今日は撮影日和

Raicho9の贈る、鉄道&ノラ猫のフォトページです。

北恵那鉄道 木曽川玉蔵橋梁

2014-11-10 01:27:16 | 廃線探訪
我らの東海が誇る特急電車371系が今月で引退ということを知り、例年のごとく中央西線で臨時があると知り、おそらく11か月ほどぶりに撮りに行ったわけですが

通過を前に、待ってましたと言わんばかりの雲と野焼き(割と禁止自治体増えたのに中津川市はと思って調べたら、ああいうレベルのは厭わないんですね・・・)のコンボでしたが、まあ、現像してからのお楽しみですね

昔は現像を待つのも心から待ち遠しいほどだったのに・・・


で、転んでもただでは起きぬではないですけど、せっかく中津近辺まで行ったので、1978年に消えた北恵那鉄道に寄り道



廃止後36年が経過する今もなお、木曽川に架かる橋梁

土木学会によれば、どうも1886年英国製、東海道本線天竜川橋梁からの転用品のようです

ただ決定的な資料がないのか確証がないらしく、?が付してありました



先のは苗木側の下流側からの写真、これは同じく苗木側の上流側から

画面左側は採石場でしたので、すべてこちら苗木側からの写真です



△(というかW字)の並ぶワーレントラスが2対でひし形(というかX字)の並ぶダブルワーレントラス

それに、真ん中を通る中間水平材の付いたものなので、かなり重厚な感じですね

このダブルワーレンは無駄の多い構造で、昭和期になるともうダブルワーレンはないので、かなり由緒あるもの

同じものは揖斐川の新開鉄橋ですね



そういえば一瞬だけ大垣市民だった頃に新開鉄橋通ったなあと写真を掘り返した結果、こんなのしかありませんでした、自転車から降りるのを面倒がった結果です

正面からでわかりにくいものの、玉蔵橋梁同様△ではなくX字状に組まれているのがわかります

こちらは人道橋として現役です



北恵那鉄道は開業から狭軌600V電化なので、架線があったその辺の名残もチラホラ

ただ電化が災いし、廃線間際の5年ほどは最強の合理化として昼間の運行を止めてバス代行にしたという、もはや存在意義すら危うくなった末期だったよう



これが1978年9月、廃止年月の交通公社発行の時刻表の北恵那鉄道のページというか部分です

上下12本、5時台から23時台までと、割とイケそうな雰囲気を醸し出しながらの昼間運休

もはや、バスが補完というか、バスの補完というような形でしょうか

左端の9月中旬廃線予定が悲しいですね

22.1kmで\560という設定、当時の名鉄に置き換えると豊橋国府宮の80.9kmで\580で、国鉄は大体50~70kmの運賃ですので・・・当然一概には言えませんが、結構割高な感じですね

所要時間50分ほどでは、マイカーを持ったら全く勝負にならない交通機関だったようですね

しかも車両はガソリンカー改造の客車や大正生まれの瀬戸電のお古・・・と書いてモ750は昭和3年でしたか、そうすると谷汲揖斐線末端のような雰囲気だったんでしょうかね

そして別の話ながら、5ケタの市外局番も時代を感じさせます



ついでに地図も

中津川駅から徒歩5分の中津町が起点だったので、中津川駅と少しだけ離したところから始まっています

少し左に目をやると、恵那駅北には恵那峡と蛭川を結ぶ、こちらも今は昔の恵那峡ランド(現恵那峡ワンダーランド)のロープウェイが

旧恵那峡ランドのCM、よくやってたのに言われてみればもう見ないですね、ワンダーランドになっていたとは



だいぶ削られてきた基礎部分

関係ないですが、開業時はこれより4mほど低かったため伊勢湾台風による木曽川増水で一度水没、のちに全体でかさ上げ工事が行われたようで、そのための費用を集める際に名鉄が名乗りを上げ、その後名鉄グループになった経緯がありました

初めて知りました、まあ当然といえば当然ですが




さて、そんな橋梁の付近に到着したはいいが、さらに接近するのにどうしようか

白昼堂々土手に上れば、さすがに周囲の目もあろう・・・など考えながらうろうろしていたら、親切なおかあさんが「鉄橋撮りに来たの、脇に階段あるから上れるよ」 「・・・」



