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高齢者になっても、ヒマ・ひま・暇やはり暇

高齢者「さいら」ブログ。リタイヤーから、晴れて高齢者の仲間入り。店名をマイナーチェンジ。内容は以前と同様雑他。

ゴミについて

2005年09月07日 | 外なる話題
ゴミについて(2005年9月7日)
始めに
 ゴミについて最近気になるようになったのは、朝仕事に出かけることもなくなり、妻がゴミの分別をしたり、出しているところを見たり、ゴミ収集車を見たりする、ブログの名前の通りの毎日暇に過ごしていることが最大の要因です。「さいら」のブログも少しは社会性を持った話題も有っても良いのでは?と思ったことも有ります。ここで話そうとするのは次ぎの様な項目ですが、これから記事を作るので、少々変更があります。大体の計画では、5回ぐらいになるかと思います。今日はとりあえず「始め」にです。
 私が小さい時には、確かに「ゴミ」の量が少なかった。これはよく言われることですが、一度当時の様子を思い出します。出来れば、ゴミが増えた原因にも触れることが出来ればと思います。
 次に現在のゴミ収集の特徴であると思う「分別収集」と「資源ゴミ」について思うところを話そうと思います。実はこの部分は分別された資源ゴミがその後どうなっているのか全く知らないことに原因がありそうです。
 更に、私どもが最も目に付きやすい「ゴミ集積場」、「ゴミ収集車」に進もうと思います。この部分は多少批判的になるかも知れません。ここは法的にも疑問を感じ、コストでも疑問を感じている部分です。
 最後に、「海のゴミ」です。日頃思っていることを話そうと思います。他にこんな話題もあると教えて頂けると嬉しいです。特に今回は予備知識のための本を読んだりしないで進めようと思います。極表面的な話に終始します。又、間違った思いなどが多いと思います。その時には「間違っている」と教えて頂けると嬉しいです。参考になりそうな書籍・法律等が有ればその都度、教えて頂けるとこれも嬉しいです。

幼少の頃のゴミ
 昔々、多分週に一回程度でしょうか。大型トラックでゴミ収集に来ました。今の収集車と全く違う普通のトラックです。各家にはもう今は有りませんが「石炭箱」にゴミを入れて、その日に玄関に出します。その量は精々一家につき石炭箱の三分の二位の量です。ゴミ箱は各家庭のものであり、ゴミ回収者は、そのゴミだけをトラックに入れて、ゴミ箱は置いて帰る。ゴミ箱も再利用されているのです。
 京都という特殊性か、母親が料理を作るのが余り好きでなかった故かも知れません。魚屋は、店の前に魚を並べて売っている店も勿論ありましたが、魚を並べて売るのではなくて、外からは魚屋であることが分からない魚屋もありました。「仕出し屋」的魚屋です。朝ご用聞きに来て、晩になると皿に料理済みの魚を綺麗に盛り付けて配達してくれます。今のスーパーも「出来合い」という点ではそれに近いと言えますが、違うところは、皿は勿論魚屋さんが回収することです。野菜・果物・漬け物・肉等の買い物は「買い物籠」を持参して、買いに行きます。「買い物籠」持参は今スーパーで奨励されていますが、少し違います。朝は近所の漬物屋へ行きます。これは毎朝「さいら」の仕事でした。夕方になるとその夕食の材料を買いに行きます。
これは母親の仕事でしたが、良く一緒について行きました。これも毎日です。そう言う店では包装は大体新聞紙です。トレイは「フネ」と言っていたと思いますが、木を薄く削り取ったものを「舟形」にしたものです。今の「たこ焼き」のトレイに近いです。毎日買い物をするのは決して「さいら」宅が「その日暮らし」の生活をしていたからではありません。普通は皆さんそうしていました。百貨店や有名な菓子店では綺麗な包装紙に包んでくれます。これらは大切にと言うほどではありませんが、置いておきます。お菓子を遊びに来た子供達に、器代わりにと言うか半紙代わりに、出すときにそれを使います。豆腐類は売りに来ますと、鍋を持参して買います。容器は「瓶」です。牛乳・醤油・酒等の液体用の容器は全てリサイクルされるか、量り売りのための「瓶」です。「缶」であったのは「缶詰」くらいです。これは重要なことだと思いますので、後々触れることがあるかと思います。
 着物とか浴衣はその生地を取っておきます。結構「端切れ」の生地は便利です。浴衣時は最終的にはおむつになったように思います。再利用というと、「さいら」の小さい頃は「灰」を回収に来る人が未だ居ました。大八車が撓うほどの灰を乗せて「灰ヤー!灰!」らしき声をかけながら、灰を回収するのです。間違っているかもしれませんが、媒染剤に利用したとか。近くに、「鉄屑屋」がありました。近くの小さな川では、イカキで川の底ざらえをしています。京都市内ですから、ガスはありました。煮たり焼いたりの総菜にはガスを使用していましたが、飯を炊くのは「薪」でした。不要な紙類等は「火を熾す」時に使います。色んな理由で、ゴミの量が少なかったことは確かです。そして、「ゴミ問題」も無かったと思います。
明日はゴミが増えた理由を検討します。

