今日は撮影日和

Raicho9の贈る、鉄道&ノラ猫のフォトページです。

下山村立和合小学校

2023-01-02 23:25:54 | 廃校・校舎(愛知)
場所は変わって愛知県



2005年から豊田市になった、旧東加茂郡下山村

そこにも、2006年(平成18)まで、小さな学校がありました

和合小学校



2005年まで現役だった校舎は既になく、講堂を残すのみ



壁面には、とても立派な絵が描かれています

自然豊かで、冬は雪も降るような、そんな下山の四季が伝わってきます

ウサギ年ですね















そのほかは、校庭と思しきエリアには農業用ハウスが建っていたり、講堂の中は農業用の備品が置かれていたり

遺された講堂は、学校としての役目は終えたものの、地域のために活かされています

年始、うさぎ年で思い出した和合小学校でした

2021.05.03/愛知県豊田市

阿寺小学校

2021-06-27 23:41:52 | 廃校・校舎(愛知)
新城、阿寺の七滝付近に残る2校のうちの1つ、阿寺小学校。



大分くたびれてきているのが何となく分かります

が、玄関の左の木々に隠れている部分のインパクトはこの比ではない



さすがに近寄れないので、この辺りからが限界



右の窓越しに見えるのは、カーテンと壁

左の窓からも見えるカーテンと、不自然に差し込む明かり

一番左の窓にはカーテンがなく、明かりが燦々と降り注いでいる

そう、もはや壁も崩れ、屋根もない状態になっていて、唯一こちら側の面のみが玄関から繋がって立っている状態

2010年辺りからずっと、「崩壊寸前」と書かれ続けている阿寺小学校は2021年も辛うじて「建っている」と言える



玄関の上部



玄関の下から

トタンとインターホンだけが浮いている

今この瞬間に大きめの地震なぞが来たら、もろとも埋まるだろう

さすがに正面突破は無理なので、向かって右手を覗く



厠と思しき掘っ立て小屋と水道






校舎(教場)を真横から

学校建築というより大きめの民家の様相

検索して出て来る他の方の2018年頃の写真では形を残していますが、2021年には崩れています



猫の額がぴったりの校庭に残る遊具

1段の高さが現代のそれよりもかなり高いジャングルジム、枠登りと、避難用具の雰囲気を醸す滑り台

校舎前から一気に校庭へ



きっと手作り

最後に遊ばれてから何年休んでいるんだろうか





学校なので、案の定高台にあり、足元滑る中、信頼性皆無の手摺りを頼りに下りる



ちなみに坂は逆Yの字に、二手から途中で合流し、校庭へつながっている

こちら側の手摺り(ガードレール)は、まだ信頼性が高い



その急坂の下、県道沿いには朽ちた看板が

塾だったのですかね、塾って言っても、現代の意味合いの塾ではないですけど

その下には「阿寺(?)錬成道場」とも読めます

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現在の愛知県新城市下吉田田代に存在した小学校。旧・八名郡山吉田村の小学校であった。

1873年(明治6年)7月25日 - 阿寺村に私立の学校として開校。
1874年(明治7年) - 吉田学校に統合され、分教場となる。
1880年(明治13年) - 独立し、八名郡第十一番小学七瀑学校となる。
1882年(明治15年) - 八名郡第九番学区公立小学七瀑学校に改称する。
1887年(明治22年)10月1日 - 上吉田村、下吉田村、竹之輪村、黄柳野村が合併し、山吉田村が発足する。
1892年(明治25年) - 七瀑尋常小学校に改称する。
1907年(明治40年) - 山吉田第二尋常小学校
1941年(昭和16年)4月1日 - 山吉田第二国民学校に改称する。
1947年(昭和22年)4月1日 - 山吉田村立阿寺小学校に改称する。
1956年(昭和31年)9月30日 - 山吉田村が鳳来町に編入される。同時に鳳来町立阿寺小学校に改称する。
1976年(昭和51年)3月 - 廃校。

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Wikipediaより、関係箇所のみ抜粋



この部分も2013年頃の写真では、もう少し立派ですが、年々崩れているのでしょう

あと何年、建っているのか分かりませんが、初めて、ドローンで上から撮影したいと思った日でした

2021.05.03/阿寺小学校

名倉小学校清水分校

2021-05-04 22:23:38 | 廃校・校舎(愛知)


