今日は撮影日和

Raicho9の贈る、鉄道&ノラ猫のフォトページです。

谷汲駅

2019-12-01 14:43:39 | 廃線探訪


まだ色が残っている部分のもみじとともに755

こうして見る(故意にいろいろな部分をもみじで隠してみる)と、ちょっとだけ現役っぽい・・・いや、前照灯を点けて欲しいなあ

あと、山の陰になって、夕陽がもみじには当たっても、755には当たらないのが少し物悲しげ



現実は、線路は途絶え、架線も張っていない

現役の頃に写真を撮っていたらなあと思う反面、思い出の中で残している方が、色褪せないからいいのかなあとも



それにしても、10年ぶりに来ても変わらず美しい状態の755が待っていてくれるのは嬉しい

だからこそ思い出が蘇るのかもしれない



ついでに北野畑駅跡

いつまで残っているだろう

2019.11.30/岐阜県揖斐川町 旧谷汲駅 4枚目のみ旧北野畑駅

北恵那鉄道 木曽川玉蔵橋梁

2014-11-10 01:27:16 | 廃線探訪
我らの東海が誇る特急電車371系が今月で引退ということを知り、例年のごとく中央西線で臨時があると知り、おそらく11か月ほどぶりに撮りに行ったわけですが

通過を前に、待ってましたと言わんばかりの雲と野焼き(割と禁止自治体増えたのに中津川市はと思って調べたら、ああいうレベルのは厭わないんですね・・・)のコンボでしたが、まあ、現像してからのお楽しみですね

昔は現像を待つのも心から待ち遠しいほどだったのに・・・


で、転んでもただでは起きぬではないですけど、せっかく中津近辺まで行ったので、1978年に消えた北恵那鉄道に寄り道



廃止後36年が経過する今もなお、木曽川に架かる橋梁

土木学会によれば、どうも1886年英国製、東海道本線天竜川橋梁からの転用品のようです

ただ決定的な資料がないのか確証がないらしく、?が付してありました



先のは苗木側の下流側からの写真、これは同じく苗木側の上流側から

画面左側は採石場でしたので、すべてこちら苗木側からの写真です



△(というかW字)の並ぶワーレントラスが2対でひし形(というかX字)の並ぶダブルワーレントラス

それに、真ん中を通る中間水平材の付いたものなので、かなり重厚な感じですね

このダブルワーレンは無駄の多い構造で、昭和期になるともうダブルワーレンはないので、かなり由緒あるもの

同じものは揖斐川の新開鉄橋ですね



そういえば一瞬だけ大垣市民だった頃に新開鉄橋通ったなあと写真を掘り返した結果、こんなのしかありませんでした、自転車から降りるのを面倒がった結果です

正面からでわかりにくいものの、玉蔵橋梁同様△ではなくX字状に組まれているのがわかります

こちらは人道橋として現役です



北恵那鉄道は開業から狭軌600V電化なので、架線があったその辺の名残もチラホラ

ただ電化が災いし、廃線間際の5年ほどは最強の合理化として昼間の運行を止めてバス代行にしたという、もはや存在意義すら危うくなった末期だったよう



これが1978年9月、廃止年月の交通公社発行の時刻表の北恵那鉄道のページというか部分です

上下12本、5時台から23時台までと、割とイケそうな雰囲気を醸し出しながらの昼間運休

もはや、バスが補完というか、バスの補完というような形でしょうか

左端の9月中旬廃線予定が悲しいですね

22.1kmで\560という設定、当時の名鉄に置き換えると豊橋国府宮の80.9kmで\580で、国鉄は大体50~70kmの運賃ですので・・・当然一概には言えませんが、結構割高な感じですね