ゴミが増えた理由<1>
 単に消費生活が豊かになっただけではない。生活が豊かになったために、全体的に消費が増えて、その分ゴミが増加したことは充分考えられます。しかし、人一人が食べる量・飲む量は、幾ら生活が豊かになっても、トータルとして10倍も変わることはないと思います。ベースに消費生活の豊かさが有っても、「自然増」ばかりで納得して、片づけられないことがあります。
 消費生活が豊かになっていくプロセスを垣間見ながら、検討して見ようと思います。それは、(電気)冷蔵庫が家庭に入り、スーパーが出現したことがその理由として考えられます。この二つで食料品等の買い方に大きな変化が出て来たと思います。
冷蔵庫の普及で、纏め買いが出来るようになったこと。だから、取りあえず買っておこうの購買行動があること。丁度その頃我が国でも車が普及し始めて、これに拍車を掛けます。しかし、これらの要因は通常ですと、購入の一単位(一パックの大きさを言っています。)が大きくなるはずですが、日本では、必ずしもそうはならなかった。本来、冷蔵庫が普及し、スーパーが出来ると、まとめ買いが出来て、一単位が大きくなるはずですが、日本ではそうはならなくて逆に単位が小さくなったと思う訳です。例えば、昔、買うときの単位は、「100匁」が単位でした。今で言うと約400グラムです。しかし、今売っているパック詰めの食料品はそれよりも少ない「100グラム」単位ぐらいでパック詰めされているだろうと思います。ビールも「一口ビール」のようなものもあります。最小の単位が小さくなった理由ですが、それは、一つに、一家族の人数が少なくなったことが考えられます。大家族から小家族への変化です。飲み物でも、家族それぞれの好みの飲み物を買う。正に生活が豊かになったことが、日本人好みの「繊細さ」を助長して「多品種少量買い」になったのではないかと思っています。
 しかし、この現象はそう言う消費者行動だけではないように思えます。スーパーでは基本的に対面販売でないためにどうしても、「パック」を使わなければならないこと。量り売りが殆どないことがが考えられます。さらに、「パック」にすること自体にも「多品種少量パック」の要因があると考えています。対面販売でないために、お客はそのパックだけを見て購入することになります。多種多様なお客の自由度にに合わすために「多品種少量パック」を取りそろえなければならない。お互いの商品の「差別化」です。それはスーパーの戦略であろうと思う訳です。
 化粧品は今でも「対面販売」が主流です。それは、販売員の説明をよく聞いて、肌に合って、写り映えがする化粧品を選ぶ消費者行動があるからだと思います。その日の気分とか体調によって、色合いを変えたりはすると思いますが、昨日は「ポーラ」だったから今日は、「資生堂」で、と言う具合にはなりにくいと思います。化粧品の項は間違っているかも知れません。
 どうもこのように見ると「みんなでゴミを増やそう」運動をしているのではないかと思ってしまいます。一パックの単位が小さくなった。そのために包装も多くなったと考える訳です。その結果として、パックとか包装紙の増加がゴミの増加に繋がったと考えます。
 明日はゴミが増えた理由のその2です。パックとか包装紙の質の問題になります。

