小学校の同窓会(1)(2007年11月27日)
先日京都で小学校の昭和30年度卒業の合同同窓会があった。神戸の娘宅から行ったのであるが、矢張り和歌山~京都間よりも所要時間が少なくて、和歌山は本当に田舎であると実感してしまう。いつも同級生から「遠い所をご苦労さん」と労いの言葉をかけられる。残念ながら、和歌山が不便な所であるのは皆さん周知のことである。
学年全体の同窓会なのでどうしても記念写真・クラス紹介・恩師への記念品贈呈・校歌斉唱等々の儀式が多くて、場所もそれなりの人数と言うことで、ホテルで行われ、いつもながら、如何にも大袈裟な同窓会になってしまう。
席は当然クラスごとになるが、未だに、男女別々のテーブルであるのも、折角、戦後、男女共学が取り入れられたその趣旨がもう一つ生かされていないのは残念なことである。尤もその様に思うのは「さいら」のみかも知れない。肝心の同級生との話の内容も近況を尋ねたりの希薄なものにならざるを得ない。年齢も年齢であるので、結構、孫の話に費やされてしまう。同窓会に出席するのは皆さん、それなりの生活を送っておられる方ばかりであり、貧困の毎日の生活をしているのは残念ながら、そして毎度のことであるが、「さいら」のみであった。2,3回同窓生の思い出などを話そうと思う。
クラスは6学級有って、学年児童数約400名という大きな学年であった。父親が戦争に行くので、心おきなく子供に託す戦後のベビーブームとはひと味違った大所帯の学年であった。我が国も未だ経済的に苦しい昭和20年代後半の頃で、校舎の建設が間に合わないで、半年間「講堂」を衝立で区切って、授業を受けた。それも、今となっては良い思い出である。
実は何処かで話したかも知れないが、この学年には特徴があった。6年間、クラス替えがなかった。又、担任の先生は、少し例外もあるが、1~3年と4~6年の二人であった。どちらを取ってみても、娘の小学校時代を思うと、信じられないことであった。何でも、学校側はクラス替えをしたかったし、担任も頻繁に変えたかったそうであるが、保護者会の圧力でその様になったと言うことだ。尤もその理由の真偽は不明であるが、確かに保護者の力の入れ様も今とは違った。父兄が入れ替わり立ち替わり、教室に出入りしていた。花を飾ったり、図工のお手伝い等々。大袈裟に言えば、毎日が「参観日」のようであった。何処か今の教師と児童と保護者の繋がりとは全く違っていたように思う。又、多分産休かと思うのであるが、半年ほどの間、或るクラスの児童が他のクラスに配分されたこともある。今では信じられないような事態である。これも当時の学校の貧困さで有ろうと今になって思う。
小学校と言うことで同窓生のその後の人生も多種多様である。「さいら」のようなサラリーマンは意外と少なくて、自ら会社を興した者、親の稼業を受け継いだ者、大学の教授、有名企業の取締役、等々である。驚くのは、京都でも名高いらしい「占い師」もいるし、声楽家もいる。みんな一生懸命生きた人生であると思ってしまう。京都に在住の同級生は色々と今も頻繁に連絡していて、お互いに交流しているようである。しかし、色々と手を尽くしても、所在不明の同窓生もいる。所在が分かっていて、案内を出しても、出席しない同級生もいる。
担任の先生も6年間で二人。その内のお一人は残念なことであるが他界された。その先生のお元気な時の遺影をテーブルに飾る。これも、ささやかな、幹事同級生の気遣いである。もう一人の今もお元気な先生は必ず、出席下さる。昔女子児童であったが、今は貫禄十二分な女性方々に先生を独占されてしまう。そう言えば、確かに当時から女性の持てた先生であった。相変わらず先生という職業柄、噛んで含めるような、少々長い、訓話の様な話も今は聞くのが楽しみである。
あれやこれや、思い出すことの多いいつもの同窓会であった。次は三年後の学年合同同窓会での再会を約束して、多分その間にクラスだけの同窓会も有るだろう。お互いに元気で再会を。
寄り道:大宮通
同窓会に出る前に少し時間があったので、思い出のある所を久し振りに歩いた。
写真は東寺の東門から北へ向かっての「大宮通」である。
九条から四条まで片側3車線から2車線の広い通りがほぼ一直線に通っている。写真では分かりにくいが、大きなダラダラ坂の陸橋がある。「大石橋」にある橋には歩道があったがここにはなかった。しかし、大文字の時にはその陸橋から見たものである。しかし、世の中が安定するに連れて全く許されなくなった。陸橋の上を横切っているのは新幹線である。新幹線が通るようになってから京都の南も大きく変化した。