所要時間50分ほどでは、マイカーを持ったら全く勝負にならない交通機関だったようですね

しかも車両はガソリンカー改造の客車や大正生まれの瀬戸電のお古・・・と書いてモ750は昭和3年でしたか、そうすると谷汲揖斐線末端のような雰囲気だったんでしょうかね

そして別の話ながら、5ケタの市外局番も時代を感じさせます



ついでに地図も

中津川駅から徒歩5分の中津町が起点だったので、中津川駅と少しだけ離したところから始まっています

少し左に目をやると、恵那駅北には恵那峡と蛭川を結ぶ、こちらも今は昔の恵那峡ランド(現恵那峡ワンダーランド)のロープウェイが

旧恵那峡ランドのCM、よくやってたのに言われてみればもう見ないですね、ワンダーランドになっていたとは



だいぶ削られてきた基礎部分

関係ないですが、開業時はこれより4mほど低かったため伊勢湾台風による木曽川増水で一度水没、のちに全体でかさ上げ工事が行われたようで、そのための費用を集める際に名鉄が名乗りを上げ、その後名鉄グループになった経緯がありました

初めて知りました、まあ当然といえば当然ですが




さて、そんな橋梁の付近に到着したはいいが、さらに接近するのにどうしようか

白昼堂々土手に上れば、さすがに周囲の目もあろう・・・など考えながらうろうろしていたら、親切なおかあさんが「鉄橋撮りに来たの、脇に階段あるから上れるよ」 「・・・」



これは平成6年に終了した恵那観光開発というところが運営していた遊覧船乗り場の廃墟

いや、まだ休止という扱いなのか、ベンチに隠れた部分には「当分の間休航」という文字もあり、どうやらJTB時刻表の地図には今も残っているとかいないとか

時刻表は交通新聞社派なのでわかりませんが

これも詳細は上の古い時刻表に載っていますね



入口が左右二か所ある個室風、おそらくこれは便所というか厠と呼ぶのが相応しそうな佇まい

その左に上れといわんばかりの足掛けがあり、なんの苦労もなく上ることができました  まあ、自己責任で



看板をアップでどうぞ

高山まで観光タクシーで行ったらどんなことになるのか・・・国道41をおよそ100km3時間の道のり、普通に行くと4万強のご予算

時間貸しとはいえ、どんな料金体系だったのか気になるところ




土手に上ると、微かに枕木のみ残る廃線跡を数メートルののち、橋梁を目の前にできます

なんと対岸は遮るものなく踏み込めそう、しかも車で行けそう・・・でも上を歩いたら丸見えで、土手をどうのというレベルではないので通報されそうですね

ああ、高校の帰り道、鉄道も廃線も別に好きでもない友達と枕木の残る廃線の鉄橋を歩いた思い出が蘇りました、楽しかったなあ



ただ植物がすごくて、やはり廃線巡りのシーズンは冬ですね



でも光も相まって画面が明るくなるので、これはこれで



眠り続ける128年前の橋梁

堅牢な鉄骨のみなので当然とはいえ、かなり美しい状態で、塗りなおせばまだまだ現役復帰できそう

この付近にほかに川を渡る手段がなければ、新開鉄橋よろしく人道橋くらいになってそうなものの、すぐ隣に立派なかつての国道橋があるので残念

近い将来、いずれ解体される日が来るのでしょう




ところで この北恵那鉄道の終点付知から延長する形で下呂まで結ぶ下呂線が計画されており、路盤転用に際した補償などを見込み合理化に合理化を重ねて何とか延命した説もあるようですが

その後の話は、よくあるやつで付知地区の用地買収が思うように進まず、遅々とするうち工事認可5年後、ついに国鉄再建法が発動してしまうことになりました

現在の鹿島臨海鉄道大洗鹿島線および愛媛内子線以外のA(地方開発線)B(地方幹線)線(併せて地方交通線)の工事凍結により、計画も頓挫、現在は中津川~下呂間は路線バスを乗り継いでという形が辛うじて残っています



一方、中津川から飯田までを結ぶ中津川線という計画もありました

中津川線は日本鉄道建設公団における地方幹線扱いのB線対象であり、なおかつ国鉄再建法で工事凍結したまま現在まで開業できずにいる唯一の路線だそうで、途中まで中津川線と同じ道を辿りながらも、その他の久慈、盛、北越北、智頭、鹿島、野岩線は三陸鉄道やほくほく線、智頭急行などとして日の目を見ているわけですね