ゴミが増えた理由<2>
 各家庭では全く利用の方法がないし原型を利用することもない。昔の話でも触れていることですが、再度幾つか例を挙げてみます。昔は各家庭の暖房は「火鉢」でした。飯を炊くのは竈でした。どちらの場合も毎日「火を熾す」ことが必要になります。又、火鉢には新しい灰を補給しなければなりません。今はガスと電気で全て出来ます。灰も必要有りませんし、「火を熾す」こともありません。マッチすら必要が無くなっています。特に最近では、ダイオキシン等の問題があって、各家庭で燃やすことは出来なくなっています。
 そう言う訳で、燃えるゴミを処理することが各家庭では無くなった。それも一つの要因です。しかし、所謂一般ゴミは現在のゴミ問題から見ると、大きな問題ではないと考えます。むしろ、直接その商品と関係がない容器・トレイ・袋等が課題であると考えています。瓶に変わる容器は今はペットボトル・缶等です。これは全く各家庭で利用方法がありません。精々、猫が来るのを防ぐために、ペットボトルに水を入れて、庭に置くぐらいのものです。それさえも、効果があるのかどうか分かりませんし、レンズの役割を果たすので火事のもとになるとか言います。ですから、「資源ゴミ」として出さざるを得ない訳です。そこが、大きく異なっているところです。昔は、ビール製造会社が、その需要期に生産を上げるために、重要なことは、新しい生産ラインを作るのではなくて、如何にして他社よりも多くのビール瓶を回収するかでした。
 余談ですが、コカコーラの瓶の形状は変遷して、現在のものに落ち着いています。そこには、あの珍味な風味のコカコーラを売るために「男性が男性らしくラッパ飲み出来る飲料」のための開発の小歴史でした。
 瓶ですと、それは資源ゴミとして出すのではなくて、購入した店へ、それぞれ持っていく訳です。記憶が定かではありませんが、牛乳瓶は確かいくらかの値段で引き取ってくれました。今の資源ゴミと大きく違うのは、これは単に「さいら」の言葉の感じだけかも知れませんが、瓶は「使い回し」で有ったのです。そして、その原型を壊さないことが重要であったのです。現在のスタイルになってきたのは勿論、製造技術の進歩(環境に優しい容器を含めてですが)に伴う製造コスト・流通コストなどを勘案した結果で、消費者がその恩恵を受けていることは否定しません。しかし、そのコストという点では落とし穴が有るように思えます。ゴミとなりますと、コストを考える必要がない行政機関である市町村が関係してくるからです。そして、消費者もそのことを引きずって、商品価格の中に含まれている「ゴミ」成分(勿論回収に要する費用も含めてですが)のコスト意識がなくなっているのが現状であると考えます。
 今日の話を纏めますと昔は原型を壊さないことゴミとして市町村を通すことなく、独自のルートを持っていたことこの二点が現在と違うところであると考えます。

 明日から月曜日まで、所用で自宅を離れます。その間、更新は不規則になります。
ゴミは来週の火曜日位から再開することになります。


番外:懐かしい方(2007年6月12日)
 この方をご存じでしょうか?と言っても、左側の男性ではありません。昨日の夕刻、テレビ番組「ムーブ」を見ていた。その時、この方が出演されていた。懐かしい方である。左側の男性が先週その番組で「リサイクルなんて有害・無駄だ。」と言う様な論陣を張られて、それに反論するべく番組に出られた。松田美夜子さんと言う。

