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真宗界の崩落の歴史(8) 後生の一大事と一向専念

2010-06-11 16:26:22 | Weblog
「一向専念無量寿仏」(大無量寿経)

釈迦一代の教えの結論である。
すなわち、釈迦は仏教の結論として、阿弥陀仏(無量寿仏)一仏に向かいなさい、阿弥陀仏一仏を専らに信じなさい、と教えられた。

だから親鸞聖人は、
「一向専念の義は往生の肝腑、自宗の骨目なり」(御伝鈔)
とおっしゃって、「一向専念無量寿仏」の釈迦の教導は、後生の一大事、解決できるかどうかの肝腑骨目(最も重要)であると明言なされている。
釈迦がそう説かれたのだから、「釈迦の教法を我も信じ、人にも教え聞かしむるばかりなり」で90年貫かれた親鸞聖人がそう仰るのは当然なのである。

その親鸞聖人のみ教えを、正確に日本中に伝えられた蓮如上人もまた、『御文章』に、
「善知識というは『阿弥陀仏に帰命せよ』と言える使いなり」
と、「一向専念無量寿仏」を説かない善知識(真実の仏法を伝えられる先生)はありえないことをおっしゃっている。

さて、

「一向専念」ということは裏から言えば、阿弥陀仏以外に向いてはなりませんよ。阿弥陀仏以外を信じてはなりませんよ、ということになる。

こういうと、これまた皮相に解釈して、やれカルト的だ、マインドコントロールだとか言う人が出てくるので、念のために言っておくと、これはあくまで「後生の一大事の解決には」ということである。

後生の一大事については、以前、ここに書きましたので参照ください。
http://blog.goo.ne.jp/345shigure/e/ae561adf8362e2b3c5d19989277a4e50

例えば、肉体の病にかかった時でもそうである。
ガンになれば、「ガンの専門医の所へ行け」と普通、勧められるのではないか?そんな時に、「何で耳鼻咽喉科じゃだめなんですか?皮膚科じゃいけないんですか?ガンの専門医だけ、というのは偏っていませんか?」などと食って掛かる者があればおかしいだろう。それはガンについての自分の〃無知〃をさらけ出したにほかならない。

後生の一大事を引き起こすのは、「無明業障の恐ろしき病」であり、その病を治すことができるのは、阿弥陀如来しかおられない。それは『御文章』にも明らかである。

「あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁に値(あ)いたてまつらずは、無始よりこのかたの、無明業障の恐ろしき病の癒るということ、更に以てあるべからざるものなり」(2帖目13通)

また、

「夫れ、十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人も、空しく皆十方・三世の諸仏の悲願に洩れて、捨て果てられたる我等如きの凡夫なり。(中略)弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師・本仏なれば(中略)弥陀にかぎりて、『われひとり助けん』という超世の大願を発して」(2帖目8通)

とある。

私たちの後生の一大事の解決は、釈迦の力でもできず、十方諸仏の力でもできず、阿弥陀如来のお力以外には絶対にできないので、阿弥陀仏一仏に一向専念せよ、と説かれるのである。

前回、書いたように、江戸中期の真宗の碩学・法霖の自決は、当時の法主の家族が「一向専念」の教えを曲げ、神に仕えて祈祷したことに対する引責自決であった。と同時にそれは、全人類の後生の浮沈がかかった「一向専念無量寿仏」の教えを曲げることの罪の重さを、身をもって示した、文字通り、身を捨てた破邪顕正だったのである。

ところが今日、阿弥陀仏以外、向いてはならない、信じてはならない、と説けば、世間からは言うまでもないが、〃浄土真宗のはず〃の人たちからさえも猛然と反発、あるいは冷笑、嘲笑、軽蔑、非難、罵倒が巻き起こるのである。

それは偏に後生の一大事の「無知」からきている。
仏教を聞いたこともない世間一般の人なら無理もない話だが、仏教をよく勉強しているはずの真宗学者でさえそうなのである。

確かに、この後生の一大事ということは、ガンのような、生体現象として目に見える形で見せることができないので、伝えることは大変難しい。だからこそ、釈迦の雄弁をもってしても7千余巻の膨大な一切経が必要だったのだし、何十年も仏法を聞いてきたはずの人が、「死んだら地獄へ堕ちると騙された」と言って、後生の一大事を〃力いっぱい〃否定している事実からも明らかである。

後生の一大事の自覚のないところに、「一向専念無量寿仏」の結論だけ突きつけても、それは受け入れられるものではない。それでも受け入れようとすれば、いつか暴発するのも又、必然であろう。
すべては起こるべくして起こるのであって、どんな人間が現れても、それ自体は別段、驚くこともない。ただそれは、受け入れる人間の側の問題であって、教えの正邪とは関係がない。

問題は、釈迦から七高僧、親鸞、覚如、蓮如上人を貫く教えはどうなのか、という点である。

現代の、真宗大谷派のトップの学者に言わせると、「後生の一大事」とはこういうことだそうである。

「後生とは、言うまでもなく死後のことではない。(略)それは今を仏道の歴史として生きる、と言っていいだろうか。言い換えれば、過去と未来に責任を持ち続けながら、現在を生きるということである」

こんなことが後生の一大事なら、承元の法難に遭われてまで親鸞聖人が「一向専念」の教えを徹底される必要もなかっただろうし、法霖のごとく命を捨てる理由もなかろう。

すべてがおかしくなってしまっているのである。 
なぜ、今日の浄土真宗において、教えの根本である「後生に一大事」の理解が、こんなにグダグダになってしまったのだろうか?

江戸300年間に、浄土真宗は幕府の保護を得て生活の安定を得た代わりに、身を賭して布教する者がいなくなり、それにともない、教えに無関心か、頭でっかちな者が増え、「往生浄土」の本懐を果たすため、地道で堅実に聞法求道をする〃体力〃がどんどん低下していき、さらにそこへ、外来思想というウィルスが蔓延し、真宗界も感染して瀕死の状態、さらに戦争が激化すると、国家神道が強制され、「一向専念」の教えは踏みにじられ、真宗界は建物や組織など、形式だけが残って、教えは絶命したのである。

今日、だれかが正統な親鸞聖人の教えを説こうとすると、絶命後のゾンビのような者が群がってきて、冷笑、嘲笑、愚笑、愚弄、罵倒、恫喝してくるのが、悲しいかな真宗の実状である。

次回は、戦時中のことに触れることにする。


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