写真では見えないが、その陸橋の下は東海道線が通っている。京都駅に近いこともあって、何本もの線路が有った。今思えば、危ないことこの上ないが、その東海道線の線路は格好の遊び場であった。その線路に蒸気機関車の給水設備も有った。蒸気機関車と大阪・京都を走る国鉄電車の音が違うのに驚いた。動態保存のために今もある
「梅小路」周辺は貨車の結節点でもあった。十条に有ったと思うのだが、「と殺場」へ数十頭もの牛が繋がれてこの道路を南下行進していった。中に嫌がる牛も居て、キッと自分の運命を知っているのかと思ったりした。昔はこの通りにも「市電」が走っていた。所謂「電車道」である。二系統の電車が走っていた。その市電の線路に五寸釘を置いて、市電がその釘の上を通過するのを待ったことがある。何でも電車なのでその五寸釘が「磁石」になると言うのだが、そうも旨く行かなかったように思う。
当時は、この大通りにも荷馬車が通っていた。荷馬車だけではない。大八車も通っていた。ゴミ収集車は今と全く違う「トラック」であった。ゴミの量は極々少量の「生ゴミ」くらいしかなかった。時には米軍の戦車とかジープが隊列を組んで通ることもあった。昼日中なのに全て「ヘッドライト」を点灯していた。幼心に、明るい昼間なのに何故ヘッドライトを付けているのか?不思議であった。
ジェーン台風の時には家族みんなが、防空頭巾を身につけて今なら、「ヘルメット」であるがいつでも避難できるように玄関から荒れ狂う大宮通を見ていた。あの台風は本当に恐ろしかった。
京都の町内会は和歌山と違って、その通りを挟んで、と言うか、通りに向かい合っている家々が一つの町内会であった。だから、大きい通りにもかかわらず、よくその大宮通を横断したものだ。今となるとよくあんな広い通りを信号もないのに横断したものだと思う。
寄り道:東寺
同窓会に出る前に少し時間があったので、思い出のある所を久し振りに廻った。前の記事「大宮通」の続きである。小さい頃はこの東寺は荒廃したお寺であった。毎日のように遊んだ所である。今は入場料を払わないと殆どの場所に入れないが、当時はそんなものは要らなかった。清水とかは既に拝観料を取っていたのであろうが・・。
東寺の広い境内全てが子供の遊び場であった。今の駐車場は大体ソフトボールとかキャッチボールをして遊んだ。冬休みはたこ揚げの広場でもあった。たこ揚げは下手であったので、一旦上がると、時間が来ても下ろすのが勿体ない。いつまでも揚げたままであった。ある時若いアベックの男性が上手く揚げられない「さいら」を見て手伝ってくれたことがあった。重心を取り直したり、凧の足を調節したり。「アベック」なんて言葉も当時流行していて聞いただけでもドキドキした。
三つ有る伽藍は隠れん坊、鬼ごっこ、走りの遊び場であった。中に「瓢箪池」があった。境内から少し北の方には「亀池」があった。「瓢箪池」はその池の形状であり、亀池はその名の通り、亀が日向ぼっこをしていた。本当の名前は知らない。それらの池は「ザリガニ釣り」の遊び場であった。確か贅沢にも「スルメ」を括り付けて釣ったように思う。しかし、さすがに亀を捕るものはいなかった。瓢箪池では沼のような所に足を取られ、抜けなくなって、友達に助けて貰ったこともある。
sakakuraさんのコメントにあった「トンボ釣り」である。トンボを捕る方法は幾つかあった。捕虫網で捕るのは今思えば、ポピュラーであるが、余り面白くない。「鳥もち竿」を使うのは池の上を飛んでいる場合には、非常に便利であったが、捕ったトンボに「鳥もち」が付くのが難点であった。当時は誰でも鳥もち竿の一本や二本は持っていた。竿の先に「鳥もち」を上手に付けるのがコツであった。トンボ釣りには二種類有る。確か夕方がその釣りの時であった。上手な友達は釣ったトンボ数匹を指の間に挟んでいた。実に羨ましかった。道具造りと投げ方が勝負であった。残念ながら、「さいら」はどちらも不得手であった。もう一つのトンボ釣りは実はやったことがない。そんなに旨く行く訳がないと思っていたが、上手くトンボを釣る友達が居た。ただ、これは雌のトンボをまず手に入れなければならない。そもそもそれが「さいら」には問題であった。もう一つ、とまっているトンボの前から人差し指をクルクル回して、トンボに目眩を起こさせて捕る方法もあった。これは何回もやってみたが、成功した試しはなかった。根気がないのであろう。