 ご存じの方もおられると思うが、松田美夜子さんは今ほど環境・ゴミそしてリサイクルの必要性が言われない頃から地域でこの問題に取り組んでこられた。「研究の前に実践有り」の環境・ゴミ・リサイクルの「実践的専門家」である。政府の委員もされ、著書も何冊か出版されている。環境問題では全国的に有名な方でもある。
 数年前に和歌山の田辺で講演された。その時は退官されたご主人と一緒であった。ご主人は専門分野では著名な学者である。ご主人と一緒に来られたのは「さいら」を夕食に誘うための心遣いであったろう。三人で楽しい一時を過ごさせて頂いた。
 実は、ご主人は「さいら」の卒論指導教官であった。丁度その頃、お二入は結婚された。お披露目は、お二人の意向もあって講座の者が取り仕切った。一番若くて、未だ学生だった「さいら」は相当羽目を外して企画した。人数は少なくささやかながら賑やかに心からみんなでお祝いした。ご主人のお父様が「こんな筈では無かったのに・・・。」「みんなに迷惑を掛けて・・・。」「二人がそうしたいというので・・・。」の言葉は親の気持ちを理解できる年齢になった時に漸く分かってきた。
 その後、ご主人の転勤に伴い、東京の方へ行かれ、その地で主婦をしながら、リサイクル・環境に取り組まれた。それにしてもお若いのに驚いた。この記事はプライベートなことに立ち入りすぎたと思っている。迷惑を掛けてしまったのではないかと心配している。


分別収集と資源ゴミ
 「分別」ゴミ収集は何処でも行われる様になっています。住民も最初の頃は戸惑いましたが、現在では定着しています。ゴミの分類方法は各自治体でそれぞれのようですが、「資源ゴミ」、「一般ゴミ」及び「粗大ゴミ」に大きく分けることは大体の自治体で共通していると思います。分別の理由がそこにあるのですから当然です。然し市町村によって微妙なところで違っています。その違いがどの程度であるのかは気になっていました。和歌山市の話ではないのですが、和歌山県の或る市の話です。実はその市長さんはこの前の市長選で落選しました。勿論他にも現職が落選するにはそれなりの理由が有っただろうと思いますが、ゴミの分別が争点の一つになったと言うか、政争の種となり、足下を掬われた結果になった訳です。その地元の人に聞くと、「大まかな分け方は何処でも同じだろうが、その細分が面倒で、細分を入れると『23』に分けなければならない。理屈ではそうかも知れないが、出す方から言うと『所詮ゴミであって、家庭に要らないもの』のために何故そこまでしなければならないのか?」と言う様な話であった。或る意味では説得力がある話です。
 偶々、金曜日から神戸へ行きました。そこでも、冷蔵庫に分別の仕方のパンフレットが貼ってあった。それを見ると、やはり微妙なところで我が市と違います。と言っても、私がゴミの分別をしている訳ではないが。ここでは、微妙なところで分別方法が違うことを話して、どちらがよいかについての評価は避けようと思う。
 ゴミを入れる袋は、神戸市では単に「ポリ袋」であるが、我が市では、「指定ゴミ袋」若しくは「規格にあった買い物袋」になっている。まず、収集されたゴミの処分を考えると、所謂リサイクルに廻る「資源ゴミ」と「一般ゴミ」がある。その一般ゴミはここは多分としか言えないのであるが、「焼却」するか「埋め立て」するかの二つの方法があると思う。和歌山市では「一般ゴミ」として燃えるゴミも燃えないゴミも同じ収集日で、特に袋も区分する必要がない。一方、神戸市は、燃えるゴミと燃えないゴミとが収集日が異なっている。この二種類のゴミは違う範疇になっている。次ぎに、資源ゴミであるが、その中身は「缶」、「ペットボトル」、「瓶」、「布・古紙」等である。神戸市では、「布・古紙」は別になっているが、「缶」、「ペットボトル」、「瓶」は特に区分をされていなくて、同一収集日で、袋を分ける必要もないのである。一方、和歌山市では、「缶」、「ペットボトル」、「瓶」、はそれぞれ別の収集日になっている。混合してはいけないことになっている。大型ゴミは、神戸市では二つに分かれている。「粗大ゴミ・金属ゴミ」が一括りになっていて、同じ収集日であるが、「大型家具・自転車」などは電話による申し込みになっている。一方、和歌山市ではどちらも「粗大ゴミ」になっていて、葉書で申し込むようになっている。神戸市の「大型家具・自転車」が別になっているのは「リサイクル工房」へ行くことになるからであろう。ここでは評価はしないが、何故その様な微妙な差が生じるかは知りたいところである。例えば、それぞれのゴミの種類の総量で市町村に差が有る結果なのか?ゴミの処理施設に違いがある結果なのか?人件費を含めたコストの違いであるのか?市町村はその違いを検討しているのか?要は、各市町村の分別方法の差に合理的な理由があるのか?どうかである。

