昨日、「人間と動物の病気を一緒にみる」という本を眺めていた
猫が安心して私の側にいるので撫でながら
6章「死ぬほどこわい」には
動物は捕獲されると恐怖で死んでしまうものもあるという事がかかれていた
捕獲=捕食されるという予測恐怖のために
恐怖に対する身体反応が過剰に起きてしまった結果
心臓が止まったり、身体にとって有害な反応を起こして死んでしまうという。
私は猫らを追いかけ回したり、突然捕まえたり、大きな声で叱ったりという
事をほとんどしない
なにかをする際はできる限り先に声をかけるし、
いきなり触られていやだろうと思う場所には触らない。
そういう事が、信頼関係をつくっており
私以外の人に対する態度と決定的な差をつくっているのだろう
もう一つ思い出したのは
過去に家の中でみつけた小さな子ネズミを追いかけて、
長時間の追跡の末、そのネズミが死んでしまった様子を観たこと
かわいそうに、恐怖で死んでしまった
ねずみは「恐怖で死んでしまったのだ」と
その時、思った
恐怖を作って、その恐怖だけで死んでしまったのだ。
その章の文章を読んでいて思い浮かべたのは
毎日の患者数、ワクチン接種、あるいは罰金、罰則、症状についての強調した報道が、どれだけの人々に「恐怖」を与えているだろう。
恐怖による身体反応でどのくらいの人に
心血管系、免疫系、精神への有害な影響を与えているだろうか
テレビ以外を観られるひと
仕事で、テレビを観ないでいられる人
以外の
テレビしか 楽しみがない人たちへ与える影響が心配だ。
そんな事を思って寝たからか、
昨日はねずみの夢をみた
ねずみは、子ねずみではなくて
大きな猫くらいの大きさで
まるで「日光猿軍団」みたいに整然と椅子に座っており
衣服を着て、手品などをしていた。
ねずみが芸をするのをみていた。
ねずみの手先の巧みさ、理解力の良さに驚いていた。
夢のなかで。
どんな動物も 人間も 心がある
心があれば、外的な情報に反応する
どんな情報を流すか、その情報にはどんな目的をもたせているか
それを受け止める側がもつ要素はどのような状態か
情報を流す側、受け止める側
恐怖は有害な情報であると言う事を認識していることは重要だ