代の今日では安全教育は必用ですよ、
と専門家の立場で普段から市民に広報・啓発活動を勤めていることは出来たはずだ。

しかしこの機能が充実するためには「保護者・子どもの教育」と結びつかねばならない。
交通事故等の教育を除いて警察が中心となってこうした日常生活の安全教育機能を十分に果たすことが出来るのか、やれるほどの人員があるのか、やるべきなのか。

 ここで述べるべきことは、上記の新聞のコメントは
文部科学省や厚生労働省そして内閣府にも求めるべきであった、ということだ。

文部科学省以下の行政は、保護者と共に3歳児でも身につけることが出来る
「最低限の安全基礎体力」を学ぶ安全教育をどのような内容で
実施しようとしていたのか、実施していたとすれば
その教育は今回の事件発生にどの様に無力であった、
まだそういった教育がなされていなかったとすれば
今後どうするかを問わねばならなかった。

こういた点に関して警察にコメントを求めても無理だ。

 わたくし達はこれまでに稚い子どもが無法に未来を断ち切られる、
ということを無惨な忘れることの出来ない多くの事件から学んだ。
幼い子どもにも「安全教育は必須」なのだ。

3才の子どもといえども保護者と共に自己強化を目的とする
「学ぶことの出来る安全体験教育」はある。

逆にこの年令から安全教育を始めねば、
小学校に行って安全マップを作っても「お守り札効果」でしかない。
これまでいかに多くの子どもが「安全マップを描いて」被害に遭っていることか。

子どもの安全基礎体力を幼小児段階から付け伸ばすための安全教育が必用である。

その際、警察が出来ることは、
この種犯罪は現代という価値―規範が揺れ動く時代を背景に、
農村都市を問わずどこでも24時間365日いつでも起こるのだ、
という内容の重さを犯罪のプロという立場から市民にきちんと伝えることである。

「心ちゃん」という掛け替えのない幼い命を代償として、
この事件から私たちはこれらのことを学ぶ。


清永奈穂