ゴミ集積場
 神戸市では「クリーンステーション」とされているが、和歌山市では、パンフレットで見る限り「決められた場所」とされており、正式な名称が分からないので、便宜的に「ゴミ集積場」と言っておく。我が団地のゴミ集積場である。ゴミ集積場の設置場所は空地の角と言うのが大体の場所である。袋に入れたゴミは「野積み」にされている。偶々その日は「一般ゴミ」の収集日に当たり、ゴミの量は多い日である。小さな立て看板が見えるが、それにはゴミの種類ごとの収集曜日が書かれている。手箒とちり取りがあるが、これは誰かがそこに置いているものであり、汚れていると思うと適宜誰かが掃除をする。自転車が見えるが、これは放置自転車である。この数ヶ月置きっぱなしになっている。これはごく一般的なゴミ集積場の姿である。
 ここでは、その状態が良いとか悪いとかの話をしようとしているのではない。ゴミ集積場の性格である。この集積場は法的に「誰の管理下」にあるのか?市の管理下にあるのか?自治会の管理下にあるのか?それとも誰の管理下でもないのか?どのようなプロセスを経て、そこが集積場になったのか?何か定められた手順があるのかどうか?勝手にそこへゴミを持って行っているのではないことは確かである。ゴミ集積場のゴミは誰のもの?
 前日の「ゴミ集積場」の管理の話と同じ様であるが、今一度、ゴミ集積場を観察してみよう。和歌山市では資源ゴミの「缶」、「ペットボトル」及び「瓶」はそれぞれ別の日に収集されることは触れた。「缶」の収集日である。7時頃になると、民間の回収業者というのか、得体の分からない業者・個人が、その「缶」を収集するのである。それも1台や2台ではない。そして、見るからに品質が良さそうな袋、缶ビールが多く入った袋、中を洗浄した様に見える綺麗な袋、を持ち去るのである。そして、市の収集車が来る頃には、袋は殆どなく、有っても、きちんと仕分けされていない、洗浄されていない袋が残るのである。これは「官が一部の民に便宜を供与している」のではないか?そこで、「ゴミ集積場のゴミは誰のもの?」と言う疑問が出て来るのである。
 「泳いでいる魚は誰のもの?」と言う話がある。実はこれははっきりしている。「誰のものでもないのである。」勿論、釣り堀や、養魚場の魚を言っているのではない。普通に海や川で泳いでいるさかなである。誰のもでもないので、誰が捕っても自由である。捕ったその瞬間に、「捕った人のものになる」のである。それが原則である。ゴミ問題に詳しい知人に聞いたところ、その人は「市町村のものです。」と言い切った。本当にそうであろうか?
 古紙などの収集は実は逆のことが起こっている。昔は「ちり紙交換車」が土・日曜日に入れ替わり立ち替わり、来ていた。古紙の価格が下がって、「ちり紙」はくれなくなったが、分別収集が始まる前には、回収業者に渡していた。今も時々「古紙回収業者」が来るが、出す人はいない。これは「官が民を圧迫していること」にならないか?
 実際のところ、これらは誰も損をしないことであるので、考えることもないし、考える必要も無いことであるが、ゴミについて考えるときには一度は整理をしておきたいと思うのである。

