波乱の海をぶじ目的地へ

現世は激しく変動しています。何があるか判りませんが、どうあろうと、そんな日々を貧しい言葉でなりと綴っていけたらと思います

金色の目

2019-01-06 20:21:58 | 超短編



 その校舎の二階では、夏季特別講座が持たれていた。学業に遅れているもののために、学校の配慮で開かれている講座だった。
 僕はいつだって遅れていたから、その教室の窓際に、ぼんやり腰掛けて、よくわからない特別講座に耳を傾けていた。これが分からなければ、さらにおいていかれる不安がどこかにあった。
 講義が始まって三十分もした頃、窓から一匹の蝶が舞い込んで、教室の中を回り始める。黒い地に黄の斑点が金属の光を放っている。羽を開いた大きさは,十センチ以上ある。黒揚羽だろうか。そろそろ学ぶのに厭きがきていたころだったから、出来の良くない高校生とか、街中に散らばっている浪人ふうの若者たちが、気を取られて蝶を追うことに集中しはじめる。当然僕もその中に入っていた。
 目で追うだけでは飽き足らず、立ち上がって,手で掴もうとするものも現れた。
 女の教師も勉強を中断しなければならなくなり、動静を伺っている。はじめは二度三度静粛にするように注意したが、その教師の口もとをかすめるように舞う蝶とあっては、蝶の自由に任せておくわけにもいかなった。
 女教師の心を読んで、生徒の中にはノートを丸めて蝶を追いかけるものも出てきた。
 そんな生徒が二人三人と出てくると、教室内は大変な騒ぎになった。他人の机にのって、机から机へと追いかけるものも出てきた。
 そんなざわめきが、頂点に達したとき、一人の女子生徒が、
「やめて!」
と叫んだ。彼女の机を踏まれたからではなかった。
「蝶をいじめるのは、やめて!」
と付け加えたからだった。絶叫といってよかった。絶叫と哀願、二つながら備えた叫びだった。
 その一陣の喚きで、教室は静まった。蝶を追った何人かも席に着いた。蝶も驚いて姿を消してしまった。
 蝶が外に出て行ったのではない。それは窓際の僕が、蝶をずっと目で追っていたので、断言することができた。どこか柱の陰にでも貼り付いて、難を逃れているのだろう。
 女教師もホッとした様子でハンケチで額のあたりを抑えていた。そして授業を再開した。

 ベルが鳴り、特別講座が終わると、解放された生徒が席を立った。当然僕も遅れて席を立った。勉強に未練があったから、遅れたわけではない。何事にも動きが遅かったのである。
声を張り上げた女生徒は出口に近い席にいたが、席を立つのは遅かった。僕は彼女の後を、間に二三人はさんで出口へと進んでいた。ドアは開いたままだった。
 女教師は教卓に一人残って、生徒たちが帰っていくのを見守っていた。あの蝶はどこに行ったのかしらと、教室内を見回す気配もどこかにあった。
 女生徒が、扉に近づいた時だった。天井からほぼ垂直に黒いものが舞い降りて、女子生徒の黒髪にとりついたのだ。周りに騒ぎは起こらなかった。女子生徒も気づいた様子はなかった。教室を出て行く彼女に動揺はなく、髪に手をやるでもなかった。しかし僕は見ていたのである。黒揚羽が女生徒の
黒髪に留まるのを。そして黒髪の中から、金色の瞳で、僕をじっと見ているのを。
 黒髪に紛れ込んだ黒揚羽が、自分を示すのは、金色に光る斑だけだった。それが目となって、僕を見つめていた。

end