そうやって、夏休みには朝から夕暮れまで境内で遊んだ。夕暮れになると門番が「門を閉めまーす。」と大きい声で言いながら廻ってくる。それでその日が終わる。後ろ髪を引かれながらも大急ぎで出ていく。当時はその門番が偉い人のように思っていたが後々、その門番が「さい銭ドロ」をして捕まった。確かに、門を閉めてしまうと後はやり放題ではあった。
写真は東寺東門にある駐車場付近から五重塔を撮したものである。左手に見えるのは、多分宝物などの倉庫である。今は綺麗に整備されているが、昔は荒れ放題だった。「さいら」はこの角度の東寺が好みである。

中学校になってからであるが、その東寺の坊さん、だったと思うのであるが、東寺の偉い方の息子が居た。坊さんに息子がいると言うのも変であるが、確か、クリスチャン系統の中学生だったように思う。ある時その息子に誘われて、「お守り」の中の紙のハンコ押しを手伝ったことがある。ハンコを押すと、それを「お守りの中に入れる人が居た。一応流れ作業である。それ以来、「さいら」は「お守り」の有り難みがなくなり、買うことはない。今もそうである。せめて、「さいら」が「うら若き女性」で、押していたのなら話は全く変わっていたと今思う。
東寺と言うと何はさておいても、毎月21日の「弘法さん」である。「弘法市」と今は言うそうだ。時代の波であろう。今、有料になっている所も含めて、境内全体にお祭りの時のような露店が出るのである。京都の南周辺の農家の方が多く見えていたように思う。その方達の目的は勿論物見遊山・買い物もあるが、その「弘法さんの日」だけの「お湯場」(大浴場)が目当てである。そこでゆっくりとお湯に浸かり、お昼には「ウナギ」を食べる。今で言うと、日帰り温泉旅行だ。その方達には一年の内の何回かの楽しみであったのであろう。
12月21日は「終い弘法」、1月21日は「初弘法」と言う。一月の「初弘法」から数えると何等不思議はないのであるが、時の流れから言うと「終い弘法」の直ぐ後に「初弘法」がある。その間僅か一ヶ月。「終い弘法」・「初弘法」共に大賑わいであった。小さいながらも、何か悩んだ記憶がある。
今も露店で売っている「骨董品」は外人にも人気があるそうだ。これは「弘法さん」の名物であった。骨董品の他に結構多いのが「古着」であった。どちらも由緒はハッキリしないと言うのが親の教えであった。勿論駄菓子・おもちゃも売っている。
その辺は今の祭りの露店と変わりはない。一日の縁日にしてはかなり大がかりな「見世物小屋」も有って、「轆轤首」なんて怪しげな見世物もあった。そこは残念ながら「入場料」が要った。本当に賑わった。
しかし「さいら」のお目当ては違った。「蛇使い」だ。珍しい蛇を操ったり、マムシを腕に噛ましたりして、興味を煽り立てて、最後には本論の切り傷、火傷等々何にでもよく効く「薬」を売る商売だ。この手のものは「蛇」以外の道具立ても有ったような気がする。必ず、最初に何人かが手を挙げて、その薬を買う。「あれはサクラやで」と教えて貰った。いつもそれを見ていると、その薬を売った後はどうなるのかが気になった。それで最後の最後まで見ていた。薬が売れ終わると、そそくさと彼らは帰り支度というか、閉店の支度をする。他にも、がまの油を指に塗りたくって、熱湯に浸けながらの「がまの油売り」、会社が倒産して給金の代わりに現物支給で貰ったとお涙頂戴式の「万年筆売り」。これは確か女性であったように記憶しているが、卵焼きを作りながら、粉を入れるのと入れないのとでは出来上がりの卵焼きの大きさが倍ほど違う「卵の素売り」。包丁で板を斧代わりに使い、その直後に新聞紙を見事に切ってみせる「包丁売り」等々の「タンカ売り」も面白かった。毎月であっても、退屈することはなかった。
そう言うことがあって、晩年になっても「寅さん」の大ファンである。
寄り道:稲荷祭
通学路に稲荷神社の「御旅所」がある。伏見稲荷神社からご神体五体が御輿に乗って御旅所に来られる。朧気な記憶であるが、確か、四月か五月の「午の日」にお出でになり、「酉の日」にお帰りになる。20日ほどの旅行である。婆さんが言っていたのであるがお稲荷さんは「ウマウマ来て、トットと帰る。」その言葉は何となくお稲荷さんを象徴するような言葉であり、で覚えたのである。その間滞在されるのが「御旅所」である。御輿は5基有る。その五基の御輿であるが、全て作りから、飾り飾り付けまで、見事にバラバラであった。「一番重たいのは西九条や」「いやいや、一番品格があるのは四の大神の名の通り東寺や」と言いがちしたものである。親戚の叔父さんがしたり顔で「あの五基の御輿はなあ。質流れの御輿だ。だからバラバラなんや。」嘘か誠か知らないが、お稲荷さんでは有りそうなことである。