駒ヶ原分校を訪ねた足で、清水分校にも

やはり、主張するものが残っていると嬉しい



少しずつ自然が手を伸ばしつつある校舎



東端の玄関

アルミサッシではないのが嬉しい

一応、工事会社の用地っぽい雰囲気なので



変って西端の上から

北側に突き出して繋がっているのは・・・厠か



そこではなく、その東隣に朽ちているのは倉庫と思しき建物



更に東隣、玄関の北東の位置に鎮座している住宅風の建物は、恐らく宿舎



宿舎の西隣にあるのが、宿舎用の厠と思しき建物



校舎に戻って、案の定施錠されていない窓を見つけて中を覗く

役目を終えた後にアトリエ(?)になり、工事用物置(?)になっていた経歴なので、竹の突っ張り(?)や陶器の破片が当時のものかは不明



校庭のシンボル的な木になりそうなものの、校舎との距離があまりに近い

廃校が1964年とすると、それから成長したとも考えられるのか



鬼瓦には、もちろん水

駒ヶ原分校にもありました

無事に使命を全うした分校

築73年の瓦とは思えない美しさを保ちつつ、しかしゆっくりと自然に還りつつ

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1948年(昭和23年)4月 - 西納庫に清水分校、駒ヶ原に駒ヶ原分校[注釈 1]を設置する。
1956年(昭和31年)9月30日 - 田口町、段嶺村、名倉村、振草村の一部が合併し、設楽町が発足する。同時に設楽町立名倉小学校に改称する。
1964年(昭和39年)3月 - 清水分校を廃止する。
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Wikipediaより、関係箇所のみ抜粋

2021.04.26/名倉小学校清水分校

名倉小学校駒ヶ原分校

2021-05-02 23:34:01 | 廃校・校舎(愛知)
大手を振って出かけられない世の中なので、自販機に寄りつつ、誰もいない休校、廃校舎巡りならばと





施錠されていない窓を少し開けて中を覗く

もちろん、元通り閉めました





校舎の東端には炊事場





続いて西側、トイレに繋がる廊下の端から覗いてみると、誘うがごとく開放されていましたが・・・





踏み抜くのが怖かったのと、隣のキャンプスペース的な所に気配があったので、ここで引き返しました

廊下に飾ってある絵は見たかったなあ

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1948年(昭和23年)4月 - 西納庫に清水分校、駒ヶ原に駒ヶ原分校[注釈 1]を設置する。
[注釈1]^ 戦後開拓で開拓された駒ヶ原地区と沖ノ平地区の児童のために設置。1951年3月31日に正式認可。
1953年(昭和28年)1月 - 駒ヶ原分校を新築する。
1956年(昭和31年)9月30日 - 田口町、段嶺村、名倉村、振草村の一部が合併し、設楽町が発足する。同時に設楽町立名倉小学校に改称する。
1978年(昭和53年)4月 - 駒ヶ原分校が休校となる。
1982年(昭和57年)4月 - 駒ヶ原分校を廃止する。
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※Wikipediaより関係箇所のみ抜粋



2021.04.26/名倉小学校駒ヶ原分校

設楽町立八橋小学校

2016-01-11 00:53:19 | 廃校・校舎(愛知)
このところ行きすぎて、もう寝てたって行けるようになってしまった設楽町

今度は設楽ダムに沈む運命にある場所にあった一校、八橋小学校



平屋の美しい木造校舎は、換算18㎜で引いても収まり切らなかったほど大きい校舎でした。



時計は6時間目の終わりに近い時刻、そわそわし出す時刻を指したまま、止まっていました



手前から、教室棟、給食室(植込みの奥)、講堂(ステージ付き体育館?)、給食室のすぐ上には教員宿舎がありました。

しかし、下調べでは運動場は住民の憩いの場になっている云々だったにもかかわらず、かなり荒れている様子。

設楽ダムの立ち退きで、周りは家もなくなっている・・・これでも、やはり不穏な空気に気付くことができず、阿蔵小と同じ「また来よう」を誓ってしまいました。


年が明け、いろいろ行きたいところやまだまだ残る新たな廃校舎よりも、どうしても八橋小学校に行きたくなり、もはやすれ違う車もほぼ
なくなった県道10号を走り、八橋小学校が見える直線に入ると、道路側に真新しい防音シートが・・・新調したドラレコに、悲痛の叫びが録音されました。



