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高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

昔々の人事異動風景:全体

2007年04月13日 | 今日の話題
初めに
 人事異動は自分だけでなく、同僚・上司・知人の動向も含めて、職員の最大の関心事である。にこにこと何時もと違って愛想良い昇格した職員、希望の所へ異動した職員。今年こそは昨年の二の舞はゴメンとばかり、あらゆるコネを使って、期待したが、残念な結果になった職員。その風景は本当に悲喜交々で、「自分を愛する」ヒトの性癖が毎年露骨に繰り返される。
 その発表前には所謂伝聞辞令が職場を飛び交う。同僚にその予想がこの上もなく好きな人が居た。その予想は理路整然として、非の打ち所無く、充分説得力のあるもので、外れることは有るまいと熱心に拝聴したものだ時には人事課へ異動した方が良いのでは?と思うほどであった。しかし、必ずしも全てというか、大概は当たることは当然なかった。その外れを目の当たりにして、一言「人事課のアホ!」とその同僚は怒った。人事はそれ程理路整然と行われるものでないと言うことが理解できなかった様だ。それが数年続くと、我々はその同僚の予想を買うのではなくて、その時期の単なる風物詩として熱心に聞いた。風物詩である限り彼への取材もしなければならない。
 人事は我々一般職員には密室の秘め事であった。組織としての大事な業務である「予算」と「人事」、それは取りも直さず「金」と「人」であるが、の手法がこんなに違うものかと今も思う。「予算」は議会・住民に説明責任があるが、一般職員の「人事」は理事者の権限である。その間隙で色んな彪もあるらしい。露骨にそう言うことを語る職員も居た。
 そんな人事であるが、昭和40年初期の入庁時とは大きく変化した。内容のことではない。その人事異動の一連の事務スタイルである。と言うことで、2、3回「昔々の人事異動風景」と題して記事にしようと思う。あくまでも「風景」であって、人事の評価を伴うものではない。又、昔々と言っても我が職場の特殊な話であることは間違いない。

庁内一斉放送
 今は、定期異動は四月1日付けで、ほぼ一週間前に内示がある。3月にはいると、定期人事異動の考え方・日程等の通達が廻ってくる。これから話すことは、昭和40年代前半の頃であるので誤解の無い様にお願いする。今は全く異なっている。
 確か6月頃だったと思う。朝の10時頃に突如として庁内一斉放送が流れる。「○月○日付け、人事異動発令」。氏名・役職名を人事課は読み上げる。これがその年の定期異動の始まりである。あくまでも、「始まり」であった。その間、他人事であっても、職員は仕事よりも一大関心事であるので仕事は別に置いてシーンとして聴き入っている。時々「オッ」とか「ホウ」とかの言葉が聴き取れる。この「読み上げ」は同時性が大切なので、行政無線を通じて、出先にも一斉に流される。そして、最後に辞令交付の段取りが簡単に説明される。
 この発令は「内示」ではない。発令そのものであった。さらに、異動はこれが全てではない。その後、一ヶ月ほどして、再度、人事発令がある。最初の発令は事務の管理職である。その次の発令は同じ事務の一般職員である。この時の読み上げは人数が多いだけ、本当に延々とされる。更に一ヶ月ほどして技術の管理職。更に一ヶ月ほどして技術の一般職と続く。漸く長く続いたその年の定期人事異動はこれにて終了する。その間大体4ヶ月。技術職の「さいら」の当時の勤務記録カードを見ると、9月発令が多い。日にちはバラバラである。
 何故6月から始まるかというと、人事課がサボっているからではない。これには立派な理由がある。四月1日から新年度が始まり一つの確かに切り目であるが、三月31日で全てその年度の業務完了とは行かない。年度の決算を前任者が責任を持つためである。それを勘案すると六月になる。これは会社も同様で、株主総会が終了してから異動発令される。
 事務職と技術職に分けるのは理解できる。採用枠が全く違うためである。今も全く別枠で人事は行われる。事務職と技術職との垣根は「ベルリンの壁」よりも大きい。今では技術職異動は、2月には完成していて、人事課の金庫にて厳重に封印保管されるとか言う。
 管理職と一般職とに分けるのはそれなりの理由があったらしい。他にも理由は有りそうだが、勘ぐる所では、新しい管理職がしっかりと仕事が出来る様に、子飼いの部下を連れて行くための猶予期間であると専らの噂であった。一般職員も信頼している管理職に猛烈な意思表示をそれぞれする。「私を連れて行って下さい。忠誠を誓います。」「よし分かった。無理を頼むよ。」学閥、地域閥に加えて、最も強力な新しい閥がこうして形成され、増殖していった。

