丸善京都店閉店(2005年10月11日)
今日の夕方のニュース小特集で「丸善京都店」が昨日をもって閉店した旨報じていた。高校から大学と電車通学(実に昔のことだ。)の途中にあった書店で、丸善で本を買うのが何となく「格好良い」と感じた頃である。丸善のカバーは黄色のように思っていたが、そうでないのが一冊手元にあった。例によって岩波新書である。旨く撮れていないが、その写真である。その頃はカバーも大事にしていたのだと感慨深い。

洋書と言えば「丸善」のイメージがあった。「ペリカンブック」等は置いてあったように思う。しかし1$360円の時代で、洋書は目が飛び出るほど高かった。お取り寄せだと、何時届くか分からない。届いた連絡があったときには、次の注文をする様なこともあったと思う。
閉店時刻は繁華街の河原町の店舗としては早く、夜になるとその前だけはひっそりとしていて、屋台のラーメン屋が利用していたように思う。
今は京都の住民でないが、閉店となると懐かしさが出て来る。
パープルサンガ(2005年12月5日)
サッカーは今は見るだけですが、京都のパープルサンガは懐かしい響きを持っています。その京都のパープルサンガが一部へ昇格しました。ガンバ大阪が一部リーグで優勝したことよりも、パープルサンガの一部昇格が嬉しいです。
和歌山にはリーグのサッカーチームはありません。それで応援するなら、昔住んでいた京都のチームと言うことで陰ながら応援していました。しかし、かって、一部へ昇格したのも束の間で直ぐに2部へ降格で残念でした。そのためにテレビの放映も殆どなく、報道でも余り取り上げられません。何か寂しい思いをしていました。
昔、確か(間違っているかも知れません)京都の教職員のサッカークラブで「紫光クラブ」がありました。一般の社会人もメンバーだったかも知れません。高校の体育の教師がその昔「紫光クラブ」のメンバーでした。その紫光クラブはもう今はないのかも知れませんが、当時のサッカー界では強豪であったように思います。同じ京都ですので、その「紫光クラブ」と「パープルサンガ」とは何か繋がりがあるように思えてなりません。もしご存じの方がおられましたら、教えて頂ければと思います。
折角一部リーグ昇格したのですから、是非とも優勝とは言いませんが、必ず一部リーグの定着を祈っています。(追記:残念ながら一部定着とはなりませんでした。)
任天堂と・・・(2007年9月14日)
孫の話ばかりでは如何なものかと思うので任天堂をキーワードにして、記事を一つ。Wiiは任天堂の商品。任天堂は「さいら」の故郷京都発の外国でも通用する会社。最近のゲーム機ではNintendoという方が通じる。
任天堂は昔、花札とかカルタの会社。今も作っている。まあ、お公家さんのゲームで有ったのは確かだし、その点では、遡れば京都らしい会社と言えそうだ。花札・カルタは確かにゲームの範疇には違いないが、その素材は「紙」であって、今のゲーム機とは大違いである。決して任天堂社員が「花札」「カルタ」に日々興じ、厭きてきて、もっと面白いゲームはないかと思い巡らしたのではないだろう。どのようにしてこんなに大きく変身できたのか、今持って「さいら」には分からない。
和歌山の日高地方は「練り麻雀パイ」の一大生産地であるが、任天堂のような大変身はない。今も「練り麻雀パイ」を細々と製造しているだけだ。その違いは何処から来るのだろうか?
