検証・電力システムに関する改革方針

「自然エネルギーですべての電力をまかなう町」の第2部です。

ギュッシングと日本  小説166

2012年11月30日 | 第2部-小説
  将太はまたインターネツト検索でギュッシングに関する情報も収集した。するとおどろくほどの人と団体・グループがギュッシングを訪問していた。将太や公平たちがギュッシング町を知ったのは2012年だ。いかに情報にうとかったか。しかしそれまで再生可能エネルギー問題は仕事の上で無縁だったから恥じることはないと思う。

 しかし日本の環境省や国交省、経産省は承知している。取り組みが世界に広がる中でオーストリア日本大使館は2009年、「環境技術・森林技術・代替エネルギー シンポジウム オーストリアの先端技術」が東京で開いた。環境省幹部が挨拶し、オーストリア政府代表がパワーポイントを使って紹介している。

 だが日本はお茶をにごす程度でしか取り組んでいない。その典型が農林水産省の「バイオマスニッポン」だ。これはその後の行政監査でほとんどが計画倒れ。計画を作っただけで何一つ実施していない自治体が続出している。

 木質バイオマスボイラーや木質バイオから合成液体燃料を作り、発電もするガス化プラントは世界では商用化しているのに日本では実証試験程度のものしかなく、日本の技術で採算が取れ、稼働しているプラントは一基もない。
 要するに、木質バイオに着目したオーストリアなどの先端技術は賞賛しつつ、日本は原子力発電で用が足るとして再生可能エネルギーは真剣でなかった。その違いをこれからの視察でみることができると思うとワクワクするのだった。

(ギュッシングが広く知られるきっかけとなった催し・オーストリア大使館主催)

ギュッシング町―インターネットで検索  小説165

2012年11月29日 | 第2部-小説
  ウィーンからギュッシング町まで約140kmだという。行程の3分の2は自動車専用道(アウトバーン)、残りは一般道路だという。将太は今回の視察旅行にあたって、山崎から事前に送られてきた旅行日程にあった訪問先とホテルの住所・電話からGoogleの地図検索で事前調べをしていた。

 それによるとギュッシングはハンガリーと接した国境の町で、鉄道や自動車専用道はなく、川らしい川もなかった。地図を拡大すると森林と畑が広大に広がり、建物は道路にそって、日本的に言えば、宿場町のように連なっていたが戸数は1つの集落で100戸もない。比較的パラパラと点在していた。さらに拡大すると町はギュッシング城を中心、円形に形成され、役場、病院、学校、ホテル、公園、スポーツ施設が集積していた。だがその規模は小さい。建物も200戸程度と思われた。

 パソコンに浮かび上がった町をみて、「小さい町だ」と思った。そして工場はどこに集積しているか探した。
 場所はすぐにわかった。泊まる予定のホテルの住所で地図検索したその場所こそ、工場集積地だと思った。そう思ったのは、それ以外、工場らしい場所はなかったからだ。その場所だけが長方形の建物がいくつも建っていた。しかし工場規模はそれほど大きくはない。最も大きいと思われる工場の敷地は1万平方km(100×100)程度だった。

 オーストリアでは従業員500人までを中小企業と規定している。敷地規模から見て大企業はなく、中小企業のようだが確かなことは分からない。いずれも10年ほどの間に進出してきた企業ばかりだ。それ以前のギュッシングには工場はなかった。働く場所がないので町の人は町外に働き口を探し、町は高齢者の町だったという。
 それが木質バイオマスを利用した地域暖房と発電で町の様相は一変。ギュッシングに多くの企業が進出してきたのだ。

(注・川のように見えるのは川でなく道路です。この鳥瞰図には12町村が載っています)

国民投票で原発の稼動を認めなかった国  小説164

2012年11月28日 | 第2部-小説
  将太は福島第一原発が水素爆発を起し、放射能を広く大気に放出したとき、オーストリアがいまから34年も前の1978年11月、完成した原発1号機の稼動開始の可否を問う国民投票を実施したこと。稼動「反対」が50,47%の過半数を獲得して政府はこれに従い、稼動を見送って以来、原発に頼らないエネルギーで電力をまかなっているのを知った。

 この時はオーストリアはスイスと並んで世界に認められている永世中立の国であることも知ったが非核オーストリア法まで制定しているとは知らなかった。
 原発を推進した政府与党は巻き返しをしたという。しかし国民が稼動反対の多数を占めたその翌年、アメリカ・スリーマイル島原発事故が起こり、それから7年後の1986年4月26日、ウクライナ共和国にあったロシアのチェルノブイリ原子力発電所で大爆発事故が発生した。