ゴミ収集車
 和歌山市内はゴミの収集は二系統有りそうです。一つは、市直営の、市職員が収集する方法。もう一つは、民間に収集を委託して、民間が収集する方法です。量的には、市直営が圧倒的に多い様に見えます。その二つを比較するのです。まず、回収車は市直営が大体立派というか、新しいのに比較して、民間の回収車は、何処かの市で使用していて、廃車になったものを購入した様な古い車です。市直営は運転士を含めて、3人で来ます。民間委託は運転士を含めて2人です。単身赴任先の串本ではほぼ民間委託で、やはり2人で来ます。市直営は皆さんキチンとした制服ですが、民間委託業者はそうではありません。3人で来る理由は全く違ったところにあるのかも知れませんが、見かけ上は何故3人必要なの?と思ってしまいます。缶の収集日なんかは、運転士ともう一人は冷房の効いた車の中です。ゴミの回収は、移動時間が長くて、実際にゴミを車に入れる時間はそんなに多くありません。勿論二人よりも三人の方が、効率はよいでしょうが、素人には、そんなに違う様に見えません。実際のところ、その様な計算をして3人になっているのかどうかも分かりません。民間の二人と市直営の三人とが合計で計算すると、同じ位の人件費になるのかも知れません。いずれにしても「コスト」の問題は根が深く難しい課題であると思っています。

ゴミについて私の考え方
 この回で、第一回目のゴミシリーズは終わります。暫く、資料収集などをして、もう一度検討して再度最初から考えてみようと思います。
【制度について】
 実は、このシリーズを始める前に市のホームページを見たのですが、ゴミに関する記事は皆無に近かったことがあります。市民にとって一番身近なことですが、今持って不思議な感じがします。コメントで触れていただいた法律・条例については一度調べて、理解できないところは又お尋ねしようと思います。

【ゴミの減量方策】
 ゴミ処理のコストを下げることは重要ですが、その前に検討しなければならないことが有る様に思います。ゴミの減量方策です。消費生活が豊かになった現在、ゴミを減量するための方策はなかなか見つかりません。単に消費者の意識向上に頼るのでは効果がないと考えます。強引な方策が必要であろうと考える訳です。そこで一つ提案をします。例えば、ペットボトルに入った「水」を買うとしましょう。水が入ったペットボトルは「水そのもの」と「容器」に分けることが出来ます。それらを合わせて、価格が決められる訳です。しかし、容器は飲むことが出来ません。他に直接的に利用することも現在では出来ません。利便性は勿論ありますが、消費者から見ると、利用できなものも合わせて購入していることになります。現在では、その無駄である価格が幾らであるかは、消費者は分かりません。そこを消費者に知らせることが必要であると考えます。全ての品物に「利用できない部分」の価格(費用)を明示することです。ジュース一缶120円だとします。その缶の費用、全くの想定の数字ですが、が50銭であれば、「正味価格:119円50銭」「ゴミになる部分:50銭」を明示することです。そうすることにより、買い物をするときに、合わせて無駄のものを購入しているんだと実感できます。マメな人であれば、一ヶ月のその利用できない費用を計算するでしょう。或いは「要領当たりのゴミになる部分」を計算するでしょう。それを高いか安いか感じるのは、別ですが、確かにゴミになるものをお金を出して購入していることが明白になります。そのことによって、消費者行動に変化が出て来ることを期待する訳です。これは、より安価な容器を商品に用いる製造者の動機付けになると考えます。

