静かな劇場 

人が生きる意味を問う。コアな客層に向けた人生劇場。

川上未映子 ヘヴン

2009-10-22 15:50:54 | Weblog
因果の道理だけを説いていては、親鸞聖人の教えにはなりませんが、因果の道理が分からずに、どうして三世の存在が分かるでしょう。
三世の存在が受け入れられないのに、どうして後生(死後)が我が身の問題となりましょう。
「未来の果を知らんと欲すれば現在の因を見よ」と釈尊は教導されていますが、後生が我が身の問題とならぬのに、どうして現在の自己に目が向くでしょう。
因果の道理の結論は廃悪修善ですが、その廃悪修善の教えをおろそかにして、どうして自己の姿が分かるのでしょうか?

三世を認められず、後生が我が身の問題とならず、現在の自己に目を向けることも、廃悪修善の教えもおろそかにして、それでいて親鸞聖人の教えが「私の聞かねばならぬ大切な教え」とは、分かる道理もないことです。

ですから、因果の道理など真理ではない、ただの思い込みだと公言しながら、親鸞聖人の教えを云々する人は、根本に親鸞聖人の教えを誤解していると思います。

さて、

因果の道理は真理ではなく、ただの思い込みというのが正しいとするなら、世の中はどうなるか、考えてみてはどうでしょうか。

一つ、参考例として、最近話題の川上未映子の『ヘブン』という小説を紹介しておきましょう。

ここには混迷する善悪の問題が、かなり高度な形で凝縮されています。
神のような絶対者を信じているコジマという少女と、ニヒリズムを極端に突き詰めたような百瀬という少年との間で、主人公の「僕」は揺れ動きます。

◆     ◆      ◆

「わたしたちは仲間です」。
ある日、14歳の「僕」に届いた1枚のメモ。クラスの男子生徒から、毎日いじめられている「僕」にそのメモを送ったのは、クラスメートの女子生徒「コジマ」だった。
同じくいじめに遭っていたコジマと「僕」はやがて恋愛とも友情ともいえない絆で結ばれる。
コジマは、どんな苦しみにも意味がある、と言う。その意味とは、ここではないどこかに、神聖な世界がきっとあって、だからこそ人は生きている。どんな苦しみも乗り越える意味がある、というようなことを言う。
ただひたすら、いじめ抜かれて、悲惨で、残酷でしかなかった「僕」の日常が、耐えるだけの意味あるものに思え、何か明るい輝きが差し込み始める。

ところが、病院で出会ったいじめグループの一人、百瀬との話し合いで、「僕」のその思いは完全否定されてしまう。百瀬は言う。この世界に意味なんてものは何も無い。だからいじめなど意味が無いし、耐えることにも意味がない。
だったらいじめるのをやめろ、と「僕」が抗議すると、意味があるからいじめているわけではない。あるのは「やりたい」という衝動、あるいはムードみたいなものでしかないと言う。「僕」は、自分の斜視が原因でいじめられているとばかり思っていたが、百瀬はそんな理由さえない、と言う。理由の無い、無意味なただの暴力だという。

「理由も無いのに、日常的に暴力をふるわれて僕は迷惑している。それが暴力をふるってはならない十分な理由ではないか」というようなことを言うと、そう思うのは100パーセントお前の勝手だが、いじめたいと思うのも、100パーセントこちらの勝手だ。自分が思えば、思ったとおりに現実の方からは変わってくれると思っているのか?と反対になじられる。

「自分が、されたら嫌だと思うことは、他人にもしてはいけない」などというのは、とんだウソッパチだと百瀬は言う。世の中は皆、自分がされたら嫌だと思うことを、平気で人にさせている、と言って、世の中のいろいろの矛盾を例に出す。そして百瀬は、「それでいいと思う」と言う。自分の身は自分で守るしかない。

この世の無意味に耐え切れない弱い人間が、ありもしない神やら天国やらをでっち上げる。現実を変える力が自分になかっただけなのに、悲惨な人生を、これには価値があるんだ、意味があるんだと自ら慰めている。
この世のすべてに意味なんかないのだから、究極的には善も悪もなく、すべては許されている。

こういう百瀬の言葉に、「僕」は反発しながらも、心のどこかで、その通りだとも思ってしまう。

そして物語はやがて衝撃的なラストを迎える。

◆     ◆      ◆

これは、いじめを物語の中心にすえながら、学校のあり方や、いじめをどうこう言う作品ではありません。
だから最後は、復讐でも和解でもない。
ハッピーエンドではもちろんないし、ビターエンドとも言えない。
因果の道理を知らなければ、とことん踏み迷う善悪の問題が、むき出しに提起されているのです。


善因善果、悪因悪果、自因自果なんて、経験則として、確率的に、ある程度そういうことが言えるというだけであって、仏教なんて信じなくっても、社会人としての常識があればそれで十分、といった、不徹底な言い分では、百瀬のような鋭利なニヒリストを前に、完全に論破されてしまうでしょう。
(つづく)