で、さきほどから登場しているABは鉄道建設公団が付した記号であり、以下の7種類があります

A地方開発線  B地方幹線  C主要幹線  D大都市交通線  E海峡連絡線  G整備新幹線  P民間鉄道線

A、Bが地方交通線つまり時刻表の青線というわけですね

青線ながらこの2路線が開業していたら、中津川駅も今以上の賑わいだったのか・・・うーん、どうなっていたのか想像できません

国鉄明知線から明知鉄道が入る恵那駅も賑わいというには少し遠いですし、駅という場所としては賑わっていますが



何回目かの ちなみに になりますが、岐阜県6番目の面積を誇る中津川市は中山道中津川宿に由来する地名で、「中津川」自体は河川名であり、本来の地名は「中津」で現在も中津高校や中津商業高校など、川のない呼称も使われています

周りにいた中津川市民は割と「中津」と言いまして、最初は略語的なアレかと思ったんですがとんでもない、ちゃんと中津だったわけです

じゃあ中津川とはというと、そもそもかつての中津町が将来を見越したとき、中津市と名乗るには昭和4年の時点で豊前中津に先を越されている(というか中津川市に失礼ながら、さすがに規模がけた違い)ために中津市を名乗れない(一応最近の総務省解釈では相手方に意義がなければ拒否するものではないとなっている)ため、昭和26年の苗木編入時に中津川町と名を変え、昭和27年に市制施行という運びがあるわけです

先見の明ですね、徳島県三好市がある上、納得いかないので同字同音の三好市はお断りしますと言われた結果、平仮名になったのは、やはりちょっとカッコ悪いような

じゃあどうすれば文句言わないかと言われると、西加茂郡から西加茂市・・・も違うし

ま、さいたま市がある以上は平仮名でも、四国中央市や南アルプス市、つくばみらい市、案だけで消えたにしろ南セントレア市が計画された以上は、この先どんな字面が出てきても驚きません 笑

371系から話が流れに流れ、古来の地名を大切にしてほしいなあと思いつつ

2014.11.08/岐阜県中津川市

小刀根隧道

2013-08-15 02:44:56 | 廃線探訪
行ってきました北陸本線旧線跡

といっても一度行ってますし、今回は柳ケ瀬隧道を車で往復と、その先の小刀根隧道のみですが

いや、でも前回はこの魅力がわかるようになる前でしたし、その虜になった今なら1日といわず、2、3日はこのネタのみで滞在できるほど美しかったです

まずは解説から



解説おわり

明治14年から実に132年もの間、この地に微動だにせず鎮座する小刀根隧道

明治14年というと、その元号をもじった政変があり、登場する人物は伊藤博文、井上毅、大隈重信・・・そんな時代を生きてきた証人と思うと、感動もひとしお



解説終わったところで、離れたところからの全景

小さいながら、しっかりとした存在感

ここは笙の川に架かる、これまた鉄道時代の橋梁からの一枚



近づいてみると、外観はとても132歳とは思えぬ美しさ



一応、文化財なんですよっていうお知らせ



内部はもちろん相応に傷んでますけど、管理されている分、他の廃隧道よりは格段に状態がいいと思います

それでも、漏水が少しずつ浸食を早めてきている気がします

全長50メートルほどのものですが、だいぶぬかるんでます



少し進むと、解説にもあったように造りが変わります

・・・橋の時と言い、相変わらず浅く広い興味なもので、造りとか構造とかよくわかりません 笑

少しずつ勉強してゆきたいとは思っていますが




出口付近より入ってきた方を振り返る

白と黒、光と闇の世界

できた当初の、美しい馬蹄型のままですね



長浜側の面構え

明治時代の技術者、職人たちの結晶を1世紀も後に生まれた人間が触れることのできる幸せ

そして、明治時代と変わらぬ景色を見ることができる幸せ



短いながらも、ひんやりとした隧道内

中から見える外の景色は・・・現代の8月の景色でした、残念



ちなみに、旧線の中之郷~疋田(現、木之本~新疋田)は国道365号線~滋賀県道140号線

ぶっちぎりのストレートと、ゆるーいカーブが鉄道時代を物語る道です


現在の木之本~新疋田間の駅は余呉、塩津ですが、当時は(木之本)、中之郷、柳ケ瀬、雁ヶ谷、刀根、(疋田)でした

深坂トンネル開通後、この旧線は柳ケ瀬線という支線扱いになり、のちに廃止されました


もっと勉強して、もう1度といわず訪れたいです

2013.08.14/滋賀県長浜市余呉町(旧伊香郡)