他に同様な京都発の会社に「キョーセラ」と「ワコール」がある。「キョーセラ」は元々セラミックの会社だ。セラミック技術は陶器と同様に「焼成」技術である。陶器と言えば、京都の地場産業。これもまあ納得できる。
問題はワコールだ。言わなくても分かる女性用下着メーカー。何故京都発か?これがよく分からない。身に着けるものに違いないが、京都と言えば「着倒れ」で着物である。近いと言えば近いが、余りにもその違いは大きい。襦袢にしても腰巻きにしても身体にフィットするかどうかは問題外だ。想像する所では、京都女性のスタイルは和服向きで、庶民の間で普及しつつあった洋装を身に着けると、上手く身体にフィットせず、折角、洋装してもボディラインが不明瞭になってしまう。これは愛する「京女」の将来としては全く不都合だと、「東男」ならぬ「京男」が思案をした。そこで、ワコールが誕生したと昔から勝手に思っている。
「京女」と「東男」(2007年9月28日)
先を急いでいるのか、今日も二つの記事をくっつけた。自民党の三役、嫌、四役が決まった。幹事長と政調会長の二人が「京都選出」の代議士である。珍しく彼らの記者会見を妻が見ていた。そして言うには「やっぱり、京都の人らしい顔や。」「顔は優しそうでも、心にはどうも芯がある。」(本当は「芯」と言いたいのでなく、多分「棘」と言いたかったのだろうと思います。)
言っておきますが、これは「さいら」の形相からの発想では全くありません。「さいら」は「顔はきつくて、心は定まらず」です。よく言う話ですが、「さいら」が生まれた時に母親の母親が言ったそうだ。「あんた。○○ちゃん。男の子でよかったなあ。」「ほんまに鍾馗さまそっくりやなあ。」その話を「さいら」が大人になってからも何回も母親自らの「一生の不覚」の話として聞かされていた。それなりの年齢になっても、「鍾馗顔」が抜けなかった。いまもそれを否定することは全く不可能である。 と言うことで次の話題「京女」と「東男」の話。
「京女」「東男」の言葉が或るブログで出てきた。京都生まれの「男たる」「さいら」には実はこの言葉は余りにも面白くない。この記事を書くのに「京男」と入力すると「今日男」と最初、変換された。それでもう些か気分が悪い。
確かにものの言い方の表面だけ捉えるとそう言える。男の東京言葉は確かにシャキッとしていて、如何にも正論のように響く。女の京言葉は何処か糸を引く。そして「赤い糸」でも何でもないのであるが、手繰って見たくなる。しかし、それはあくまでも話す言葉の表面上の出来事である。その話の内容にまで立ち入ると、大きな誤解をすることになる。シャキッとした男の物言いであっても、内容が正しくないこともあるし、柔らかそうな女性の物言いであっても、実は交際を断られていることもある。更に又、その容姿については、論外である。東京にも探せば「美女」はいる。京都には探さなくても「美男」はいる。どちらかというと美女美男は東京の方が多いのは確かだ。それは勿論東京の方が若い人口が多い客観的な事実からの当然の帰結である。
それとこれが一番大切なことであるが、「蓼喰う虫も好きずき」であるので何処にでも京女東男はいる。
「京女」と「東男」和歌山バージョン(2007年9月28日)
和歌山には「太地女」「古座男」という言葉がある。探せば何処にでも有るのだろう。「京女」と「東男」の地方版というか、和歌山バージョンである。
和歌山に就職して間もない頃、調査で「太地」へ何回も行った。役場へ行く必要はなかったが、最初、ご挨拶もあって行った。受付嬢に「ど田舎」にしては驚くような美人がいた。それで、行く都度特に用事もないのに役場の受付へ行った。その内に調査に行っているのか、受付嬢のご尊顔を拝しに行っているのか、ワケワカメになった。色々と聞く内に和歌山紀南方面では「太地女」「古座男」という言葉が、有ることを知った。そう思うと、確かに太地には美人が多い。「古座男」は詮索の範囲外であるから分からない。