御輿の前に長い長い「行列」が続く。確か「お通り」と言っていた様に思う。この上下を着たおじさん連中の「お通り」は子供には全く興味がない。退屈この上もない。御輿が来る前触れの意味だけがある。当時は伏見から御旅所のある西九条は今と全く違って、農業が殆どであった。だから担ぎ手も多くいたのである。大宮通の高橋を渡ってくる。
当時は、市電も未だ走っていて、酔っぱらいの御輿担ぎ手の交通整理が大変だった。担ぐと行っても、道中が非常に長いので、殆どは台車に乗せているのであるが。御輿を担ぐ人はこの時ばかりは本当に無礼講であった。時には市電を途中で止めて、乗って行く人も居た。しかし、時と共に工業や住宅の大きく変化してしまった。いつ頃か良く覚えていないが、或る年にその御輿がトラックに乗って御旅所まで来たのである。どうもトラックに乗った御輿は情緒もないが、昔昔、「旅行」と言えば、歩いたのであるが、それが今では、飛行機になっていることを考えると、何等不思議でないし、文句も言えない。
その祭りの日は、寿司などを作って、親類の方をお招きする。寿司はばら寿司と言うか、五目寿司である。具もいつもよりは張り込んだ五目寿司である。更にどうしてもサバ鮨が付きものであった。これは前の日から作る。サバ鮨は母は上手く作れないので、婆さんが手伝いに来て作っていた。小骨を一本一本抜く作業は母の役目で有ったが、見ていても大変だった。味の良し悪しは婆さんの腕次第であった。出来上がると一本づつ「タケの皮」で包む。このサバ鮨は来てくれた親戚の方々への「お土産」来れなかった方への贈答にもなるので、慎重に作られた様だ。そのサバ鮨にあたったことがある。その翌年は残念ながら、「さいら」はサバ鮨は遠慮したが、2,3年経つと食べても異常はなかった。
祭の日の小学校は臨時というか、恒例というか、休校である。学校が休み、例えそれが、インフルエンザでの休校でも嬉しいのに、「祭で休校」はその嬉しさこの上ない。寿司は食えるし、御輿はゆっくりみれるし。しかし、残念なことにその代わりに宿題がある。毎年「祭風景」の写生と相場が決まっていた。或る年、「写生ばかりで詰まらない。」とクラスの意見が通り、算数の宿題が出されたことがあった。その量が非常に多くて、みんな閉口したと思う。翌年は元通りの写生になった。それで、文句を言うものもなかった様に思う。
その写生であるが、嫌なのでほっておいたことがある。こればかりは、「やった」と誤魔化すことが出来ない。翌朝、母に叱られながら、未だ人通りも殆どない早朝写生と相成った。
稲荷神社御旅所
稲荷祭は約20日その御旅所にご神体が滞在される。実は、ご神体だけでなくて、その間、昼も夜も露店が出て賑わう。その20日ほどの間が「お祭り」と言うことだ。その御旅所は下校途中にある。それで毎日下校時にかなりの道草をしながら、その縁日を堪能して帰った。弘法さんの縁日とは又異なっている所があった。
夜は家族と一緒に行くこともあった。「キンギョ掬い」が名物の様であった。境内の手前の大きな店、その祭の時だけ開いているのであるが、があった。「さいら」は掬うのが下手で、大概、親に買って貰ったキンギョを持ち帰る。 食い物では、綿菓子・人形細工の飴などがあった。露店で焼く「金つば」が好みであった。夜・昼に、時々大人用の演芸もある。浪曲・講談などである。お神楽などもしていたが、狂言も時々やっていた。
最初は何が面白いのか全く分からなかった。周りの人が笑えば、それに相づちを打つ様に、笑っていた。しかし、何回も何回も見る内に、数年経っていたと思うが、段々と分かる様になってきた。ゲラゲラと笑う様になった。今思えば、京都の文化の一つに接していたことになる。

写真は祭でない時の稲荷神社御旅所である。朱色が鮮やかな鳥居が、伏見稲荷らしいが、単なる公園の様に見える。落ち葉がなかなか風情がある。境内にそんなに多くの樹木があったのかと今不思議に思う。
これにて、同窓会シリーズは取りあえず終了です。次の再会は3年後になるとか・・。
