[鞄の鳥]
☆
「乳房をみなぎらせて出かけて行く女」
朝な朝な、
女は乳房をぴんと張り詰めさせて出かけていった。
いったい女には、
乳を含ませる赤子がいないのだろうか。
もし乳飲み子がいたら、
あんなにふくよかな胸をして、
毎朝決まった時間に出ては行けないだろう。
通学の子供たちや通勤者が出払って、
静けさを取り戻した路地を、
ようやく自分の出番が来たとでもいうように、
颯爽と胸を張って歩いていく。
女よ、
いったい誰に、その乳房を与えに行くのだ。
新種の牛乳配達員でもあるかのように、
身を張って出掛けていく女。
☆
アパートの二階の窓から路地を見下ろして、こんな詩を書いた学生は、今や卒業して社会人となり、その街を離れた。もう暢気に路地行くものを観察するどころではなく、社会の歯車の一つとなってせかせかと動き回るだけだった。
時間に追われる生活を余儀なくされてみると、幻のように過ぎ去ったその頃のことが、懐かしくも切なくも想い出されるようになった。
かつて雀たちは屋根や軒を伝って賑やかに囀っていた。
雀は今も、朝の爽やかな空気を羽根の一枚一枚に通わせて、軒から路地へ無心に飛び回り、跳ね回りしているだろう。
路地を女が通る。乳房を漲らせ、風を切り颯爽と通り過ぎる。女に攪拌された風が、窓辺に漂ってくる。
やるせない思いが昂じて、ついに彼は子雀になった。彼が子雀になった!
いたたまれず、びびっと翼を張って飛び降りると、女の乳房と乳房の間の窪みに身を伏せるように取り縋った。
女は「あっ!」と叫んで、胸に飛び込んだものをもぎ取った。
もしカブトムシとか、クワガタであったら、ひとたまりもなく路面に叩きつけていただろう。しかしそれは柔らかな羽毛に覆われた弾力に富む子雀だった。
子雀は予期せぬ女の寛容さに、呆気に取られて嘴を開いた。女はその嘴を自分の口に運んで含み取ると、親指の腹で子雀の頭を撫で付けながら、言ったものだ。
「あなただったの。びっくりするじゃない。一体どうしたっていうの? お母さんにはぐれたのね」
女は首をめぐらせて母雀を捜したが、雀たちはいても、それは日常の光景だった。女の手に握られた一介のサラリーマンである彼に、神経を研ぐ雀などいなかった。
彼は女の鞄の中で、化粧道具の香にむせそうになりながら、今日の欠勤届をどうやって伝えたものかと考えていた。いっそ辞職願いにして、このまま籠の鳥、いや、鞄の鳥になってもいいような気がしていた。
了
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