 あの時、日本政府は大騒ぎをした。航空機を飛ばして大気のチリを採取して放射性物質が微量ながら検出されたことを大々的に公表した。メディアは反ロシア(当時はソ連)と結んだ論評と共に、日本の原発は安全基準と安全審査が格段に厳重だからロシアのような事故は起きないと安全神話を展開。原子力発電所の新規増設を展開した。
 2011年3月11日の東北大地震と福島第一原子力発電所の水素爆発。日本政府は、原子力発電所が爆発しても時の幹事長は「直ちに健康に影響はおよばない」の談話を繰り返し発表して放射能汚染はないかのようにふるまった。その結果、制限を超える被曝者が出た。

 それから1年8カ月たつ。半径20kmの人は帰るメドはない。農作物の出荷制限は青森、長野、静岡にも及んでいる。
 原発稼動をきっぱり断ち、原発に頼らない発電をめざし、その中心に再生可能エネルギーを据えてがんばってきたオーストリア。その国に来たのだと思うと将太は脱原発のためにもトコトン、見聞しようと思った。今夜から向うギュッシングが楽しみだった。山崎は、今夜の夕食はギュッシング町のレストランを予定しているといった。

非核オーストリア法  連載小説163

2012年11月27日 | 第2部-小説

 上文書は1999年8月13日に制定された「非核オーストリア法」のオーストリア共和国官報。以下はその訳文です。
 
連邦憲法法律第149:国会は以下のように、非核オーストリア法を制定する
第1項 オーストリア国内において、核兵器の生産、備蓄、移動、実験およびその使用を禁ずる。また核兵器を設置する施設の建造は許さない。

第2項 核分裂の作用によりエネルギーを生み出す装置をオーストリア国内にて建造するのは許されない。また、現在すでにあるそれに類するものの使用も許されない。

第3項 国際的な法的義務に觝触しない限り、オーストリア国内における核分裂性物質の輸送は禁止する。この輸送の禁止はもっぱら平和的利用に対しては例外を含むが、核分裂およびその廃棄物を通じてのエネルギー利用はこの例外とはならない。

第4項 オーストリア内で発生する原子力事故による被害、また外国からに由来する被害も含めその補償は法律により行われる。

第5項 この連邦憲法法律の施行責任は連邦政府である。


注・連邦憲法法律は成立した国会において、出席議員3分の2以上の賛成によって制定される。非核オーストリア法は149番目に制定された憲法法律です。日本の法律は国会議員過半数の賛成で成立します。

オーストリアの国会議事堂  小説162

2012年11月26日 | 第2部-小説
  その建物は古代ギリシァ神話に出てくる神殿のようだと思った。手前にパトカーが停まり、建物のてっぺんに旗がはためき、正面に巨大な石造彫刻が白く輝いていた。雰囲気的には博物館のようであるが博物館にしては大きすぎる。
 だれもが言い当てることができない。ただ圧倒されて見つめるだけだった。
「あれは国会議事堂です」と山崎がいった。
「ええっ」
 だれからということもなく、驚きの声が沸いた。

 日本の国会議事堂は周囲を頑丈な鉄柵で囲い、24時間、警備が厳重で要所要所に機動隊車両を止めている。日本のパトカーは赤色ランプだがオーストリアなどは青色ランプだ。議事堂前に停まっていたパトカーは少し立ち寄っただけのようですぐ立ち去った。玄関につづくスロープをのぼって正面にたった。日曜日だから扉は閉まっていた。ガラス越しに建物内部が見える。のぞいたが気配はなかった。
 その時、山崎が「ここを見てください」といった。
 正面玄関に向って左、大理石の壁に文字が書いてある。文字はドイツ語だ。だれも読めない。
  山崎が「ここに書いてあるのは、『すべての人間は自由であり、尊厳と権利は生まれながらにしてみな等しい。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない』」と説明した。
 将太はその書かれた文字をしげしげと見ながら、日本の国会議事堂は省庁も含め、国民を寄せ付けない。それと比べるとオーストリアは国民との間に垣根はつくっていないように思えた。

「これはご参考にと思い、コピーしてきました」と山崎は肩掛けバッグから紙切れを取り出すとみんなに配った。コピーは原文だった。裏面に日本語訳があった。
 「非核オーストリア法」と訳してあった。


ウィーン見学とナゾの建物  小説161

2012年11月24日 | 第2部-小説
  ウィーンに着いた翌日は日曜日だった。視察目的地のギュッシングの関係者も不在というより公平の友人、山崎は初めて訪問するオーストリアだから観光も楽しんでもらおうとウィーン見学を織り込んで日程を考えたらしい。
 山崎は自分の車で案内するといったが将太はトラムやバス、タクシーを利用して行きたいと言った。何事も体験したいと思ったからだ。そうすると公平、貝田、竹下も賛同した。

