竹崎の万葉集耕読

日本人のこころの拠り所である「万葉集」を味わい、閉塞感の漂う現代日本人のこころを耕したい。

ブログ・新シリーズ『世に面白き本などの話』  スタートの個人的事情

2015-06-12 13:15:47 | 日記
  ブログ・新シリーズ『世に面白き本などの話』
          スタートの個人的事情

 この「竹崎の万葉集耕読」のブログも、開設してからすでに6年を経過した。その間、私は、多くの先人たちの注釈を参照しながら、「万葉集」だけでなく、「古今集」「新古今集」「源氏物語」「金槐集」「山家集」にも手をのばし、その中で、よく知られている和歌を取り上げ、その歌の要点と私の個人的な雑感を書き込んできた。さらに最近では、「日本のアンソロジスト」の系譜をたどるべく、「万葉集の大伴家持伝」を記述してきた。そして、気がついてみると、わたしも齢・75歳を超え、いわゆる「後期高齢者」に仲間入りしていた。わたしは、不覚にも「古典文学」の花園で戯れているうちに、「現世」のことを忘れかけていた。男の平均寿命に達する日も間近かになっている。なにはともかく、とりあえず「古典耕読」については、ここらで一段落としておきたい。

 わたしは、70年もの昔、父親を戦死で喪うまでの5年間を長州・下関で過ごしたはずである。今では、私自身はもとより、そのころのことを知っている肉親も親戚もいない。過日、父の本家筋の「跡取り」を浄土に送り、わたしが地元に残っている一族の長老になった。
 長州・下関には、わたしは九州に出張した帰路に、一度だけ立つ寄ったことがある。もとより事前に下調べすることもなく、「日和山」の近くにあると聞いていた町名だけを頼りにして、その近辺を歩き回ってみた。全くもって、未知の風景が拡がっていた。ただ、今も公園に佇つ高杉晋作の陶像だけが、記憶の底から甦ってきた。その昔、一緒に遊びにきた姉とはぐれて、ずいぶんと長い時間、この像の下に座り込んでいた。爾来、今日まで高杉晋作は、わたしの「こころの友」になった。
 言うまでもなく、この新シリーズの表題は、今、大河ドラマで人気の晋作の辞世の句とされている「おもしろきこともなき世をおもしろく」のパロディーである。わたしは、一介の国語教師として、つましく、まじめに生きてきた。概ね平坦な毎日の連続に、「何か面白きことはないか」と言うのが、口癖になっていた。その実、わたしは気が小さくて、出不精であった。
 晋作の死を看取った野村望東尼が晋作の句のあとに、「すみなすものは心なりけり」とつけて「和歌」としたと伝えられているが、わたしの場合の付け句は「心」ではなく、「本」であった。最近の文科省は、性急に社会に必要な人材を育てるとして、「人文社会系学部」の廃止を検討しているやに報道されているが、わたしは、主にその系統を読んで、「面白」かった。このシリーズでは、近刊の本や昔読んだ本などについて、雑談風に綴っていきたい。