発令前夜
 人事発令頃に残業をしていると、知事の別の非公式の庁舎の問面にある会館の執務室が明々と電気がついていることがある。ベテラン職員曰く。「異動は明日かも知れないなあ。」知事の最終決裁が行われているためだそうだ。さらに、事情通が言うには、「幾ら人事は知事固有の権限と言っても、配慮しなければならない所も多々ある。」「例えば出先の異動では、関係市町村組長の了解が必要である。」「選挙で世話になった業界・県会議員の意向を組み入れないといけない。」「個人的に親しい方々の依頼には万が一の漏れが有ってはならない。」等々である。
 そう言う所には知事自らが電話して「了解を求め」、或いは「恩を着せる」作業がそこで行われていると言う。別の執務室での作業を勘案すると「政治と行政」が区別されていると言うことかも知れない。それよりも人事異動は「公私の産物」であることが分かる。その了解が「めでたしめでたし」で上手く行けばそれで終わりであるが、そうでない時には一騒動起こる。一部手直しをその日の内にしなければならない。

人事異動表
 読み上げが終了すると、人事課で「異動表」の配布が各課に行われる。全て手作業なのであるから、とても各課の「出入り表配布」なんてサービスは全くない。一般職の異動表は、それぞれの職員の異動よりも重要な仕事がある。各課の総務は点検しなければならない。漏れがないかどうか、重複がないかどうか課の人数が合わないとか、有るべきポストが行方不明などである。万が一の間違いを疑っていかなければならない。その様な時には、早速人事課に問い合わせをしなければならない。何しろ大量の人事異動であっても当時は電算機の助けを借りる訳にはいかない。
 その異動表であるが、と言っても異動表だけではないのであるが、ガリ版と謄写版で印刷されたものであった。同文が5枚以下なら、カーボン複写、それ以上必要な時は、ガリ版と謄写版で印刷した時代である。青焼きコピーは有ることはあったが、未だ未だ普及はしていない。だからガリ切りは今のパソコンと同じ様に職員の基本的な技術で、「さいら」が初任者研修を受けた前年まで、「ガリ版切り」の実習研修があったそうだ。ときたまであるが、どうも原紙を明らかに継ぎ接ぎしたり、ある人の氏名だけ筆跡が違うなんてこともあった。最終段階でトラブッタことは明々白々である。多分本当の最終で、知事の意向が意に反して通らなかったためであろう。予定稿の変更を人事課は余儀なくされる。その異動表を見て事情通は「まあ仕方がないか。知事も政治力が未だ無いんだ。」又或る事情通は「人事の隠れ担当の○○が根回しをしていないからだ。知事も気の毒に。」これを聞いていると、知事派・反知事派が職員の中にも存在することが明確に理解できる。今なら、たとえそんな事態があったとしても、電算処理されるのでその証拠の痕跡すら見出すことが不可能である。何となく昔の方が人間らしくて懐かしい。

