ネコのヒトビト

ネコにまつわるヒトビトについてのお話等

痛みを感じる心

2024-07-10 02:59:04 | 思ったこと
高齢者はそのうち死ぬからと
その人は言った。

相手がどうなろうと、それは自分に関係ないとも
そういうことを、
文脈を無視すればとんでもないことと思えることを
言える神経の人間が
支配者になろうとしている

それらの言葉は、はじめ隠蔽されていて
きれいな言葉で飾り立てて
仕舞われていた

しかし、最近はこれを隠すことなく
平気で表出する。それを咎める人が少なくなったからだ

弱肉強食、弱者は滅びるのみで、
お金や権力を得たものには頭の良さがあり
それだけで正当性があるのだと
言外に表現され尽くした世界で我々は生きている

弱者は死ねと
強者に屍を貪らせろと
強奪するものを正当化し
騙すものを頭が良いと称賛するような
そんな世界に生きている

言葉たくみに、そういうものを肯定して
それを否定するものをやり込め、
社会の片隅に 追いやり、抹殺することができる冷酷さこそ
奨励される

そのような空気感を敏感に感じ取り、そのように生きる人間で
この世界を満たし


正常な判断力をもつ人間を次第に追い詰めていく




今日、佐川急便のお兄さんが
大量の園芸用土を運んでくれた

いつも気持ちよく運んでくれるのだが、
さすがに気の毒になって
いつも重いものをすみませんといったら
腰をやられてしまって。でも重いものだとわかっていれば大丈夫なんです
笑顔で答えていた

この世界は、こうした
痛みを感じながらも、それを乗り越えて笑顔で仕事をして
社会を成り立たせている一人一人の善意から
むしり取って 

騙し取って
そこから得た巨万の富を 分配し 世界をコントロールする
心のない人たちがトップにたっている

その人たちに、痛みを感じる心はない。

訓練された受け答えなのか、あるいは。

2024-07-10 02:32:37 | 思ったこと
誰かから質問を受ける
しかし、それに答えず、質問の趣旨を質問しなおす
質問者は、もういちど丁寧に質問内容を伝え直す
しかし、質問を受けた側は、それを受け止めることなくまた質問に質問で答える
この堂々巡り

質問を受けた側は、質問者にあらかじめ悪意があると判断しているかのような態度で応答する。それをみている側は
質問者の質問の背後に悪意があると判断する

客観的にみて、
質問の内容に悪意も善意もなく中立のものでも
こうしたやりとりが繰り返されることにより、
質問を受けた側が正当性があり
質問を投げかけた側が 質問を受けた側の怒りを引き起こしたに違いない、と
(人によっては)判断する。

これは高度な、人に見せるためのコミニュケーションテクニックである。
イメージ戦略としては巧みであり、
(あたかも 質問を受けた側に正当性があり、
質問を投げかけた側が怒りを引き起こしたと思わせ)
質問を受けた側がなぜかもつあらかじめの怒りの表出や
質問そのものに答えないという質問者への侮辱や人格否定があっても
感情的な反応と 言葉の際限ないやりとりを
上手に自分の正当性を主張し、自信満々で
あたかも、相手が愚かであり、質問技術や質問の趣旨にあらかじめ悪意があると
思わせる。
つまり 質問を受けた側を勝利者だと思わせる。
質問を受けた側に正当性があると思わせる。

これは高度なテクニックである。
どこでこれを訓練してきたのだろうか
場のコントロール
人へどう見せるか

私たちは、そういう「手法」について知らない
ただ、違和感をもつが、どうして違和感があるのか、説明できない。
いくらこのやりとりが不自然であり、常識的なコミニュケーションのやり方を逸脱していると思っても
どちら(質問者 質問を受ける側)が正当性があるか、という意見が二分してしまい、結局のところ
質問を受けた側を強力に推す人たち(容易に勝ち負けで判断する人たちや、金に雇われた人間も含む) に 世論形成をさせるのを阻止できない。

もっともそこに世論はない。
ただ、人々に見せるための世論という名の宣伝広告が広く流布されるだけで
「みんな、そうおもっているのだ」というふうな誤解が広まるだけである。

そういうものに、この列島の人間たちは上手に騙されてきた。
そのような「空気」に支配されるように上手に訓練されてきた。

いま、そのプログラムの渦中にいる。
そして、ここで繰り広げられているのは
静かな、仲間同士で行われる攻撃であり、戦争である。

見えない戦争を させられているのだ。


この質問を受ける人物は
この素質、
この自己演出の才能があることを見抜いた上でのスカウトかもしれない。

しかし、おそらく訓練され、洗脳されたものだと 私は思う。

問題意識の次元の違い

2024-07-08 09:57:51 | 思ったこと
内海医師が、
「ラウンドアップは枯葉剤だから」と述べている映像をもって
ラウンドアップの会社から訴えられかけている人が
注意喚起のツィートをしていた。

実際ラウンドアップが枯葉剤と同じかというとそうではなかった
事実ではないことをリツィートすると、酷い目にあうから気をつけてというものだった。

そこへ、いろんな人がぶら下がって、憎悪に満ちた言葉で攻撃していた。
ごっそりラウンドアップの会社から賠償金をとられれば良いとかなんとか。

これをみていて、
このツイ主はラウンドアップの危険性について広めたいと考えて、
内海氏の動画をSNSに載せたのだろうが、
それは農薬や除草剤の害を知らしめて、多くの人が被害に遭わないようにという願いからの行動であり、内海氏の言葉を精査できなかった点は悔やまれるけれども真意としては農薬の害をできるだけ減らしたい=自分だけのことを考えてではなく、人々のこと、この国土の将来を考えてという真意が窺える

対して、このツイ主に噛みついた人々は、内海氏の言葉を精査しなかったという点を責めて、このツイ主をけなし、おとしめ、傷つけ、地獄に堕ちろくらいのことを言っていじめている。

この両者の問題意識の次元の違いが、
あまりにも深刻だと思った。

たとえば反ワクという人たちは、ワクチンに反対しているだけではない

多くは、
この行政のあり方が 人権侵害につながりひいては、言論統制や超管理社会になる萌芽を見抜いて憂いて行動を自主的にしている人々である。

対して、ワクチンを信じない人間はバカだと決めつける人たちは、決めつけるが、被害にあったという人たちと向き合うことは永遠になさそうで、
そういった人々が愚かだと決めつけて、バカにして、侮辱するのを厭わない。
同じ支配を受ける側の人間なのに、支配者側に常にたち、それ以外を排除しようとする。
それも生存本能なのかもしれないが、
根底になにがあるかというと 侮蔑、差別に基づく自己の優越意識 選民意識ではないか。

将来の世界を憂いて、なんとかしたいという思いと、
人をバカにして突っ込むだけの人の思いの
次元の違いがどうしようもないと思った。