川塵録

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「地獄」が宗教の本質?

2024年07月14日 | 宗教
「鈴木みらい」っていう偽名の家庭連合元2世信者が、「信仰を強制された!」と言って、家庭連合に対し1000万円の慰謝料請求をしている。

この「みらい」氏(女性)が、小川さゆりみたいに、嘘八百を言い立てているっぽいという情報を得て、いろいろ調査中。。 実際、いくつかの嘘は発見した。

「嘘」と言えるかどうかはともかく、彼女の書面を見ると、もう頻繁に、1頁に1つくらい、「地獄に堕ちると言われたので…」という強迫観念が出てくる。

彼女は、26歳まではバリバリの信者で、周りを巻き込む人格・行動力もあった。人も羨む一流国立総合大学を出て、結婚し、子供も授かり… 今はアラフォー。

そのアラフォー女性が、かつての篤い信仰時代を振り返って、二言目には「地獄に堕ちると言われたので…」と他責することに、大きな違和感を感じている。

お子ちゃまじゃあるまいに、、、

信者の旦那さんとお子さんとみらい氏の3者が映った、ハッピーハッピーな幸せ満面の写真を何葉も見ている私には、、 

違和感しかない。

そこで、そもそも「地獄に堕ちる」という恐怖信仰があるのか。あるとして、それが(数年単位で)長続きするのか、を調べている。

家庭連合的には、「地獄に堕ちる」という恐怖信仰はないようである。その教義を説いた『原理講論』にも、「地獄」という用語は、「神」の71分の1しか登場しないし。

こんな感じで多くの神学者等と対話するなかで、得られたのは、、、

むしろ、死後の世界を論じる「天国と地獄」ってのは、宗教の本質の一つなのでは、という考えです。

つまり、

  • ほとんど宗教が多かれ少なかれ「地獄」の観念を有している
  • 世界宗教の経典には、例外なく「地獄」の描写が含まれている
  • その教義は信者に相応の恐怖を与えている(ようだ)

ってことです。世界宗教の経典を紐解くと、、、

■ キリスト教
おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である。
(ヨハネの黙示録二一章八節)
 
■ イスラム教
かかる者のあとは地獄があって、けがらわしい水を飲まされるであろう。かれはそれをすするのだが、なかなか飲み込めぬ、また死はあらゆる方向から迫るが、かれは死にもせぬ。なおかれの後ろには容赦のない刑罰がある。
(コーラン一四章一六〜一七節)
 
まことに地獄は、待ち伏せた所であり、法外な者にとって、帰り着く所、
かれらは長い年月、その中に住むであろう。そこでは涼しさも味わえず、煮えたぎる湯と膿のほかには、どんな飲物もない。かれらのためふさわしい報奨である。まことにかれらは、その行いに対する清算を希望しないでいた、またかれらはわがしるしを虚偽だとし、強く拒んだ。われは一切のことを、書冊にとどめている、それでなんじらは自分の行いの結果を味わえ、われは刑罰を増加するばかりである。
(コーラン七十八章二一〜三〇節)
 
■ 仏教
愚かな輩は人間界で死んだのち堕ちて、幾劫かを満了するあいだ、阿鼻地獄に住む者となり、その後さらに幾小劫のあいだ、かれらはそこで堕落を続けるのだ。地獄界で死んだ後、かれらはさらに畜生界にさまよい、かれらは痩せこけた犬や豺となって、他の人々のなぶりものとなろう。余の勝れた「さとり」を嫌う輩は、そこで色が黒くなり、斑色となり、皮膚に腫瘍が生じ、また疥癬となる。かれらは頭髪が抜け落ち、さらに痩せ衰えよう。かれらは人間たちの間で常に嫌厭され、土塊を投げつけられて悲鳴をあげ、そこで棒で嚇され、飢餓に悩まされ、四肢はやつれはてるのだ。 
(法華経譬喩品第三)
 
■ ヒンズー教
罪深い者達の内である者は薪のようにのこぎりで切られ、またある者は大地に投げ捨てられたり、斧でズタズタにされたりする。ある者は身体の半分を穴に埋められ、頭を槍で刺し貫かれる。またある者は絞り機の真ん中に固定されて、砂糖きびのように圧搾される。ある者は燃えさかる炭に囲まれ、たいまつに包まれ、鉱石の塊のように精錬される。ある者は熱いバターに、またある者は熱い油に押し込められ、フライパンに投げ込まれたケーキのようにひっくり返される。ある者は巨大な狂った象が群れなす道に投げ込まれ、またある者は手足を縛られて逆さまにされる。ある者は井戸に投げ込まれ、ある者は高い所から投げ落とされ、またある者は虫のたくさんいる穴に押し込まれ、それに食べられる。……正当な秩序に従って下界の拷問を経験した後、彼は清められて再びここに帰って来る。
(ガルダ・プラーナ三章四九〜七一節)
 
____________

このように、多かれ少なかれどんな宗教にも「地獄」や「恐怖」がある。以下の高僧は、「恐れ」が宗教を生む、とまで言っています。

「恐れが宗教を生む」(仏教の高僧)
 ・人間の宗教が根本的には「恐怖感」から生まれてきている
 ・怖いと思う気持ちから「信じる心」が始まった

そこで私が考えた仮説はーーーー

私は無宗教(特定宗教の信者とはいえない)なだけに、私には特定宗教が説く「恐れ」はない。

ただ、「恐れ」と「畏れ」は似ている。

私には(地獄に堕ちないようになんとかしようという)「恐れ」はないけど、「畏れ」はある。

つまり、人として敬虔な心というか、造物主(天や神仏)を敬う、ないし「畏れる」気持ちは持っている。

まあ「畏れ」も「恐れ」も大差ないだろうから、「恐れが宗教の本質」と言われても、あまり違和感がない。

「恐れが宗教の本質」をもじれば、「畏れが道徳・倫理の本質」とさえ言えよう。

「誰も見ていなくてもお天道様は見ている」という「畏れ」が道徳とか倫理につながる、というのはみなさんもなんとなくおわかりになるでしょう。

儒教は宗教ではないですが、儒教や漢籍にも「俯仰天地に恥じず」「敬天愛人」「天網恢恢」「天知る地知る我知る子知る…」など、造物主的な「天」は頻繁に出てくる。

「畏れ」のない人間は、傲慢で下品で俗物的だ(思い当たる人がアチラ方面に何人かいますね)。

長くなりましたのでここいらで。本稿は続く。

~~~以下参考サイト~~~
 
こちら(魚谷氏ブログ)
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