 山崎もみんなの気持ちを快く受け止め、「じゃ、みなさんで切符を買い、支払いをして下さい。私は何もしませんから」といった。
 しかしそれは自動券売機の操作でギブアップした。画面はタッチパネルであった。最初はそれもわからなかった。券売機は模様が表示されているだけで行き先も何も表示していない。画面に触れると操作画面が現れ、ドイツ語以外、英語、フランス語、イタリア語を選択できるようになっている。
 しかし、その次がまた分からない。結局、山崎が操作方法を教え、それに従ってそれぞれが買った。厳格にいえば自力で買ったのではないが自分で操作して買った乗車券である。なんとなく嬉しい。

 最初に出かけたのは地下鉄で4つ目の駅にある宮殿だった。観光ガイドブックにある史跡は圧倒するスケールと華美で豪奢なものだった。明治維新、初めて訪れた日本使節団はその街の景観、産業、軍備に驚愕しただろうことは十分理解できる。
「これから、みなさんの視察の目的にも合う場所を案内しましょう」と山崎がいった。その場所はトラム(路面電車)に乗り、降りた停車場の前にあるという。
「それがどういう建物か、当てたら今夜、ビールをおごります」と山崎はいった。山崎も結構、遊び心があるようだ。

 しかしクイズを出すほどの建物だから、名前が知れた建物に違いないと思った。どんな建物だろう。みんなは興味しんしんでトラムに乗り、その停車場に着いた。
「あの建物です」
山崎が指さした先に威容を誇る建物があった。

(ナゾの建物正面玄関の彫刻)

コインを調達する-公衆トイレ  小説160

2012年11月22日 | 第2部-小説
  将太がまず思ったのはコインを手に入れることだった。日本で円をユーロに両替したが両替は紙幣だけで2ユーロ以下のコインは両替できない。オーストリアやドイツの公衆トイレは有料だ。高速道路(アウトバーン)は大体70セント、その他で50セントが必要。

 さてどうするかホテルで両替するというが両替料金が高いとガイドブックに書いてあった。小銭を両替するのに手数料を取られてはかなわない。しかし小銭の両替で本当に手数料を取るのだろうか。手数料とまでいわなくとも何かを頼めばチップを払うのがマナーだとも書いてあった。
 「チェンジ コイン」
 将太は5ユーロ紙幣をフロント係に出して言った。
「オッケ」といいながら、ドイツ語でなにやらいっているが将太は相手が何をいっているのかまったく分からない。
だが「ヤー」と応えた。

 「ヤー」はドイツ語で「はい」の意味だ。
 するとフロント係はコインをカウンターに並べて、将太に1つ、1つ差し出した。
2ユーロコインが一枚、1ユーロコインが2枚、50セントコインが4枚だった。
 「サンキュ、ダンケ シェ」
 するとフロント係もニッコリ笑った。東洋人のドイツ語も英語も分からない旅行客応対に慣れているようだと思った。
 しかし将太は初めて手にしたコインだった。これでトイレに急に行きたくなって大丈夫だ。そして心配した手数料は取られなかったしチップを払うこともなかった。

(写真*ドイツ・ミュンヘン地下街の最新トイレ)

架線がないウィーンの地下鉄  小説159

2012年11月21日 | 第2部-小説
 地下鉄のホームへは階段を降りていく。ホームに出ると日本と違うと思った。架線がないのだ。架線がない?ウィーンの地下鉄はもしかしてディゼル車?
 これも結局、山崎にたずねてわかったことだが架線は線路の真ん中に敷設しているという。日を改めて確かめると確かに架線は線路と線路の真ん中に敷設されていた。街中で電線を見るのは、トラム(路面電車)とトロールバスの架線だけだった。

 電線がないとこれほどすっきりした景観になるのか。そしてこれはウィーンという歴史的都市だからなのかと思ったが視察旅行をしている期間、移動中も訪問した街、村のどこに行っても日本のような電柱と電線を見かけることはなかった。辺境地と思われるごく一部で電線を見かけたがそれは日本のような電柱でなく、家の屋根から屋根に電線を張る方法でそれもごく限られた軒数だった。

 では電線はどうしているのか。山崎は地下に埋めているといった。
ウィーンの地下鉄はシステムを理解するととても乗りやすい電車だと思う。すべての路線はウィーン中央駅を経由して終点がある。行き先表示は終点駅のみだから自分が行きたい駅への電車は終点駅のみを覚えて乗車すれば路線を間違うこともないと逆方向の電車に間違って乗ってしまうことはない。そして路線は色で区別しているから乗り換えのときも色を目印に歩けば間違うことはない。

