考えてみれば、
昔から
孤独を嘲笑う風潮が作られていたと言える
人々の社会から逸脱し
客観的に孤独といわれる状態に陥ることが
とてつもなく恐ろしい事だと
恐怖を感じるような社会が醸成されたのである。
それが、ここにつながるのだとしたら、
どれだけ用意周到なんだろうか。
広い意味での「為政者」は、
「ぼっち」という言葉を流行らせた主体なのだろうか?
「友達ひとりもいねえんだぜ」という嘲笑う文化を作った主体なのだろうか?
いつのまにか、SNSで何百人も、何千人も友達がいる人を「あがめ」
SNSで少ない友達しかいない人を「かわいそうな人」と哀れむ
そんな社会に。
人から「ぼっち」と言われるのをおそれる
人から「さみしい人」とかわいそうがられるのを、おそれる。
おそれのあまり、
一生を棒にふるかもしれない選択を、進んでしてしまう。
恐れから生まれる選択。
孤独に陥らせ、洗脳を容易にする。
ということの前提に「孤独への恐怖」をあらかじめ植え付けた。
孤独を怖い、と心底思っている人々が、
社会の求めている「自分像」を逸脱するのを恐れ
自分の命を差し出してしまう。
為政者は、そんな人格形成をするために、
おそらく日夜努力をしてきたのだ。
そして、
えんがちょとか
ばいきん
とか
寄生虫だとか
子供たちがいじめで使う言葉を
容認し、
あらゆる教育機関で、
いじめられる子供たちを守ろうとせず、
いじめる子供たちを教育することもない。
それは、一つの方向へ向かうために。
支配しやすいニンゲンを作るための、
必須のルールであったに違いない。
孤独を恐れない人は、虐められるような
自然と「あいつをいじめたい」と思えるような
なにかを埋め込む。
それが、どんな操作によるものなのか、私にはまだわからない。
私は騙されなかった。
それは
おそらく
孤独に慣れてしまって、恐ろしがらなかった、という
それだけのことなのかもしれない。