そして黒野駅

2011-09-24 13:04:35 | 廃線探訪
詰まらぬ用にて、車で岐阜を走ったので寄り道がてら旧揖斐線に沿って西へ

北方町を通って、気付けば黒野駅に到着

なぜか、迷うことなく直感でたどり着きました



あら懐かしい、当時の佇まいそのままに遺されていました



あらゆる隙間から首を突っ込んでみると、谷汲線へ訪れたのがついこの間のように思い出されます

5年以上もの歳月が経つにもかかわらず、どっしりと構えたままの駅舎にホッとします



中も荒らされた様子もなく、蛍光灯もはまったままのように見受けられます



南側から駅舎を望む

立派です、きれいです

こんなにピカピカの駅舎だったんですね



再び西の出札口前へ戻り、観光案内図を拝見

揖斐線、谷汲線ともに現役の案内図です

なんだか嬉しいですね

それにしても、鉄道が消えて沿線は寂しくなったのではないでしょうか

ローカル線といえど鉄道は、バスでは運び切れないなにかを担っているのは間違いないと思っています



右奥に木造の検修庫があり、750が数両たむろして

たまに紅白がめでたい510が転がっている

本当に、記憶が蘇ってきます



ついでに足を延ばし、黒野北口駅と豊木駅(写真は豊木駅)

線路は剥がされていましたが、やっぱりホームは遺っていました

黒野北口駅も同様に、あるべき場所にありました

また時間を見つけて、谷汲へとコマを進めていけたらいいなぁ


2011.09.11/名鉄旧揖斐線 黒野駅-豊木駅


ちなみに、今月中頃に美濃町線の琴塚駅を再び見る機会があったのですが、ホームに遺っていた風除けが撤去されていました
徐々に消えてゆくと思うと寂しい限りです

そして金公園

2011-02-07 16:29:03 | 廃線探訪
金公園と書いてなんと読むか・・・


こがねこうえん です

金神社や柳ヶ瀬商店街などにも近く、岐阜市の中心に位置します



モ513号が丸々1両、ドカンと保存されています

路面電車は小さくて単行なだけに、保存のしやすさはありますよね

もっとも、同じ路面電車でも連接車体を持つモ870は、美濃で生首展示となっています(汗)



というわけで、保存団体もしっかりあり、谷汲の750や510同様に穏やかな余生を過ごしています



つと、横を見ると灰皿・・・見慣れたロゴが付いてると思えば、国鉄の遺物がなぜここに?



それでも風雨にさらされる毎日ですから、やはり細部は傷んできているように思います

しかし、白と赤でおめでたい塗装の似合う車両ですね



逆サイドは忠節の系統板を掲出しています

ご丁寧にモールで装飾されています



そして運転士もちゃんと乗ってます(笑)



ステッカーも、剥がれかけてはいるものの、ちゃんと残っています

こうして、ディティールだけを取り上げてみると、なんだかまだ現役であるかのように錯覚します


これで、岐阜の路面電車については一旦切りたいと思います

美濃町線の日野橋~関・美濃も残っていますが、今度は市内線~揖斐線~谷汲線跡に行きたいなと目論んでいます

2010.12.06/岐阜県岐阜市 金公園

野一色~市ノ坪

2011-01-09 00:06:21 | 廃線探訪
さて今回は最終行程、野一色駅~北一色電停~競輪場前電停~市ノ坪~荒田川橋梁へと参ります

先に断っておきますと、いわゆる路面区間の形跡はほとんど消えており、まっさらな道路ばかりなので枚数を省いた結果、この長い区間をひと括りで紹介するということになりました(決して、この企画がめんどくさくなったわけではありません)



踏切部分のみ遺されている線路こそ、現代に美濃町線を語り継いでいます

それにしても、何度も言ってますがきれいですね



ここもまた、記憶に残っている方も多いのでは?