辞令交付
 今は、一般職員の辞令は旧所属長から受けることになっている。しかし当時は辞令交付はお祭り騒ぎであった。何しろ、一般職員の単なる配置換えであっても知事が一人ずつ丁寧に手交した。地方にいる職員は知事の顔などこの時以外は見ることがないし、殆ど出張する機会がない職員もいる。異動の内容は別にしてそう言う職員に喜びを与える点では効果がないとは言えない。ただ、その費用も相当なものになったと想像している。当時は県内とは言え、海岸線500キロ近くて、県庁所在地が北の外れにあるため遠方の出先機関では辞令交付のためだけに旅費規程に基づく、一泊二日の旅費が支給された。下手をすると、グリーン料金さえ付く。尤もこれは人事課が支給するので現課では何等問題はなかったが。
 有り難く、畏まって頂く辞令であるが、当時はワープロなんてものは無かった。しかし、辞令となるとそれなりに見かけの重みを必要とする。タイプ打ちと言う訳にも行かない。異動表の様には行かない。氏名などは毛筆で書いてあった。人事課は大変だと思った。しかし、これも便法があった。勿論これも事情通の話であるが、庁内の庶務をしている毛筆の達筆な女性職員が一週間ほど前から駆り出されとある部屋で、彼女たちは、人事課に示された予定稿に基づき、人事課の監視下で、せっせと達筆な字で辞令書を作成する訳である。と言う訳で、勿論箝口令は引かれているが、親しくなると、阿吽の呼吸で事前に聞き出すことも可能である。特段のコネもない「さいら」にとっては人よりも少しでも早く知ることは密室で、一応秘密裏に行われる人事では若干の自己満足になる。それに、異動の大体の日にちが分かる。そればかりが理由でないが、庶務の女性職員と仲良くなることは職員としての非常に重要な素養であったのは間違いない。

赴任期間
 当時の特徴はもう一つある。「内示」がなかったことである。人事課が異動を読み上げた正にその日付けで発令され「異動」することになる。何故「内示」がなかったのかその理由はよく分からない。多分「内示」の捉え方が今と違っていて、発令までに時間をおくと色々とトラブルが発生する恐れがあったためであろう。と言っても、
赴任期間は一応一週間以内になっていたので、引き継ぎ実務は上手く行くことは行く。しかし内示がないことは時々変なことが発生する。
 その赴任期間中にどうしても稟議しなければならないことも暇な役所であっても無いことはない。赴任期間中事務をストップすることが出来ない本当の急ぎの場合もないことはない。その様な時に便宜的に、旧担当者が新担当者の名前を借りて、稟議書を作成することになる。或いは、稟議の日にちを数日遡って異動前にすることもある。或いは直接の上司が借名することもある。何れにしても何処かおかしい話であった。
 赴任期間というあやふやな制度は人によって色んな利用の仕方がある。一番要領の良い職員は異動発令の前から自分が異動することを察知して、「引き継ぎ書」を早々と作成している。発令を聞くやいなや、待ってましたとばかりに、新担当者と新職場の旧担当者に電話する。事務引き継ぎ日程の打ち合わせである。それが終わると直ちに帰宅する。「いても席がない。」がその理由である。制度的には尤もなことである。結局その職員は事務引き継ぎの日だけ出勤して、後は、自宅か何処かでやむを得ず優雅に「有給休暇」を過ごす。出勤簿には後ほどかためて押すことになる。
 又こんなこともあった。「さいら」の最初の異動の時である。決して不当な異動ではなかったが、そしてある時点での「さいら」の意向が最大限利用されたこともあって、その異動に正直不服であった。車の免許講習中を良い口実にして、赴任期間後も約2週間赴任しなかった。その間、新所属の総務からは問い合わせがあったそうだ。
「いつ頃赴任してくれますか?」「さあ、未だ実地試験が・・・」とか行ってくれていた。誰から見ても「不服」であったのは確かである。そうこうする内に、遂に課長から直接電話があった。「もうええ加減に赴任してくれませんか?」「格好が付かん」「所属も、机も、担当も、そして、下宿手配も全て終わって、赴任を待っている。」言い方は婉曲的だったが、相当怒っている様であった。それを聞いて徐に赴任したことは言うまでもない。そして以降、「さいら」の人事は特別な配慮をされた。
少々の抵抗の効果はあった。

これにて、「昔の人事異動風景」は取りあえず終了です。

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