先日京都で小学校の昭和30年度卒業の合同同窓会があった。神戸の娘宅から行ったのであるが、矢張り和歌山~京都間よりも所要時間が少なくて、和歌山は本当に田舎であると実感してしまう。いつも同級生から「遠い所をご苦労さん」と労いの言葉をかけられる。残念ながら、和歌山が不便な所であるのは皆さん周知のことである。
学年全体の同窓会なのでどうしても記念写真・クラス紹介・恩師への記念品贈呈・校歌斉唱等々の儀式が多くて、場所もそれなりの人数と言うことで、ホテルで行われ、いつもながら、如何にも大袈裟な同窓会になってしまう。
席は当然クラスごとになるが、未だに、男女別々のテーブルであるのも、折角、戦後、男女共学が取り入れられたその趣旨がもう一つ生かされていないのは残念なことである。尤もその様に思うのは「さいら」のみかも知れない。肝心の同級生との話の内容も近況を尋ねたりの希薄なものにならざるを得ない。年齢も年齢であるので、結構、孫の話に費やされてしまう。同窓会に出席するのは皆さん、それなりの生活を送っておられる方ばかりであり、貧困の毎日の生活をしているのは残念ながら、そして毎度のことであるが、「さいら」のみであった。2,3回同窓生の思い出などを話そうと思う。
クラスは6学級有って、学年児童数約400名という大きな学年であった。父親が戦争に行くので、心おきなく子供に託す戦後のベビーブームとはひと味違った大所帯の学年であった。我が国も未だ経済的に苦しい昭和20年代後半の頃で、校舎の建設が間に合わないで、半年間「講堂」を衝立で区切って、授業を受けた。それも、今となっては良い思い出である。
実は何処かで話したかも知れないが、この学年には特徴があった。6年間、クラス替えがなかった。又、担任の先生は、少し例外もあるが、1~3年と4~6年の二人であった。どちらを取ってみても、娘の小学校時代を思うと、信じられないことであった。何でも、学校側はクラス替えをしたかったし、担任も頻繁に変えたかったそうであるが、保護者会の圧力でその様になったと言うことだ。尤もその理由の真偽は不明であるが、確かに保護者の力の入れ様も今とは違った。父兄が入れ替わり立ち替わり、教室に出入りしていた。花を飾ったり、図工のお手伝い等々。大袈裟に言えば、毎日が「参観日」のようであった。何処か今の教師と児童と保護者の繋がりとは全く違っていたように思う。又、多分産休かと思うのであるが、半年ほどの間、或るクラスの児童が他のクラスに配分されたこともある。今では信じられないような事態である。これも当時の学校の貧困さで有ろうと今になって思う。
小学校と言うことで同窓生のその後の人生も多種多様である。「さいら」のようなサラリーマンは意外と少なくて、自ら会社を興した者、親の稼業を受け継いだ者、大学の教授、有名企業の取締役、等々である。驚くのは、京都でも名高いらしい「占い師」もいるし、声楽家もいる。みんな一生懸命生きた人生であると思ってしまう。京都に在住の同級生は色々と今も頻繁に連絡していて、お互いに交流しているようである。しかし、色々と手を尽くしても、所在不明の同窓生もいる。所在が分かっていて、案内を出しても、出席しない同級生もいる。
担任の先生も6年間で二人。その内のお一人は残念なことであるが他界された。その先生のお元気な時の遺影をテーブルに飾る。これも、ささやかな、幹事同級生の気遣いである。もう一人の今もお元気な先生は必ず、出席下さる。昔女子児童であったが、今は貫禄十二分な女性方々に先生を独占されてしまう。そう言えば、確かに当時から女性の持てた先生であった。相変わらず先生という職業柄、噛んで含めるような、少々長い、訓話の様な話も今は聞くのが楽しみである。
あれやこれや、思い出すことの多いいつもの同窓会であった。次は三年後の学年合同同窓会での再会を約束して、多分その間にクラスだけの同窓会も有るだろう。お互いに元気で再会を。
寄り道:大宮通
同窓会に出る前に少し時間があったので、思い出のある所を久し振りに歩いた。

写真は東寺の東門から北へ向かっての「大宮通」である。
九条から四条まで片側3車線から2車線の広い通りがほぼ一直線に通っている。写真では分かりにくいが、大きなダラダラ坂の陸橋がある。「大石橋」にある橋には歩道があったがここにはなかった。しかし、大文字の時にはその陸橋から見たものである。しかし、世の中が安定するに連れて全く許されなくなった。陸橋の上を横切っているのは新幹線である。新幹線が通るようになってから京都の南も大きく変化した。