初めに訪れたのは11月15日でしたから、解体の始まる5日前だったんですね。

予告もなかったので、そんなことは露知らず。



あわてて運動場へ飛び込むと、間に合ったうちに入りそうなくらいの残り方ではありました。

皮肉なほど青い空が掘り返された土の白さ、瓦のない屋根とも相俟って、とてもまぶしいです。

なんだか前より小さく見えました。



もろもろの廃棄物をはじめ、扉、窓、瓦も撤去されていました。

時計は相変わらずの15時12分。

もろともユンボに吹き飛ばされるのでしょうか。



無人となった集落、正月休みの現場は静かに最後の時を過ごしていました。

あれから一週間、なにせ周りに人がいないので情報が皆無ですが、あらかたぶっ潰されてしまったのでしょうか。

もう、八橋小学校へ行く気はなくなりました。


八橋小学校、また詳しく書きたいと思います。

2015.11.15,2016.01.04/設楽町 旧八橋小学校

東加茂郡下山村立阿蔵小学校

2015-12-06 23:03:03 | 廃校・校舎(愛知)
廃校シリーズ2校目

豊田市の岡崎寄りに位置する阿蔵にある、旧阿蔵小学校



立派な石造りには

愛知県東加茂郡阿蔵尋常高等小学校

まあ、これは古い小学校の門柱によくあるタイプ



しかし、対になる左側の門柱には

明治23年から昭和10年まで存在した実業補習学校の文字

これはなかなか

ちなみに、上の門柱の裏には昭和8年と刻まれており、こちらの裏にも文字があったんですが、「四」とだけしか範読できず

あまり情報がないので何とも言えませんが、校庭の石碑に開校100周年を愛知県知事である桑原幹根が一筆書いていることから、桑原が退いた1975年から100年遡っても1875年は明治8年で、今年で140周年・・・



静かに眠る職員室棟(手前)と体育館(中央)