そして、「さいら」の所属長に「役場受付嬢」との交際仲介の労をお願いした。初な独身時代の話である。一ヶ月ほどして所属長から返事があった。「君には無理だ。」「もう遅い。」実はこの返事、念が入っている。『元々「さいら」君には高嶺の花だ』「それをさて置いても」「もうステディな男性が居る。」「だからどう見てもダメだ。」と言う訳で、仕方なく現地調達に相成った。
「わたしゃ串本 両浜そだち 色の黒いは ごめんなあれ」これは串本節の一節。しかし、言う程、色が黒い訳ではない。容姿端麗は勿論「太地女」と比較しても仕方がないことであるが・・・。
今日の夕方のニュース小特集で「丸善京都店」が昨日をもって閉店した旨報じていた。高校から大学と電車通学(実に昔のことだ。)の途中にあった書店で、丸善で本を買うのが何となく「格好良い」と感じた頃である。丸善のカバーは黄色のように思っていたが、そうでないのが一冊手元にあった。例によって岩波新書である。旨く撮れていないが、その写真である。その頃はカバーも大事にしていたのだと感慨深い。

洋書と言えば「丸善」のイメージがあった。「ペリカンブック」等は置いてあったように思う。しかし1$360円の時代で、洋書は目が飛び出るほど高かった。お取り寄せだと、何時届くか分からない。届いた連絡があったときには、次の注文をする様なこともあったと思う。
閉店時刻は繁華街の河原町の店舗としては早く、夜になるとその前だけはひっそりとしていて、屋台のラーメン屋が利用していたように思う。
今は京都の住民でないが、閉店となると懐かしさが出て来る。
パープルサンガ(2005年12月5日)
サッカーは今は見るだけですが、京都のパープルサンガは懐かしい響きを持っています。その京都のパープルサンガが一部へ昇格しました。ガンバ大阪が一部リーグで優勝したことよりも、パープルサンガの一部昇格が嬉しいです。
和歌山にはリーグのサッカーチームはありません。それで応援するなら、昔住んでいた京都のチームと言うことで陰ながら応援していました。しかし、かって、一部へ昇格したのも束の間で直ぐに2部へ降格で残念でした。そのためにテレビの放映も殆どなく、報道でも余り取り上げられません。何か寂しい思いをしていました。
昔、確か(間違っているかも知れません)京都の教職員のサッカークラブで「紫光クラブ」がありました。一般の社会人もメンバーだったかも知れません。高校の体育の教師がその昔「紫光クラブ」のメンバーでした。その紫光クラブはもう今はないのかも知れませんが、当時のサッカー界では強豪であったように思います。同じ京都ですので、その「紫光クラブ」と「パープルサンガ」とは何か繋がりがあるように思えてなりません。もしご存じの方がおられましたら、教えて頂ければと思います。
折角一部リーグ昇格したのですから、是非とも優勝とは言いませんが、必ず一部リーグの定着を祈っています。(追記:残念ながら一部定着とはなりませんでした。)
任天堂と・・・(2007年9月14日)
孫の話ばかりでは如何なものかと思うので任天堂をキーワードにして、記事を一つ。Wiiは任天堂の商品。任天堂は「さいら」の故郷京都発の外国でも通用する会社。最近のゲーム機ではNintendoという方が通じる。
任天堂は昔、花札とかカルタの会社。今も作っている。まあ、お公家さんのゲームで有ったのは確かだし、その点では、遡れば京都らしい会社と言えそうだ。花札・カルタは確かにゲームの範疇には違いないが、その素材は「紙」であって、今のゲーム機とは大違いである。決して任天堂社員が「花札」「カルタ」に日々興じ、厭きてきて、もっと面白いゲームはないかと思い巡らしたのではないだろう。どのようにしてこんなに大きく変身できたのか、今持って「さいら」には分からない。
和歌山の日高地方は「練り麻雀パイ」の一大生産地であるが、任天堂のような大変身はない。今も「練り麻雀パイ」を細々と製造しているだけだ。その違いは何処から来るのだろうか?
