今日は撮影日和

Raicho9の贈る、鉄道&ノラ猫のフォトページです。

養老

2014-02-26 17:11:21 | 鉄道
老いを養うと書いて養老

養護老人ホームも略したら養老になりそうですが、養老鉄道

また大垣に行く用事ができたのに、暇な時間にやることがない・・・なにしようか悩んだ末に、どうせこの先行くこともないから、養老線でも撮っとこうかと前日というか当日の未明に思ったのがきっかけ



その割には結構調べ、美濃津屋で養老山脈をバックに、片持ち架線柱できれいに撮れるところを探したのに

はやりのpm2.5のせいなのか、春になりかけてる気候のせいなのか、霞む霞む

ちなみに、この514Fは1800系ベースの車で、養老線では珍しい下部交差パンタ、そしてドクター東海ならぬはかるくんのために渡り板が残る2編成のうちの1つ・・・という受け売り

1800系風の1810系は本線にも残っているので、あんまり嬉しくない



と思えば、6000系

昭和38年生まれの50歳、思ったよりもずいぶん古い

下部ライトがカギ型ではなく、長方形の、1代前の鮮魚列車でおなじみの顔

いかにも旧時代の近鉄って感じ



もう一つ行きたかったところがここ、般若谷から流れる川と車道をも乗せる、いわゆる天井川のトンネル

迫石は厚巻4層の美しい馬蹄型をした隧道

最近勉強中の素人目には、どうもオランダ積みに見えるんですが

この区間の開通は大正8年・・・

明治中期以降はイギリス積みがシェアを占めたので、まあ開業当時のものかなぁ・・・なんて、メモや図を手に調べながらではなく、その場でわかるようになると、もっと楽しめそう



そんな構造物を通過する625Fは、まだまだ種車の6020系が南大阪線で活躍する新しいやつ



最後は隧道前の踏切から後追いで623F、これも6000系ベース

1959年生まれの、いま話題のセンロクに会いたかったのに、1本も見かけず退散

暇つぶしで言ったものの、また行きたくなってしまった養老鉄道でした

2014.02.26/養老鉄道 駒野~美濃山崎

DE15-1541

2014-02-25 16:11:40 | 鉄道
今日は広島色のロクヨンとゼロロク3本が撮れたのに、行こうかどうしようか迷っているうちにすべて逃すという、まあよくある一日です

さて



DE15-1541 東海最後のラッセル車、そして最後の機関車だった同機は現在は富山で雪と奮闘する日々

これは試運転中に折り返し大垣駅での一枚ですが、なんとなく旧富山駅1番線の金沢方な雰囲気も無きにしも非ず

奥のアピオが電鉄富山の駅ビル、右のホテルも、富山駅のこの辺りにも同じようなホテルがあったような・・・

富山、高岡、金沢、しばらく行ってないので、かなり景色が変わったでしょうね

特に高岡、地下街や駅ビル駅前ビルも消えてしまったようです、残念









一度、湯尾辺りで悠々と敦賀へ帰区するDE15は見たことありますが、実際に除雪作業している場面に遭遇したことはないので、ぜひ見てみたいところ・・・国鉄型の残っているうちに

2010.11.29/大垣駅

浜寺公園

2014-02-17 01:14:35 | 建築
ようやく行けた南海浜寺公園駅

2018年度末完成予定の立体交差化工事によって移築される前の状態に間に合ってよかった



まずは全景


日本史の教科書にも出てくる日本人建築家、辰野金吾

辰野金吾と言えば日銀、東京駅を設計した超一流の建築家

若き頃は生まれの唐津で高橋是清に英語を学び、その是清を追って上京したという辰野金吾

泣く子も黙る辰野金吾の初めての駅舎建築がこれ、1907年の作品、浜寺公園駅

日本最古の国立公園である浜寺公園への玄関として、立派なものをと意気込んで作られた感がひしひしと



丸みを帯びた優しいデザイン

柱や梁が表に出る、ハーフティンバーでいい感じ

淡い色もいい感じ 岡崎の旧額田郡公会堂も大正建築ながら、色がきついライトブルーだかピンクだか、あの色遣いがちょっと苦手なのでおそらく見に行くことはないでしょう



かつての窓口と思しき跡

中が見たい・・・

ところで阪堺線浜寺公園 ならまだしも、浜寺公園阪堺線では、通しで読んで路線名と間違えそう



ちょっと傷んできているようなので、移築の際にはぜひ修繕をしてほしいところ

浜寺公園駅開業は1897年、この駅舎の開業は1907年、大和田建樹の鉄道唱歌発表は1900年・・・ギリギリこの駅舎を見ていないわけですね

でも、この南海電鉄は南海線として第5集、関西・参宮・南海編に登場します

かけじや袖とよみおきし その名高師が浜の波 よする浜寺あとに見て ゆけば湊は早前に

かけじや袖 と詠み とは、金葉和歌集に詠まれている祐子内親王紀伊の一首のこと

その名たかきとたかしが浜の高しが掛かっており、お待ちかねの浜寺登場、そして湊は湊町こと南海の終着なんば

この浜寺というのも、吉野日雄寺(火事消失現存せず)を山の寺と呼ぶのに対し、後醍醐帝の命にて建立の大雄寺(現存せず)を浜の寺と呼んだのに由来するようです

1127年の金葉和歌集から1300年代の後醍醐帝から、田安家の松林伐採により消えかけた景勝地も大久保利通の一声でなんとか留められ、そして1900年の鉄道唱歌にまで登場するという、なんとも由緒あるこの一帯




しかし100年前からここに建っていたなんて、重みがありすぎてなんとも

移築すればさらに丁寧な保存となるはずなので、ともすれば150年、200年持ったりして

私が死ぬ頃にも、現時点で100余歳のこの建物が残っているかもしれないとは、なかなかのロマン



この景色がこの先4年でどう変わってゆくのか・・・すでに立ち退きは終わっているようなので、もう変わり始めているのでしょうけど

そして検索してもあまりヒットしませんが、開業当初のモノクロ写真を見る限り、どうも尖塔や煙突(?)が屋根上にあったようなので、それらがあった頃はさらに引き締まった駅舎だったんだろうなぁと思いを馳せながら

2014.02.08/南海電鉄浜寺公園駅