竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

日本のアンソロジストたちー大伴家持伝(21)  慶事予祝の歌

2015-06-04 14:37:09 | 日記
日本のアンソロジストたち―大伴家持伝(21) 最終回
 因幡国守時代  慶事予祝の歌

 家持は、クーデタ派の奈良麻呂、池主たちの強い誘いを拒み通し、仲麻呂に対抗して行動を起こしたことはなかった。かといって朋友を裏切ったのでもないから、彼らの死を痛惜こそすれ、うしろめたさは感じていなかった。
○あらたまの 年行き返り 春立たば
       まづ我がやどに うぐいすは鳴け     (巻二十)
(年が改まって新しい春を迎えたなら、まっ先に、このわれらの庭で、鶯よ、鳴いてくれ。)   
 左註によれば、家持はすでに「兵部大輔」から「右中弁」に昇進していたらしい。官人として、ようやく将来への安定した立場を得て、明るい気持ちになって詠じた歌であろう。
○高円(たかまと)の 野の上の宮は 荒れにけり
       立たしし君の 御代遠そけば       (巻二十)
(高円の野の上の宮は荒れ果ててしまった。その昔、ここにお立ちになった大君の御世が、日一日と遠のいてゆくので。)
 この歌は、聖武天皇の「高円の離宮」を偲んで作った歌である。家持は、内舎人として宮廷に出仕したばかりで、聖武・諸兄の蜜月の頃を回想しているのである。

 クーデタ後の政治は、事態の平穏な収拾をめざしてめざましく動いていた。仲麻呂は坂東諸国からの防人を徴するのを停止し、諸集団を郷土に帰還させた。さらに諸国から上京する庸・調の脚夫に対し、特に保護を加えるように厳命した。758年には、京畿七道に「民苦を巡問して務めて貧病をあわれみて飢寒を衿み救ふ」ために「問民苦使」を派遣した。

 同年6月、家持は因幡国守として、赴任することになった。地方官として、越中では5年の歳月を過ごしていたが、このたびは、いつ帰京できるのかもわからない左遷であった。前途は暗澹たるものであった。
○新しき 年の初めの 初春の
     今日降る雪の いやしけ吉事(よごと)   (巻二十)
(新しい年のはじめの初春の今日降る雪、この降り積る雪のように、いよいよ積もりに積れ、佳き事が。)
 これは、任務上、国庁で披露した農事予祝の儀礼歌である。この歌が、家持の、そして「万葉集」の最後の歌になった。