この微妙な幅の廃線跡に活用の見込みがあるのでしょうか




逆側から望んでみます

農道にしては広いし、道路にしては舗装されていない、そこにはなんとも中途半端な敷地が佇んでいました




こうして見ると、小さな踏切が無数にあったことがうかがえます

その先には路面区間になることがわかりますね



その道路へ繰り出したのはいいのですが・・・

この通り、アスファルトで塗り固められた道路に廃線跡は見出せません



ここは北一色電停と思しき場所

本当に、こんな狭いところをよく走っていたものだと感心します



廃線跡はどうやら右折帯に転用された様子



ここもまた、右折帯となっています



さあ、やってきました90度カーブのあった交差点です

写真左が日野橋方面で、奥が市ノ坪、右が徹明町となっています

うっすらと、気のせいかと思われるほどうっすらとですが、左から奥へとアスファルトがカーブして固められているように見えます



気持ち西へ進んだところより

軌道敷が消え、謎の道路幅になりました



その道路を東興町・東栄町・入舟町と南下すると路面区間が終わる箇所があります

ここでまた大きく西へ針路をとり、市ノ坪へ進みます



はっきりと線路の跡が遺されています



市ノ坪の構内を望む

かつては車庫があり、賑わっていた当地ですが、いまやその影はなく、ひっそりとした空き地になっています



その構内は立ち入り不可能なので、長良川を有する岐阜だけに、ぐるっと’うかい’して(黙れ)、各務原線に吸収される直前の荒田川へ到着

右の路線が、その各務原線です



とくにコメントを呈するまでもない荒田川

あ、ここ辺りがちょうどデッドセクションでしたね



かなり厳重なバリケードが張られています 汗

ここから美濃町線(田神線)は、各務原線へ吸収されて、田神駅~新岐阜駅へと入っていきました

こうして訪れてみて、なんだか当時を断片的ながらも思い出せて楽しかったです

福鉄と豊鉄転属組が上手いことやっているのはちょくちょく目にしますが、土佐に行った590は元気かなぁ・・・なんて思ってみたり


~番外~

この競輪場前の直角カーブを曲がらず、そのまま西へと直進して行く路線も存在しました

それが金園町9丁目~梅林~金園町4を経由して徹明町まで延びる路線でした

かつては梅林から柳ヶ瀬まで延び、その柳ヶ瀬で長良線に接続されていたものの、こちらは早々に廃止されてしまいました



その金園町あたりで遺されたものがないか探してみたのですが、本当になにもありませんでした


この後、ある公園へ行ってきたので、次回は番外編としてそのお話をしようと思
います


美濃町線の廃線区間の探訪は、ひとまずこれで幕を下ろしたいと思います。

毎度、気の長い記事にお付き合いありがとうございました。


2010.12.06/名鉄旧美濃町線跡

琴塚~野一色

2010-12-20 21:44:36 | 廃線探訪
かなり間が開いてしまいましたが、ようやく時間が作れましたので、琴塚駅を出たいと思います



不自然に盛られた土とバラスト、建てられた示標が廃線跡を物語っています



琴塚駅端から日野橋方面を望む

今回は琴塚駅から一つ新岐阜寄りの野一色駅へと向かいます



それにしても、ホームへと繋がる階段も残っていて



風除けも完璧で、ここだけ見るとまだまだ現役路線と錯覚

それにしても、結構な割合で割られる運命にある廃止駅の窓ガラスもしっかり残っているのは珍しいですね



奥に見えるのが先ほどの琴塚駅です



ここは線路が残っています

凍結防止で、路面区間は完全に撤去されたものの、踏切跡はご覧の通り

やっぱりまだ現役か、廃線直後の風体



しかし、こう撮ってみると物悲しさに襲われます



さらに進むとここに出ます

特徴的なところなんですが、どこだかわかりますか?



そう、白山神社です

境内をぶった切るがごとく、美濃町線は赤い鳥居と石の鳥居の間をコトコトと走っていました



不自然に空いた空間

こんな狭いところを走っていたんですね



そして同じ場所から新岐阜方を見ると、交換設備らしき跡



ここ、なにがありましたっけ・・・駅ではないので、分岐器と信号機?