運動場には、無数の轍 このときに不穏な空気を察していれば・・・



阿蔵小学校は、大きく5棟に分かれており、渡り廊下で結ばれていました

南の職員室棟、北の教室棟、西の理科棟、職員室棟東の体育館、そしてその東の校務員室と思しき棟

まずは小さな職員室棟から



メインの職員室

閉校以外に、この黒板がまっさらになることはありません

最後に黒板を消した先生は、どんな気持ちだったんでしょうか



小さな二段式の行事予定表のあった、この玄関隣の一番いいポジションは校長室でしょうか

職員室から続いていることを考えればそうなんでしょうが、廊下側の扉に少し威厳がありません



正面玄関から中を覗く

右手の壁の裏は、さきほどの校長室の黒板になります

左手は手前が保健室、奥が更衣室となっていました

突き当りのアルミサッシが残念

しかしながら、2008年閉校とあってか、とてもいい状態で、少し手を入れればまだまだ使えそうな雰囲気



これはどこだったか、確か職員室棟の東端、体育館寄りの部屋だったと思います

和室なので宿直室かな、にしては広いので、なんでしょう

ひと晩4~5000円が相場だった宿直、やりたかったなあ、むしろ払ってでも一度やりたい

でも、見たところシャワー室がなかったような



各棟をつなぐ渡り廊下にも、小学校ならではの光景



北側の教室棟の入口から

最後に塗り直したのか、塗装がテカテカしてます

木のまま、多くの人の手で擦れて角がツルツルになってるのも味がありますが、こうして塗られてるのもまたいい感じです



そんな教室棟の東外側に付いていた、抜けそうな金属製の非常階段から教室を見る

どういう造りなんでしょうか、廊下のない設計のためか、各教室が扉でつながっています

チャイムが鳴ってしまったら最後、教室に戻るためには非常階段か、隣のクラスの授業を跨いで来るしかなかったのか・・・

それとも非常階段じゃなく、外階段だったのでしょうか



これは教室棟を北から見た様子

左の金属部分が、件の非常階段、ではなく外階段なんでしょうね

結構強引に作った様子が伺えます

部屋は全部で6

階段部分には、先の写真からも分かるように採光窓が大きく取ってあります

ちゃんと考えられた設計です

教室プレートを見る限り、中高学年は複式だったので、残りの部屋は図書室・音楽室辺りに転用されていたんでしょう



続いて、体育館を飛ばして東の端の校務員室らしきというか、小使いさんの住んでいるような建物

右はポンプ室とあります

左の扉の奥は、僅か3畳ほどの小部屋でした

さすがに狭すぎるかなとも思いますが、見える扉の下が三和土のように見え、その手前に一枚扉があったとしたら、玄関に見えなくもないです



理科棟は飛ばして、これは体育館にあった校歌

ちょっと雑な感じを受けました

これはレプリカで、現役時代の本物は合併先の巴ヶ丘小学校で大事に保管されているとか、そんなだといいですが

これでは、作詞作曲もわかりませんし

で、アンコ狩りとはなんでしょう

夏に、狩るもの・・・?

一応同じ地方で生活しているつもりですが、まったくわかりません





体育館の南側外壁と、北側にあった扉

鉄板とアルミサッシでガッチリ補強した南の壁面とは裏腹に、薄く華奢な、しかし歪みのないきれいな扉

ノブと鍵穴がいい感じです

いい感じにつられて、思わずノブに触ると・・・あれ

軋むことなくスッと開いてしまった

この際なので、自己責任で少しだけお邪魔することに

問題があればご連絡ください



あちこち近代化されているのが残念ですが、こぢんまりとしたあたたかそうな体育館

サイズが小さいせいか、天井も低く、水銀灯ではなく蛍光灯装備です

真ん中のラインは換気口ですか なかなかオシャレです

ただ一応、運動目的の場所において、むき出しの蛍光灯もあるとは大胆ですね

そして、もう一つむき出しなのが後方の窓



奥は配膳室でした

センターも遠いでしょうし、この感じは結構晩年まで、もしくは最後まで自校方式だったように見て取れます

誰が悪いわけではないんですけど、ぬるい牛乳と冷めた味噌汁、半分融けた冷凍みかんなんかは、何か悲しいものがあります

せめて夏場の牛乳くらい冷やしておいてくれてもバチは当たるまい



外へ戻って、運動場の東端には荒れた観察棚と山積みのベンチ


で、ここまでが2015年3月22日の旧阿蔵小学校

今日、フィルムで撮り直そうと思ってふらっと寄ると・・・



は?

そこにあるべきものがなかったときの衝撃はすごい

何もない



慌てて調べると、4月17日より4ヵ月ほど掛けて解体を終えた様子・・・合掌



階段の先にあった職員室棟が



ない



ベンチは最後に捨てるのか不動、引き抜かれたホースと朝礼台が集められていました

地面の無数の枝は、この奥に生えていた木々の残骸でしょう

観察棚の成れの果てかもしれません



朝礼台から校舎跡地を眺める

体育館跡に代わりに建ったのは、地域交流センター

それなら、すぐにでも使えそうだった職員室棟と体育館を耐震化して使っておくれよ・・・

自分が地域のじじいにだったら、かつての小学校を使い回してくれた方が愛着沸くけどなあ、そうも行かなかったんだろう

縁もゆかりもない阿蔵小学校でしたが、少し寂しさを覚えました

そして、3月に「また寄ればいいや」と油断して理科棟を残して帰った自分が憎らしい

廃校舎に、「また」はないんですね

この隣の三巴小学校もぶっ壊されたらしいですね


どうでもいいですが、公立の学校が解体されることって、新聞はさておき回覧板なんかには載るんでしょうかね

私は阿蔵小学校とは遠く、関係のない人間なのでアレですが、自分の母校が知らない内に解体されました、もう跡形もありませんなんてなったら、やるせない気持ちで一杯になりそうです



フィルムで撮れなかったので、苦し紛れのモノクロ加工でした


2015.03.22*2015.12.06/豊田市 旧阿蔵小学校