写真では見えないが、その陸橋の下は東海道線が通っている。京都駅に近いこともあって、何本もの線路が有った。今思えば、危ないことこの上ないが、その東海道線の線路は格好の遊び場であった。その線路に蒸気機関車の給水設備も有った。蒸気機関車と大阪・京都を走る国鉄電車の音が違うのに驚いた。動態保存のために今もある
「梅小路」周辺は貨車の結節点でもあった。十条に有ったと思うのだが、「と殺場」へ数十頭もの牛が繋がれてこの道路を南下行進していった。中に嫌がる牛も居て、キッと自分の運命を知っているのかと思ったりした。昔はこの通りにも「市電」が走っていた。所謂「電車道」である。二系統の電車が走っていた。その市電の線路に五寸釘を置いて、市電がその釘の上を通過するのを待ったことがある。何でも電車なのでその五寸釘が「磁石」になると言うのだが、そうも旨く行かなかったように思う。
当時は、この大通りにも荷馬車が通っていた。荷馬車だけではない。大八車も通っていた。ゴミ収集車は今と全く違う「トラック」であった。ゴミの量は極々少量の「生ゴミ」くらいしかなかった。時には米軍の戦車とかジープが隊列を組んで通ることもあった。昼日中なのに全て「ヘッドライト」を点灯していた。幼心に、明るい昼間なのに何故ヘッドライトを付けているのか?不思議であった。
ジェーン台風の時には家族みんなが、防空頭巾を身につけて今なら、「ヘルメット」であるがいつでも避難できるように玄関から荒れ狂う大宮通を見ていた。あの台風は本当に恐ろしかった。
京都の町内会は和歌山と違って、その通りを挟んで、と言うか、通りに向かい合っている家々が一つの町内会であった。だから、大きい通りにもかかわらず、よくその大宮通を横断したものだ。今となるとよくあんな広い通りを信号もないのに横断したものだと思う。
寄り道:東寺
同窓会に出る前に少し時間があったので、思い出のある所を久し振りに廻った。前の記事「大宮通」の続きである。小さい頃はこの東寺は荒廃したお寺であった。毎日のように遊んだ所である。今は入場料を払わないと殆どの場所に入れないが、当時はそんなものは要らなかった。清水とかは既に拝観料を取っていたのであろうが・・。
東寺の広い境内全てが子供の遊び場であった。今の駐車場は大体ソフトボールとかキャッチボールをして遊んだ。冬休みはたこ揚げの広場でもあった。たこ揚げは下手であったので、一旦上がると、時間が来ても下ろすのが勿体ない。いつまでも揚げたままであった。ある時若いアベックの男性が上手く揚げられない「さいら」を見て手伝ってくれたことがあった。重心を取り直したり、凧の足を調節したり。「アベック」なんて言葉も当時流行していて聞いただけでもドキドキした。
三つ有る伽藍は隠れん坊、鬼ごっこ、走りの遊び場であった。中に「瓢箪池」があった。境内から少し北の方には「亀池」があった。「瓢箪池」はその池の形状であり、亀池はその名の通り、亀が日向ぼっこをしていた。本当の名前は知らない。それらの池は「ザリガニ釣り」の遊び場であった。確か贅沢にも「スルメ」を括り付けて釣ったように思う。しかし、さすがに亀を捕るものはいなかった。瓢箪池では沼のような所に足を取られ、抜けなくなって、友達に助けて貰ったこともある。
sakakuraさんのコメントにあった「トンボ釣り」である。トンボを捕る方法は幾つかあった。捕虫網で捕るのは今思えば、ポピュラーであるが、余り面白くない。「鳥もち竿」を使うのは池の上を飛んでいる場合には、非常に便利であったが、捕ったトンボに「鳥もち」が付くのが難点であった。当時は誰でも鳥もち竿の一本や二本は持っていた。竿の先に「鳥もち」を上手に付けるのがコツであった。トンボ釣りには二種類有る。確か夕方がその釣りの時であった。上手な友達は釣ったトンボ数匹を指の間に挟んでいた。実に羨ましかった。道具造りと投げ方が勝負であった。残念ながら、「さいら」はどちらも不得手であった。もう一つのトンボ釣りは実はやったことがない。そんなに旨く行く訳がないと思っていたが、上手くトンボを釣る友達が居た。ただ、これは雌のトンボをまず手に入れなければならない。そもそもそれが「さいら」には問題であった。もう一つ、とまっているトンボの前から人差し指をクルクル回して、トンボに目眩を起こさせて捕る方法もあった。これは何回もやってみたが、成功した試しはなかった。根気がないのであろう。
