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真宗界の崩落の歴史(7) 江戸期の一向専念

2010-06-09 19:50:16 | Weblog
明治以降、真宗界の大勢は、科学や哲学など外来の思想に迎合し、出世の本懐たる「往生浄土」を〃この世のこと〃だとか、〃心の内のこと〃だとか、理性で理解しうる矮小化されたものに変わっていった。

往生浄土という仏教究極の目的が抜け、この世のことしか言わなくなれば、教え自体が、もはや「生きる目的」から、ただの「生き方」に過ぎないものになり、戦時中の軍部の圧力の前には、あっさりと親鸞聖人のみ教えの肝腑骨目を踏みにじるのである。そして捻じ曲げられたまま今日に至っている。


そのことを述べる前に、明治以前の浄土真宗はどうだったのか、見ておく必要があるだろう。


江戸時代の中期、浄土真宗の碩学として名高い法霖という大学者がいた。
彼の名を、一躍、世に知らしめたことの一つに、華厳宗の大学者・鳳潭との法論がある。
鳳潭は、比叡山の学僧時代から異才を発揮し、華厳寺を開いてからは、盛んに他宗を非難していた。
享保15年(1730)、74歳の鳳潭が浄土真宗を批判した書物を発刊したのを受け、法霖は『笑螂臂』5巻を1カ月で書き上げ、完膚なきまでに破邪顕正した。この時、法霖40歳。
『本願寺通紀』には「実に開宗已来の盛事と為す」と絶賛している。
その4年後、法霖は、第4代目の能化(本願寺の教学の最高責任者)に就任する。

さて、その法霖が辞世として詠んだ「往生の一路」は有名である。

往生の一路は平生に決す
今日何ぞ論ぜん死と生とを
蓮華界裡の楽を快しむに非ず
娑婆界に還来して群生を化せん

【意訳】
 人界受生の本懐、後生の一大事の解決は、平生にできている。
 娑婆に別れを告げる今日、いまさら何のために生まれてきたかとか、死んだらどうなるか、後生の詮索などまったく要らない。生きてよし死んでまたよし、往生極楽間違いなき身にしていただいたのだから。
 だが、死んで浄土へ往って百味の飲食たらふく食べ、八功徳水の温泉につかって休もう、などとは少しも思っていない。悩み苦しむ人がいる限り、娑婆世界にすぐ還り、苦悩の人々を化導せずにはおれないのである。


法霖は、こんな辞世を残して自決している。ではなぜ法霖は自決したのか。


法霖が能化になって3年目、湛如が16世法主に就任した。
湛如は生来病弱で、就任間もない寛保元年(1741)正月ころより、肺結核で床に伏した。
元気なころ、宮中にも布教に出入りしていたため、宮中の者とも面識があった。そのため、法主の病気を案じた女官たちが、各地の神社、仏閣で病気平癒の祈祷を始めた。

湛如が法主になってから迎えた妻は、東山天皇の孫だった。夫の病気を心配するあまり、やはり因習に引かれて、病気は鬼神のたたりや、方角が悪いせいだとして、実家のほうで盛んに病気平癒の祈祷をした。
因果の道理からすれば、病気治しの祈祷などは、無意味な行為である。まして鬼神というのは、死んだ人間や畜生の霊のこと。それらが私たちに禍福を与えるというのは迷信と仏教は断言する。


神の不拝の厳しさは、親鸞聖人晩年の善鸞義絶事件でも明らかだ。
神に仕えて祈祷し、他人の吉凶を占ったりして人々を迷わせた長子・善鸞を、決して許すことはできぬと、聖人は悲憤の涙とともに義絶なされたのである。
この「一向専念無量寿仏」の教化は、500年後の江戸中期の親鸞学徒にも徹底されていたと見られる。

 ちょうどこの時期の有名な儒者・太宰春台は、著書でこう驚嘆している。
「一向宗の門徒は、弥陀一仏を信ずること専にして、他の仏神を信ぜず、如何なる事ありても、祈祷などすること無く、病苦ありても呪術・符水を用いず、愚なる小民・婦女・奴婢の類まで、皆然なり、是親鸞氏の教の力なり」(『聖学問答』)

当時の親鸞学徒は、一切の迷信行為をせず、弥陀一仏以外は絶対に礼拝したり信じたりしなかったのである。


病床の湛如は、身内が教えに背いて祈祷している事実を知らされていなかったのかもしれない。
しかし、一般の門徒までが知るところとなり、法霖に匿名の投書をする者までが現れた。
本願寺の信心と教学の指導監督、一切の責任と権限を持っていた彼は深く憂え、心を痛めた。『古数奇屋法語』でも、この問題に触れている。

 「本山で任務する人々の言動を私が見聞したところでは、祖師聖人が教えられた正しい浄土真宗の教えはなく、ふとした話の中にも祈祷や占いのことが聞かれ、諸国から参詣したご門徒の耳にも入り、驚かせている。近年、病気で伏せっておられる湛如法主のご病気について本山内から、方角が悪いからだとか、あるいは鬼神のたたりだとかいう。これは親鸞聖人の教えを乱す誤りである。(中略)
 近ごろは、ご門徒も末寺の僧侶も、本山へ参詣すると信仰のマイナスになり、教えに疑いを起こし、あざける人が多い。その悪いうわさを嘆いて私に匿名の投書をする者もある。教化する者が地方のご門徒に教化されている現状は、実に嘆かわしい次第である」

 法霖の深い心痛が伝わってくる。
 法主の妻であれ、だれであれ、本山の要職にある者たちの祈祷問題は、決して看過できるものではない。
法霖は重大な決意をして一人、法主の寝所を訪問したと伝えられる。
病床の法主に事の次第を詳細に伝え、これを黙認すれば、末代、幾億兆の人々を無間の火城へ突き落とすことになると、法主に責任を執って自決を勧めた。


湛如は法霖を法友として、学問の師として心から尊敬していた。また、かねてから、自分の病は治る見込みがないと覚悟していたのかもしれない。潔くその場で毒をのんで自害したのである。
本願寺の正史には湛如は、6月6日に大谷に参詣し、
「帰後病劇7日夜寅時示寂」
(帰還後、7日の夜、急病で亡くなった)とだけ記されている。
 
湛如の百カ日の法要を済ませ、後継者問題も一段落ついたので、そろそろしおどきと、49歳の法霖は決断する。10月18日、師の若霖を継いで住職を兼任していた正崇寺(現・滋賀県蒲生郡日野町)へ帰る途中、かごの中で割腹自殺をした。
 自坊に担ぎ込まれた法霖は、すでに虫の息であったが、弟子が紙と筆を渡すと、震える手で四句の漢詩を残して往生した。それが上述の漢詩である。
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