 そして1日乗車券は地下鉄、トラム、トロールバスのすべてに利用できる。日本と違うのは時間制だということ。例えば午後7時に購買し、利用した場合、翌日の午後6時まで有効である。厳密には利用時間は秒単位で打刻しているからその前まで有効だという。
 国が違うと何かと違う。何がどう違うのか、見たい、発見したいと思った。そう思うといろいろなことに挑戦しようと思った。

ウィーンの地下鉄  小説158

2012年11月20日 | 第2部-小説
 到着した日は土曜日だった。ホテルに向う街は街灯も明るく、店の明かりも明るい。これならどこかに飲みにいけそうだと思い、山崎にたずねた。
「店は普通、7時頃まで開いていますが今日は土曜日だから早く閉めているのでさて、どこが開いているか」と山崎はいう。
 日本なら居酒屋は街にあふれている。しかしウィーンにはそうした歓楽街というか飲食店街というものはないという。将太は公平と同じ部屋だった。キャリアバックからマフラーと手袋を取り出すと「ちょっと街の様子を見てくる」といった。
「もう出かけるのですか」
「ちょっとだけ街の空気を吸ってくる」

  ホテルは地下鉄駅の前にあり、周辺には別のホテルもあった。日本なら駅周辺、ホテル周辺には飲食店かコンビニがたいがいある。ホテル周辺の様子だけでも見たかった。それで外にでたのだが外は小雪まじりの天気で北風が吹いていた。寒い。
 ホテル周辺を歩いたがビルが連なっているだけで店らしきものはない。仕方なくホテルの前にある地下鉄の駅に向かった。出かける前に旅の案内ガイドブックを読んできたが駅は日本とどう違うのか。何でも見てみよう。確かめ、体験してみようと考えていた。駅舎に入ったが駅員はいない。あるのは自動券売機と時刻表、それに改札が上り線、下り線の2カ所にあるがここにも駅員はいない。その代り、通路の真ん中にカードを挿入するような小さなボックスが1つあった。

 乗降客を観察していると下車した客は皆、改札を素通りして消えていく。乗車するため改札を通る人はというとやはり素通りで通る人がほとんどだ。券売機で乗車券を買った人だけが改札通路の真ん中に建てられたカード挿入ボックスに乗車券をタッチしてホームに下りていった。どういうシステムになっているのか。ガイドブックには書いてなかったように思う。

 次に時刻表を見た。早朝と深夜の時刻は記載されていたが日中はー線が引かれ、時間表示はなかった。一瞬、地下鉄は朝・晩だけの運行?と思った。だがこれは後で山崎に聞くと「走っているが日本のようにこだわらない」からだようだ。その代わり、ホームに出ると電車が何分後に来るか分単位で到着するまでの時間を表示しているという。

 日本との違いは駅舎とホームは出入り自由、公道と同じだと思えばよい。もっとも良く分かるのは鉄道だ。駅とホームには柵というものがない。どこからでも列車に乗ることガできるし、降車した場所から客はそれぞれに帰宅道をたどる。

 無賃乗車はどうなるのか。たまに警察が検札するらしい。この時、乗車券・定期を持っていなければ即罰金刑が科せられるという。

自動販売機、コンビニ、家がない街  連載小説157

2012年11月19日 | 第2部-小説
 オーストリア・ウィーン空港には午後5時前についた。日本時間に直すと夜の11時だ。外はまだ明るい。感覚的には日本と変わらない。オーストリアは北海道より緯度が高いから日本により日没が早く、夜明けが遅い。だから午後4時には陽が落ちると思っていたがそうではなかつた。
 空港には大平公平の友人・山崎肇が迎えにきていた。公平が山崎の姿を発見するのと山崎が公平を発見するのとはほぼ同時だった。
 「やあ」
 「やあ」と言葉を交わすと、山崎が車を止めている駐車場に向かった。ホテルには40分ほど走る。高速道路(アウトバーン)に沿って森林がどこまでも続いていた。晩秋の景色だった。

 街の景色を眺めていた将太は日本のような高層ビルがまったくないと思った。市内に入ると日本との違いは歴然としていた。建物はすべて石造りで6階以上の建物はなかった。電柱・電線がなく自動販売機もなかった。ネオンが極端に少なく、控え目であった。コンビニもなかった。住宅らしい家もない。目に飛び込む建物は会社のビルのような建物群ばかりだった。日本ではビルとビルの間に家や商店がある。ウィーンの街にはそうした風景はまったくない。景観規制が徹底していると聞いている。決めたことは徹底して守る国だと思った。