お断り
この一連の記事は一度投稿したものですが、若干加筆・訂正などをして再掲するものです。
ジャスミン革命
チュニジアは最近(2010年から2011年)「ジャスミン革命」があって、旅行に行った今年の1月でも社会不安が憂慮された。旅行会社の案内でも、必ずしも安全とは言えない旨の外務省情報が添付されていた。パックツアーを企画していた我が国の旅行会社も当時は一社のみであった。他の旅行会社は二の足を踏んでいたのであろう。それで、チュニジアの中では何処へ行っても(出発地に関係なく同じ系列であると同じようなコース・ホテルになることが多い。)その旅行会社の団体とかち合い、他の旅行会社のツアー客は全く見られない状態であった。我が国以外の観光客は元々シーズンオフなので、殆ど見受けなかった。連泊の時などは、その会社の東京・名古屋・関西のグループ・次の日程のグループが一緒になり、大変賑わっていてその旅行会社の貸切状態であった。その分、旅行代金も安く、旅行会社は大儲けをしたのではないかと思っている。
バスの中で、添乗員からこのジャスミン革命の説明が有った。これは確か現地案内人の説明を介してではなかった様に思う。ジャスミン革命は中東へ波及して「アラブの春」と言われるが、中東でのこの「ジャスミン革命」の波及はまだ収まっていない。発生元のチュニジアでは早々に解決したが、例えば、エジプトではまだ政情不安が続いている。さすがのチュニジア旅行の先陣を切った旅行会社もエジプト旅行の企画は未だ再開されていない。
街の中
行く前は相当不安感があったことは確かであった。知人・親戚から「どうもないか?」と心配もされた。皮肉たっぷりに「他に行くところはないのか?」とも言われたりした。「どうもない。」と胸を張って言ってはいたが、内心はやはり少々不安であった。しかし、実際に到着して、街の様子を垣間見ると平安そのものであった。ただ、場所によっては不穏なところもあるそうで、時にはチュニスから少し南のケロアン方面等の目的地へ行くのに従来の距離の短い山越えのコースを取らないで迂回して行ったようだ。山越えの道路は車の通行量が少なくて、万が一に襲撃される恐れがあるらしい。そのために若干の時間の遅れがあった。現地案内人からそのような説明を受けて、そのような説明が出来る程度に安定しているように思った。
大都会のチュニスのホテルの前の大通り(確か、フランス通りとか言ったように記憶している。)では警察署の前に武装した警官・軍人が立っていた。又、あっちこっちに、鉄の鎖で閉鎖されているところもあった。その閉鎖されているところは見るところ国とかの役所のように見受けた。確か、スースのメディナの中はパトロールカーが数台常駐していて物々しい警戒がなされていた。全体的にそれなりの厳戒態勢のように見えるが、その程度は我が国でも良く見る風景である。メディナは騒動を起こす側にとっては起こしやすいし、逆にそこへ閉じ込めてしまえば、少々迷路的であっても取り締まりも簡単である。メディナの効用と言うか攻防をふと考えてしまった。まあ、街の中のあっちこっちのこのような風景は平和ボケの日本人には気にならないと言えばウソであるが、さしたる不安感を募るようなことはない。
写真はチュニスフランス通りである。
余りきっちりと映っていないが、朝の警察署である。かすかに、よく見ると、左下に見える鉄の鎖で一般市民から隔離されている。
写真は夜景。

写真は、開店前の喫茶店である。

旧市街地
チュニジア観光のメインの一つは旧市街地メディナの散策である。何回も言うが、今回のチュニジア観光は遺跡・砂漠・メディナに尽きる。考えて見るとこの構成は中々良く出来ている。遺跡は若干の知的充足感を与える。砂漠は自然の大きさを教えてくれる。そして、最後のメディナは「(ウインドウズ)ショッピング」と言う俗世間の好奇心を煽ってくれる。メディナは散策と同時にいろんな商店を言葉が通じないなりに冷やかしながら、そして、時には気に入った小物を買うことが出来る楽しみがある。本当に【小物】である。チュニスのメディナ以外は、その混雑具合も適度であって、「すり」とかに用心しなければならないほどには混んでいないし、散策して淋しい感じもしない。正に『おばちゃん向け』の散策である。我が国で言えば「お買い物ツアー」或いは「お買い物タイム」の感がしないでもない。「お買い物」の状況は別に話す機会もあろうかと思う。主に散策したメディナは大体次の通りである。大きいか小さいかは別にして、昔からの都会が今も残っていると言うことであろう。
ナブールのメディナ
ケロアンのメディナ
スースのメディナ
チュニスのメディナ
又、どうもメディナと言わない様であるが、「白とブルー」の街並みとして有名なシディ・ブ・サイドも散策した。
ここもお店がずらり