他に同様な京都発の会社に「キョーセラ」と「ワコール」がある。「キョーセラ」は元々セラミックの会社だ。セラミック技術は陶器と同様に「焼成」技術である。陶器と言えば、京都の地場産業。これもまあ納得できる。
問題はワコールだ。言わなくても分かる女性用下着メーカー。何故京都発か?これがよく分からない。身に着けるものに違いないが、京都と言えば「着倒れ」で着物である。近いと言えば近いが、余りにもその違いは大きい。襦袢にしても腰巻きにしても身体にフィットするかどうかは問題外だ。想像する所では、京都女性のスタイルは和服向きで、庶民の間で普及しつつあった洋装を身に着けると、上手く身体にフィットせず、折角、洋装してもボディラインが不明瞭になってしまう。これは愛する「京女」の将来としては全く不都合だと、「東男」ならぬ「京男」が思案をした。そこで、ワコールが誕生したと昔から勝手に思っている。
「京女」と「東男」(2007年9月28日)
先を急いでいるのか、今日も二つの記事をくっつけた。自民党の三役、嫌、四役が決まった。幹事長と政調会長の二人が「京都選出」の代議士である。珍しく彼らの記者会見を妻が見ていた。そして言うには「やっぱり、京都の人らしい顔や。」「顔は優しそうでも、心にはどうも芯がある。」(本当は「芯」と言いたいのでなく、多分「棘」と言いたかったのだろうと思います。)
言っておきますが、これは「さいら」の形相からの発想では全くありません。「さいら」は「顔はきつくて、心は定まらず」です。よく言う話ですが、「さいら」が生まれた時に母親の母親が言ったそうだ。「あんた。○○ちゃん。男の子でよかったなあ。」「ほんまに鍾馗さまそっくりやなあ。」その話を「さいら」が大人になってからも何回も母親自らの「一生の不覚」の話として聞かされていた。それなりの年齢になっても、「鍾馗顔」が抜けなかった。いまもそれを否定することは全く不可能である。 と言うことで次の話題「京女」と「東男」の話。
「京女」「東男」の言葉が或るブログで出てきた。京都生まれの「男たる」「さいら」には実はこの言葉は余りにも面白くない。この記事を書くのに「京男」と入力すると「今日男」と最初、変換された。それでもう些か気分が悪い。
確かにものの言い方の表面だけ捉えるとそう言える。男の東京言葉は確かにシャキッとしていて、如何にも正論のように響く。女の京言葉は何処か糸を引く。そして「赤い糸」でも何でもないのであるが、手繰って見たくなる。しかし、それはあくまでも話す言葉の表面上の出来事である。その話の内容にまで立ち入ると、大きな誤解をすることになる。シャキッとした男の物言いであっても、内容が正しくないこともあるし、柔らかそうな女性の物言いであっても、実は交際を断られていることもある。更に又、その容姿については、論外である。東京にも探せば「美女」はいる。京都には探さなくても「美男」はいる。どちらかというと美女美男は東京の方が多いのは確かだ。それは勿論東京の方が若い人口が多い客観的な事実からの当然の帰結である。
それとこれが一番大切なことであるが、「蓼喰う虫も好きずき」であるので何処にでも京女東男はいる。
「京女」と「東男」和歌山バージョン(2007年9月28日)
和歌山には「太地女」「古座男」という言葉がある。探せば何処にでも有るのだろう。「京女」と「東男」の地方版というか、和歌山バージョンである。
和歌山に就職して間もない頃、調査で「太地」へ何回も行った。役場へ行く必要はなかったが、最初、ご挨拶もあって行った。受付嬢に「ど田舎」にしては驚くような美人がいた。それで、行く都度特に用事もないのに役場の受付へ行った。その内に調査に行っているのか、受付嬢のご尊顔を拝しに行っているのか、ワケワカメになった。色々と聞く内に和歌山紀南方面では「太地女」「古座男」という言葉が、有ることを知った。そう思うと、確かに太地には美人が多い。「古座男」は詮索の範囲外であるから分からない。
そして、「さいら」の所属長に「役場受付嬢」との交際仲介の労をお願いした。初な独身時代の話である。一ヶ月ほどして所属長から返事があった。「君には無理だ。」「もう遅い。」実はこの返事、念が入っている。『元々「さいら」君には高嶺の花だ』「それをさて置いても」「もうステディな男性が居る。」「だからどう見てもダメだ。」と言う訳で、仕方なく現地調達に相成った。
「わたしゃ串本 両浜そだち 色の黒いは ごめんなあれ」これは串本節の一節。しかし、言う程、色が黒い訳ではない。容姿端麗は勿論「太地女」と比較しても仕方がないことであるが・・・。