これは平成6年に終了した恵那観光開発というところが運営していた遊覧船乗り場の廃墟

いや、まだ休止という扱いなのか、ベンチに隠れた部分には「当分の間休航」という文字もあり、どうやらJTB時刻表の地図には今も残っているとかいないとか

時刻表は交通新聞社派なのでわかりませんが

これも詳細は上の古い時刻表に載っていますね



入口が左右二か所ある個室風、おそらくこれは便所というか厠と呼ぶのが相応しそうな佇まい

その左に上れといわんばかりの足掛けがあり、なんの苦労もなく上ることができました  まあ、自己責任で



看板をアップでどうぞ

高山まで観光タクシーで行ったらどんなことになるのか・・・国道41をおよそ100km3時間の道のり、普通に行くと4万強のご予算

時間貸しとはいえ、どんな料金体系だったのか気になるところ




土手に上ると、微かに枕木のみ残る廃線跡を数メートルののち、橋梁を目の前にできます

なんと対岸は遮るものなく踏み込めそう、しかも車で行けそう・・・でも上を歩いたら丸見えで、土手をどうのというレベルではないので通報されそうですね

ああ、高校の帰り道、鉄道も廃線も別に好きでもない友達と枕木の残る廃線の鉄橋を歩いた思い出が蘇りました、楽しかったなあ



ただ植物がすごくて、やはり廃線巡りのシーズンは冬ですね



でも光も相まって画面が明るくなるので、これはこれで



眠り続ける128年前の橋梁

堅牢な鉄骨のみなので当然とはいえ、かなり美しい状態で、塗りなおせばまだまだ現役復帰できそう

この付近にほかに川を渡る手段がなければ、新開鉄橋よろしく人道橋くらいになってそうなものの、すぐ隣に立派なかつての国道橋があるので残念

近い将来、いずれ解体される日が来るのでしょう




ところで この北恵那鉄道の終点付知から延長する形で下呂まで結ぶ下呂線が計画されており、路盤転用に際した補償などを見込み合理化に合理化を重ねて何とか延命した説もあるようですが

その後の話は、よくあるやつで付知地区の用地買収が思うように進まず、遅々とするうち工事認可5年後、ついに国鉄再建法が発動してしまうことになりました

現在の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線および愛媛内子線以外のA(地方開発線)B(地方幹線)線(併せて地方交通線)の工事凍結により、計画も頓挫、現在は中津川~下呂間は路線バスを乗り継いでという形が辛うじて残っています



一方、中津川から飯田までを結ぶ中津川線という計画もありました

中津川線は日本鉄道建設公団における地方幹線扱いのB線対象であり、なおかつ国鉄再建法で工事凍結したまま現在まで開業できずにいる唯一の路線だそうで、途中まで中津川線と同じ道を辿りながらも、その他の久慈、盛、北越北、智頭、鹿島、野岩線は三陸鉄道やほくほく線、智頭急行などとして日の目を見ているわけですね

で、さきほどから登場しているABは鉄道建設公団が付した記号であり、以下の7種類があります

A地方開発線  B地方幹線  C主要幹線  D大都市交通線  E海峡連絡線  G整備新幹線  P民間鉄道線

A、Bが地方交通線つまり時刻表の青線というわけですね

青線ながらこの2路線が開業していたら、中津川駅も今以上の賑わいだったのか・・・うーん、どうなっていたのか想像できません

国鉄明知線から明知鉄道が入る恵那駅も賑わいというには少し遠いですし、駅という場所としては賑わっていますが



何回目かの ちなみに になりますが、岐阜県6番目の面積を誇る中津川市は中山道中津川宿に由来する地名で、「中津川」自体は河川名であり、本来の地名は「中津」で現在も中津高校や中津商業高校など、川のない呼称も使われています

周りにいた中津川市民は割と「中津」と言いまして、最初は略語的なアレかと思ったんですがとんでもない、ちゃんと中津だったわけです

じゃあ中津川とはというと、そもそもかつての中津町が将来を見越したとき、中津市と名乗るには昭和4年の時点で豊前中津に先を越されている(というか中津川市に失礼ながら、さすがに規模がけた違い)ために中津市を名乗れない(一応最近の総務省解釈では相手方に意義がなければ拒否するものではないとなっている)ため、昭和26年の苗木編入時に中津川町と名を変え、昭和27年に市制施行という運びがあるわけです