街の中の有名な喫茶店らしい。ここでお茶。

日本人の団体旅行よろしくゾロゾロと集まって散策

二日に一回ぐらいの割合で散策したことになる。旅行記と言うならば、それぞれのメディナの光景を描写するべきであろうし、それぞれの特徴も記すべきであろうが、それらは全く記憶していない。メディナを「旧市街地」と訳すのは正しいかどうかは知らない。又、実際に散策したのはどうも旧市街地の中の市場らしい。「メディナのスーク散策」である。チュニジアに限らないが、ヨーロッパでは旧市街地は大体城壁の様なもので囲まれている。外敵の侵入を防ぐ意味合いがあったのか?旧市街地に住居を構えるエリート意識がそうさせたのか知らない。城壁の外に人が住んでいなかったと言うことはないと思っている。生活空間として中と外との違いが身分・財力の違いになるとと¥考えてしまって余り城壁で囲まれた街は私の好みではないが仕方がない。
メディナの特徴は道が狭いと言うことに尽きる。我々が歩いたのはメインストリートである。そのメインストリートでさえも道と言うよりは、両手を広げると向かいのお店に手が届きそうな狭い道である。そこに小さな商店が両側に並んでいる。更にそのメインストリートから路地が張り巡らされている。その路地の建物は住居なのであろうか?あまり商店が有って、賑わっているようには見えない。取りようによっては「怪しげ」な感じが漂っている。昔々の純漁村は、店は余りないが、そうであった。狭い道に店が並ぶと言うと京都の「新京極」の様な感じである。今住んでいる和歌山で言えば「ぶらくり丁」(と言ってもご存じない方が多いと思うが)に当てはまることになるのであるが、残念ながら「ぶらくり丁」は寂れてしまい、全く人通りがなくていわゆる「シャッター通り」になってしまった。
或る時は店が未だ開いていない早朝から訪れ、或る時は丁度散策して、色々と物色するのによい時間帯である場合も有った。
その早朝にオレンジを売っているおじさんがいた。誰かがそのオレンジを購入した。そのオレンジのおじさんは「秤」を取りに車へ行った。まだ完全に売る準備万端整っていない時間帯であることを改めて知ると同時に、売買の単位は「キロ」であることを知った。
売っている品物は実に雑多である。何でも売っていると言うのが良いのであろう。メディナの中の店は大体外国人用の土産屋かと思っていたが必ずしもそうでもない。
三枚の写真は早朝訪れたケロアンのスークである。文章中のオレンジを売っている写真も入っている。実は一般的にこの屋台風の店は営業を禁じられていて、取り締まりが行われ、それがジャスミン革命の発端となった。



この一連の記事は一度投稿したものですが、若干加筆・訂正などをして再掲するものです。
ジャスミン革命
チュニジアは最近(2010年から2011年)「ジャスミン革命」があって、旅行に行った今年の1月でも社会不安が憂慮された。旅行会社の案内でも、必ずしも安全とは言えない旨の外務省情報が添付されていた。パックツアーを企画していた我が国の旅行会社も当時は一社のみであった。他の旅行会社は二の足を踏んでいたのであろう。それで、チュニジアの中では何処へ行っても(出発地に関係なく同じ系列であると同じようなコース・ホテルになることが多い。)その旅行会社の団体とかち合い、他の旅行会社のツアー客は全く見られない状態であった。我が国以外の観光客は元々シーズンオフなので、殆ど見受けなかった。連泊の時などは、その会社の東京・名古屋・関西のグループ・次の日程のグループが一緒になり、大変賑わっていてその旅行会社の貸切状態であった。その分、旅行代金も安く、旅行会社は大儲けをしたのではないかと思っている。
バスの中で、添乗員からこのジャスミン革命の説明が有った。これは確か現地案内人の説明を介してではなかった様に思う。ジャスミン革命は中東へ波及して「アラブの春」と言われるが、中東でのこの「ジャスミン革命」の波及はまだ収まっていない。発生元のチュニジアでは早々に解決したが、例えば、エジプトではまだ政情不安が続いている。さすがのチュニジア旅行の先陣を切った旅行会社もエジプト旅行の企画は未だ再開されていない。
街の中
行く前は相当不安感があったことは確かであった。知人・親戚から「どうもないか?」と心配もされた。皮肉たっぷりに「他に行くところはないのか?」とも言われたりした。「どうもない。」と胸を張って言ってはいたが、内心はやはり少々不安であった。しかし、実際に到着して、街の様子を垣間見ると平安そのものであった。ただ、場所によっては不穏なところもあるそうで、時にはチュニスから少し南のケロアン方面等の目的地へ行くのに従来の距離の短い山越えのコースを取らないで迂回して行ったようだ。山越えの道路は車の通行量が少なくて、万が一に襲撃される恐れがあるらしい。そのために若干の時間の遅れがあった。現地案内人からそのような説明を受けて、そのような説明が出来る程度に安定しているように思った。
大都会のチュニスのホテルの前の大通り(確か、フランス通りとか言ったように記憶している。)では警察署の前に武装した警官・軍人が立っていた。又、あっちこっちに、鉄の鎖で閉鎖されているところもあった。その閉鎖されているところは見るところ国とかの役所のように見受けた。確か、スースのメディナの中はパトロールカーが数台常駐していて物々しい警戒がなされていた。全体的にそれなりの厳戒態勢のように見えるが、その程度は我が国でも良く見る風景である。メディナは騒動を起こす側にとっては起こしやすいし、逆にそこへ閉じ込めてしまえば、少々迷路的であっても取り締まりも簡単である。メディナの効用と言うか攻防をふと考えてしまった。まあ、街の中のあっちこっちのこのような風景は平和ボケの日本人には気にならないと言えばウソであるが、さしたる不安感を募るようなことはない。
写真はチュニスフランス通りである。
余りきっちりと映っていないが、朝の警察署である。かすかに、よく見ると、左下に見える鉄の鎖で一般市民から隔離されている。