それにしても、目に付くのはかなり積み上げられたブロック

いつからあるのか知りませんけどこれ、倒れないんでしょうか? 汗



ベンチ・灰皿・上屋、ここもまた、なにもかも残っている野一色駅跡

静かに余生を過ごしているというが相応しいような感じです



このように柵が作られているにしろ、琴塚駅に負けず劣らず、こんな完全な状態で残っているのを知って嬉しくなりました



線路さえあれば、ホントに錯覚しそうです

これにて野一色駅まで来たということで、次回はまた、北一色電停~競輪場前の直角カーブまで進みます

それでは、また

2010.12.06/名鉄旧美濃町線跡

美濃町線跡 日野橋~琴塚

2010-12-06 22:52:58 | 廃線探訪
系列の岐バスに負け、岐阜市からもいじめられ、ついに平成17年に廃止へと追い込まれた美濃町線 なんて勝手に思っている名鉄旧美濃町線

なんかのイベントの邪魔だからってことで、市が、関から先の美濃町までを廃止に追い込んだ経緯もあったりなかったり

だいたい、路面電車が見直された時代、2000年代に入ったところで廃止になるというのも疑問符の浮かぶ話です

確かに電車のせいで渋滞は酷かった(対面通行のど真ん中に軌道敷があった)し、なにより道路が狭かった、これに尽きます

狭いゆえに軌道敷内通行認可はやむを得ず、道路上にある緑色に塗られただけの電停上を平然と通過する車がいて、電車待ちは命がけだなんて、ここまで言うのは冗談ですが、いささか怖いものがありました

豊橋市内線はその点、道路も広く、立派な電停が用意されていますよね

共存する道を見出せなかったのはいかがなものかと思ったりもしますが、終わった話ですので


ところで、そんな名鉄美濃町線の廃線跡ってどうなってんだろう?

こんな疑問が浮かびまして、市ノ坪や競輪場前辺りの状況は知っていましたが、その先は平成17年春の記憶のまま・・・気付けば足は廃線跡へ向かっていました



探訪は、某シュミレーションゲームでもおなじみの日野橋からスタートです

というのも実は、新岐阜駅側の市ノ坪から探訪をはじめたんですが、勘違いしていて、県道92号~国道156号沿いに東へ行かなければならないところ、県道205号に沿って、気付けば岐阜市を離れて各務原市に入っていました(^^;

そこから三峰山を越えて岩田坂駅跡へ出るか、山を避けて日野橋駅へ出るかとなったものの、尾崎団地のあまりの坂道に前者を断念、一路日野橋へと向かったという経緯のもとです


ただでさえ長い前置きに次いで、どうでもいい迷った話は置いておいて、日野橋駅



日野橋駅といえば、この歩道橋(かつては跨線橋と呼んだのかな?)が目印ですよね

日野橋止めもあってそれなりににぎわう、交換設備を持つ駅でした

現在はご覧の通り、岐バスの日野橋停留所としてその敷地が活用されています



れっきとした鉄道橋

ツタに覆われ、橋梁名・年月日を明記したプレートも剥がされ、静かな余生を送っています

なお、現在もまだ整備中で、一応立ち入り規制っぽいことがされていますが、柵の隙間も開いていて、普通に立ち入ることができます

責任は負えませんが

地面の緑色のマットの下はバラストのままなのか、足場が悪いので気をつけましょう



新岐阜側は固く閉ざされています

歩道は、写真右の細いところしかないので、自転車の行き違いもままならない

廃線から5年半強、復活させるならまだしも、そんな見込みもないので早く整備して欲しいですね



そのもう少し新岐阜寄りは、きちんと整備されています

まだ真新しさの残るコンクリート道ですが、ここでもやっぱり車道と歩道との段差が大きいんですよね

路側帯側ではなくて、この写真でいう中央のアレですよ

岐阜市に思うことです



突如現れる勾配標識

どこの廃線跡にも残されている気がしますが、木製ゆえ、撤去の義務は甘いんでしょうか?

ちなみに、速度制限標識や停止位置目標などの金属板の姿はどこにもありません



バラストの残る、あからさまな廃線跡

新関方面を望むこの曲線、見覚えありますか?



そうです、新岐阜から数えて7つ目の琴塚駅です

そっくりそのまま、ホーム屋根からミラーまで残っていることにびっくりしました



遺され、役に立つことなく風雨にさらされ続けるホームミラー

健気な奴です

琴塚駅、意外にきれいなままのホームたちでした


こんな感じで、次回は野一色駅まで進んで行きたいと思います

それでは


写真はすべて
2010.12.06/名鉄旧美濃町線跡