先見の明ですね、徳島県三好市がある上、納得いかないので同字同音の三好市はお断りしますと言われた結果、平仮名になったのは、やはりちょっとカッコ悪いような

じゃあどうすれば文句言わないかと言われると、西加茂郡から西加茂市・・・も違うし

ま、さいたま市がある以上は平仮名でも、四国中央市や南アルプス市、つくばみらい市、案だけで消えたにしろ南セントレア市が計画された以上は、この先どんな字面が出てきても驚きません 笑

371系から話が流れに流れ、古来の地名を大切にしてほしいなあと思いつつ

2014.11.08/岐阜県中津川市

三浦光世さんの死

2014-11-01 01:47:03 | その他
いやぁ

新聞の夕刊を見てびっくり、三浦光世さんが亡くなったとな

実際にお会いしたことはないので、悲しいという感情よりも悔しいというか、残念な気持ちというか、惜しいです


春に旭川を訪れた際にお会いしたかったものの不在だったのでまたの機会に延ばし、その後6月に再び札幌まで行きながら遠かった旭川

毎日元気に歩いているということも聞いていたので、何とも思ってなかったものの、90歳でしたか・・・

光世さんがいなければ、氷点も塩狩峠も母も海嶺も、この世に出なかったわけですから、三浦綾子以上にとは言えませんが、それほど三浦文学に重要な方でした

肺結核を患っていた堀田綾子のもとを足しげく訪れ、その回復を祈り待ち続けて結婚、自身も弱い体ながら、妻を支え、強くたくましく、そして優しく生き抜いた90年

お会いしたことは一度もありませんが、道ありきや光世さんの著書を読んでいると、大変な人生でしたねと言えば、いや幸せでしたよという答えが返ってくるのが容易に想像できるような、そんな優しい方でした


そういえば旭川でたまたま拾ったタクシーの運転手に、三浦綾子が好きで旭川に来たと告げたら、三浦さん乗せたこともありますよなんて

彼曰く、綾子さんは大酒のみで、光世さんはこれ以上ないくらい出来たお方ですよ だそうで、まあ大酒のみという辺り、かなり前の話だろうと推察しますが、偶然にも話が聞けてよかったことを思い出しました





内地の人間には大雪過ぎて、また雪のないときにゆっくり来ようなんて思ったのが失敗ですね



辛うじて、氷点の碑



ちなみに三浦文学について、氷点はドラマにもなり、塩狩峠は映画になってますね

三浦文学は、歴史小説、一般的な小説、エッセイの3種類に分けられると思ってます

歴史ものは塩狩峠ほど有名ではないものの、ほぼノンフィクションの歴史小説である母、海嶺(83年映画化)は心にグッと来ます

母は、プロレタリア文学者小林多喜二の母セキを書いたもので、海嶺は知多半島小野浦の漁民音吉たちがおそらく日本人として初めてアメリカから世界を回り・・・という、まあ読書感想文は苦手なので、内容が気になれば検索すればブックレビュー系のブログがたくさんヒットしますから、そちらで

幕府が出した勝海舟の咸臨丸こそ有名ですが、音吉こそ教科書に載せたいんですけどね、本当は

それ以外でも細川ガラシャ夫人、千利休とその妻たち、白洋舎創始者五十嵐健治を描いた夕あり朝ありなど、基本的にとにかく史実に基づいている(塩狩峠は若干ボカしてたりしますが)歴史小説ですので、史実を知るという点でも三浦文学は有益です


有名な氷点をはじめ、帰りこぬ風、病めるときもなどの小説もまた、軽く読めるのに深く考えさせられるのでいいですね


あとはエッセイ、自叙伝として、自らの人生を描いた道ありき、堀田綾子のその人生と人柄がわかっていいと思います

併せて光世さんの、綾子へ、死ぬという大切な仕事といった本も読むと、偉大なお二方ながら、どこか私たちと同じような人間くさい親しみやすさを感じたり、優しさやあたたかさを感じられます


三浦綾子が口述し、三浦光世が書き留めることで完成した塩狩峠、夏にも読んだけど、また読もうかな

読書の秋じゃないですが、何度読んでも考えさせられ、心に沁みる三浦文学の拙い紹介でした



いつまでも あると思うな 親と金 じゃありませんけど、会いたい人にはその時会っておくべきですね、これは一生後悔しそうです

死ぬことは神に召されることでありつまり祝福すべきことというキリスト教的になんと言えばいいのかわかりませんが、おつかれさまでした、安らかにお休みください

2014.03.07/北海道旭川市