【費用負担】
 家庭ゴミと言えども、その排出する量と質により応分の負担をすべきであると考えます。最近は、テレビ、エアコン、洗濯機、パソコン等は廃棄するときに「リサイクル料金」が必要です。家庭ゴミについても、何らかの仕組みが必要であると考えています。又、役所の業務全てが利用者負担がないのでは有りません。例えば、住民票を貰うにしても、美術館に行くにしてもそれなりの対価を必要とします。ゴミも同じです。ゴミだけが何故「無料」なのでしょうか?ただ、ゴミの場合はその費用を徴収するのに技術的な課題があります。利用者負担が出来ないのはその点だけだと考えます。そこで、次の提案になります。先ほどの「ゴミになる部分」の費用を明記するのと同様に、「その容器等のゴミ部分を処理するのに」必要な経費を明示する訳です。
その費用は当然、収集から最終処分までの経費を含めた額になります。焼却炉を建設した場合その建設費も含めます。回収に従事する職員の人件費も算入します。全てです。分別種類ごとに計算された総額をゴミの量に応じて計算します。そして、その品物に応じた処理費用を商品に明示します。ここは個々の市町村と言うのではなくて、平均的な算出でよいのです。生産者か最終売り手の段階で、その額を徴収する訳です。もう少し具体的に言いますと、生産者から直接「全国基金」のようなところに納入します。市町村はそのゴミの種類に応じた処理量に見合う額をその基金から貰う訳です。ペットボトルの再生工場には、業界から某かの推進費用が支払われています。このような曖昧なものでは無いのです。

【コスト】
 コストの問題は、会計制度と公務員制度とに密接に関係していると考えます。ゴミ処理が一般会計で行われているのか、特別会計で行われているのか今のところ知りません。特別会計を導入していても、赤字になれば「一般会計」からの繰り入れをします。いずれにしても、役所の会計制度では基本的に「コスト」を考えません。逆に言うと「コスト」・「効率性」が問える分野は「民間」に任せることが必要です。勿論、個々のケースでは職員の方は「コスト」に関心を持って、少しでも安くと考えているのですが、そう言う努力は些細なことであると考えています。例えば、リストラが出来ません。これは制度上の話です。ゴミ焼却炉を建設します。しかし、それは額と耐用年数にかかわらず、減価償却はしません。企業会計で言うと「費用」であるわけです。さらに、簿価としては「建設時の価格」がそのまま記載されます。その点では「費用」とも言い難いのですが。常識外れの会計制度であることは間違い有りません。そう言う環境で、厳密に「コスト計算」が出来ないし、「コスト削減計画」を作成しても抜本的になりません。その様に考えると、「ゴミ処理民営化」が必要です。「費用負担」もそこから出て来ます。以下は技術的な話です。

【分別収集】
 現状から見ると、分別収集に依らざるを得ないと考えます。「現状から見ると」という意味は最初の稿で話しましたが、容器類は「リターナブル」(この言葉は今回初めて知りました。)で有るべきだと考えます。然しそれに復帰するのは困難を伴います。又、どちらが安くつくかと言うこと、流通経費等を考えると、現在の知識では判断が出来ません。分別方法は、やはり簡単な方が良いと考えています。単身赴任時代の串本では、極小さな切れ端が「どの分別になるのか?」迷っていました。それに、分別を細分化しても、分別外のゴミが混入するのは避けられないと考えます。
 分別収集が資源の再利用に繋がっていることは重要なことです。特に原材料が原油等の限られた資源(必要な電力も含めてですが)で有ることを考えると、単にコストだけの合理性の話では済まないと思います。キチンと「国内でリサイクル」することは大切です。

【集積場・収集】
これらについても、もう少し合理的な方法が有る様に思います。効率の良い集積場。効率の良い収集車運営等です。しかし、それらについては現状の市直営である限り余り期待していません。直営と外注とでは外注の方が安く上がります。実はそれだけでは有りません。直営だと、お互いに広い意味で同僚です。実際問題として、言いにくいことは言えません。外注ですと、契約関係になります。その方が、無理が利きます。勿論契約の中での話です。



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