写真は夜景。

写真は、開店前の喫茶店である。

旧市街地
チュニジア観光のメインの一つは旧市街地メディナの散策である。何回も言うが、今回のチュニジア観光は遺跡・砂漠・メディナに尽きる。考えて見るとこの構成は中々良く出来ている。遺跡は若干の知的充足感を与える。砂漠は自然の大きさを教えてくれる。そして、最後のメディナは「(ウインドウズ)ショッピング」と言う俗世間の好奇心を煽ってくれる。メディナは散策と同時にいろんな商店を言葉が通じないなりに冷やかしながら、そして、時には気に入った小物を買うことが出来る楽しみがある。本当に【小物】である。チュニスのメディナ以外は、その混雑具合も適度であって、「すり」とかに用心しなければならないほどには混んでいないし、散策して淋しい感じもしない。正に『おばちゃん向け』の散策である。我が国で言えば「お買い物ツアー」或いは「お買い物タイム」の感がしないでもない。「お買い物」の状況は別に話す機会もあろうかと思う。主に散策したメディナは大体次の通りである。大きいか小さいかは別にして、昔からの都会が今も残っていると言うことであろう。
ナブールのメディナ
ケロアンのメディナ
スースのメディナ
チュニスのメディナ
又、どうもメディナと言わない様であるが、「白とブルー」の街並みとして有名なシディ・ブ・サイドも散策した。
ここもお店がずらり

街の中の有名な喫茶店らしい。ここでお茶。

日本人の団体旅行よろしくゾロゾロと集まって散策

二日に一回ぐらいの割合で散策したことになる。旅行記と言うならば、それぞれのメディナの光景を描写するべきであろうし、それぞれの特徴も記すべきであろうが、それらは全く記憶していない。メディナを「旧市街地」と訳すのは正しいかどうかは知らない。又、実際に散策したのはどうも旧市街地の中の市場らしい。「メディナのスーク散策」である。チュニジアに限らないが、ヨーロッパでは旧市街地は大体城壁の様なもので囲まれている。外敵の侵入を防ぐ意味合いがあったのか?旧市街地に住居を構えるエリート意識がそうさせたのか知らない。城壁の外に人が住んでいなかったと言うことはないと思っている。生活空間として中と外との違いが身分・財力の違いになるとと¥考えてしまって余り城壁で囲まれた街は私の好みではないが仕方がない。
メディナの特徴は道が狭いと言うことに尽きる。我々が歩いたのはメインストリートである。そのメインストリートでさえも道と言うよりは、両手を広げると向かいのお店に手が届きそうな狭い道である。そこに小さな商店が両側に並んでいる。更にそのメインストリートから路地が張り巡らされている。その路地の建物は住居なのであろうか?あまり商店が有って、賑わっているようには見えない。取りようによっては「怪しげ」な感じが漂っている。昔々の純漁村は、店は余りないが、そうであった。狭い道に店が並ぶと言うと京都の「新京極」の様な感じである。今住んでいる和歌山で言えば「ぶらくり丁」(と言ってもご存じない方が多いと思うが)に当てはまることになるのであるが、残念ながら「ぶらくり丁」は寂れてしまい、全く人通りがなくていわゆる「シャッター通り」になってしまった。
或る時は店が未だ開いていない早朝から訪れ、或る時は丁度散策して、色々と物色するのによい時間帯である場合も有った。
その早朝にオレンジを売っているおじさんがいた。誰かがそのオレンジを購入した。そのオレンジのおじさんは「秤」を取りに車へ行った。まだ完全に売る準備万端整っていない時間帯であることを改めて知ると同時に、売買の単位は「キロ」であることを知った。
売っている品物は実に雑多である。何でも売っていると言うのが良いのであろう。メディナの中の店は大体外国人用の土産屋かと思っていたが必ずしもそうでもない。
三枚の写真は早朝訪れたケロアンのスークである。文章中のオレンジを売っている写真も入っている。実は一般的にこの屋台風の店は営業を禁じられていて、取り締まりが行われ、それがジャスミン革命の発端となった。