そうやって、夏休みには朝から夕暮れまで境内で遊んだ。夕暮れになると門番が「門を閉めまーす。」と大きい声で言いながら廻ってくる。それでその日が終わる。後ろ髪を引かれながらも大急ぎで出ていく。当時はその門番が偉い人のように思っていたが後々、その門番が「さい銭ドロ」をして捕まった。確かに、門を閉めてしまうと後はやり放題ではあった。
写真は東寺東門にある駐車場付近から五重塔を撮したものである。左手に見えるのは、多分宝物などの倉庫である。今は綺麗に整備されているが、昔は荒れ放題だった。「さいら」はこの角度の東寺が好みである。

中学校になってからであるが、その東寺の坊さん、だったと思うのであるが、東寺の偉い方の息子が居た。坊さんに息子がいると言うのも変であるが、確か、クリスチャン系統の中学生だったように思う。ある時その息子に誘われて、「お守り」の中の紙のハンコ押しを手伝ったことがある。ハンコを押すと、それを「お守りの中に入れる人が居た。一応流れ作業である。それ以来、「さいら」は「お守り」の有り難みがなくなり、買うことはない。今もそうである。せめて、「さいら」が「うら若き女性」で、押していたのなら話は全く変わっていたと今思う。
東寺と言うと何はさておいても、毎月21日の「弘法さん」である。「弘法市」と今は言うそうだ。時代の波であろう。今、有料になっている所も含めて、境内全体にお祭りの時のような露店が出るのである。京都の南周辺の農家の方が多く見えていたように思う。その方達の目的は勿論物見遊山・買い物もあるが、その「弘法さんの日」だけの「お湯場」(大浴場)が目当てである。そこでゆっくりとお湯に浸かり、お昼には「ウナギ」を食べる。今で言うと、日帰り温泉旅行だ。その方達には一年の内の何回かの楽しみであったのであろう。
12月21日は「終い弘法」、1月21日は「初弘法」と言う。一月の「初弘法」から数えると何等不思議はないのであるが、時の流れから言うと「終い弘法」の直ぐ後に「初弘法」がある。その間僅か一ヶ月。「終い弘法」・「初弘法」共に大賑わいであった。小さいながらも、何か悩んだ記憶がある。
今も露店で売っている「骨董品」は外人にも人気があるそうだ。これは「弘法さん」の名物であった。骨董品の他に結構多いのが「古着」であった。どちらも由緒はハッキリしないと言うのが親の教えであった。勿論駄菓子・おもちゃも売っている。
その辺は今の祭りの露店と変わりはない。一日の縁日にしてはかなり大がかりな「見世物小屋」も有って、「轆轤首」なんて怪しげな見世物もあった。そこは残念ながら「入場料」が要った。本当に賑わった。
しかし「さいら」のお目当ては違った。「蛇使い」だ。珍しい蛇を操ったり、マムシを腕に噛ましたりして、興味を煽り立てて、最後には本論の切り傷、火傷等々何にでもよく効く「薬」を売る商売だ。この手のものは「蛇」以外の道具立ても有ったような気がする。必ず、最初に何人かが手を挙げて、その薬を買う。「あれはサクラやで」と教えて貰った。いつもそれを見ていると、その薬を売った後はどうなるのかが気になった。それで最後の最後まで見ていた。薬が売れ終わると、そそくさと彼らは帰り支度というか、閉店の支度をする。他にも、がまの油を指に塗りたくって、熱湯に浸けながらの「がまの油売り」、会社が倒産して給金の代わりに現物支給で貰ったとお涙頂戴式の「万年筆売り」。これは確か女性であったように記憶しているが、卵焼きを作りながら、粉を入れるのと入れないのとでは出来上がりの卵焼きの大きさが倍ほど違う「卵の素売り」。包丁で板を斧代わりに使い、その直後に新聞紙を見事に切ってみせる「包丁売り」等々の「タンカ売り」も面白かった。毎月であっても、退屈することはなかった。
そう言うことがあって、晩年になっても「寅さん」の大ファンである。
寄り道:稲荷祭
通学路に稲荷神社の「御旅所」がある。伏見稲荷神社からご神体五体が御輿に乗って御旅所に来られる。朧気な記憶であるが、確か、四月か五月の「午の日」にお出でになり、「酉の日」にお帰りになる。20日ほどの旅行である。婆さんが言っていたのであるがお稲荷さんは「ウマウマ来て、トットと帰る。」その言葉は何となくお稲荷さんを象徴するような言葉であり、で覚えたのである。その間滞在されるのが「御旅所」である。御輿は5基有る。その五基の御輿であるが、全て作りから、飾り飾り付けまで、見事にバラバラであった。「一番重たいのは西九条や」「いやいや、一番品格があるのは四の大神の名の通り東寺や」と言いがちしたものである。親戚の叔父さんがしたり顔で「あの五基の御輿はなあ。質流れの御輿だ。だからバラバラなんや。」嘘か誠か知らないが、お稲荷さんでは有りそうなことである。
御輿の前に長い長い「行列」が続く。確か「お通り」と言っていた様に思う。この上下を着たおじさん連中の「お通り」は子供には全く興味がない。退屈この上もない。御輿が来る前触れの意味だけがある。当時は伏見から御旅所のある西九条は今と全く違って、農業が殆どであった。だから担ぎ手も多くいたのである。大宮通の高橋を渡ってくる。
当時は、市電も未だ走っていて、酔っぱらいの御輿担ぎ手の交通整理が大変だった。担ぐと行っても、道中が非常に長いので、殆どは台車に乗せているのであるが。御輿を担ぐ人はこの時ばかりは本当に無礼講であった。時には市電を途中で止めて、乗って行く人も居た。しかし、時と共に工業や住宅の大きく変化してしまった。いつ頃か良く覚えていないが、或る年にその御輿がトラックに乗って御旅所まで来たのである。どうもトラックに乗った御輿は情緒もないが、昔昔、「旅行」と言えば、歩いたのであるが、それが今では、飛行機になっていることを考えると、何等不思議でないし、文句も言えない。
その祭りの日は、寿司などを作って、親類の方をお招きする。寿司はばら寿司と言うか、五目寿司である。具もいつもよりは張り込んだ五目寿司である。更にどうしてもサバ鮨が付きものであった。これは前の日から作る。サバ鮨は母は上手く作れないので、婆さんが手伝いに来て作っていた。小骨を一本一本抜く作業は母の役目で有ったが、見ていても大変だった。味の良し悪しは婆さんの腕次第であった。出来上がると一本づつ「タケの皮」で包む。このサバ鮨は来てくれた親戚の方々への「お土産」来れなかった方への贈答にもなるので、慎重に作られた様だ。そのサバ鮨にあたったことがある。その翌年は残念ながら、「さいら」はサバ鮨は遠慮したが、2,3年経つと食べても異常はなかった。
祭の日の小学校は臨時というか、恒例というか、休校である。学校が休み、例えそれが、インフルエンザでの休校でも嬉しいのに、「祭で休校」はその嬉しさこの上ない。寿司は食えるし、御輿はゆっくりみれるし。しかし、残念なことにその代わりに宿題がある。毎年「祭風景」の写生と相場が決まっていた。或る年、「写生ばかりで詰まらない。」とクラスの意見が通り、算数の宿題が出されたことがあった。その量が非常に多くて、みんな閉口したと思う。翌年は元通りの写生になった。それで、文句を言うものもなかった様に思う。
その写生であるが、嫌なのでほっておいたことがある。こればかりは、「やった」と誤魔化すことが出来ない。翌朝、母に叱られながら、未だ人通りも殆どない早朝写生と相成った。
稲荷神社御旅所
稲荷祭は約20日その御旅所にご神体が滞在される。実は、ご神体だけでなくて、その間、昼も夜も露店が出て賑わう。その20日ほどの間が「お祭り」と言うことだ。その御旅所は下校途中にある。それで毎日下校時にかなりの道草をしながら、その縁日を堪能して帰った。弘法さんの縁日とは又異なっている所があった。
夜は家族と一緒に行くこともあった。「キンギョ掬い」が名物の様であった。境内の手前の大きな店、その祭の時だけ開いているのであるが、があった。「さいら」は掬うのが下手で、大概、親に買って貰ったキンギョを持ち帰る。 食い物では、綿菓子・人形細工の飴などがあった。露店で焼く「金つば」が好みであった。夜・昼に、時々大人用の演芸もある。浪曲・講談などである。お神楽などもしていたが、狂言も時々やっていた。
最初は何が面白いのか全く分からなかった。周りの人が笑えば、それに相づちを打つ様に、笑っていた。しかし、何回も何回も見る内に、数年経っていたと思うが、段々と分かる様になってきた。ゲラゲラと笑う様になった。今思えば、京都の文化の一つに接していたことになる。

写真は祭でない時の稲荷神社御旅所である。朱色が鮮やかな鳥居が、伏見稲荷らしいが、単なる公園の様に見える。落ち葉がなかなか風情がある。境内にそんなに多くの樹木があったのかと今不思議に思う。
これにて、同窓会シリーズは取りあえず終了です。次の再会は3年後になるとか・・。