撮影日 : 平成25年2月10日(日)
会 場 : 兵庫県立武道館(姫路市西延末)
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6.竹生島流 棒術 (ちくぶしまりゅう ぼうじゅつ)
竹生島流 棒術は、今からおよそ800年余り前の源平合戦の時代、難波平治光閑(なんば へいじ みつのり)によって創始されました。
光閑は、もともと長刀(なぎなた)の達人で、長刀一流を極めて自ら難波流の流祖となっていました。
その後、ある合戦で光閑は、長刀を振い獅子奮迅の働きをしていましたが、戦いの最中に長刀が折れて柄ばかりになってしまうという危機に見舞われます。
しかし、その残った柄を長刀の手で使って戦い、大勢の敵を討ち取りました。
この体験から棒術を編み出したと伝えられています。
光閑は、これはかねてより信心していた琵琶湖の竹生島弁財天の冥恩であるとして、竹生島流棒術と名付けました。
江戸時代になると、竹生島流 棒術は、出羽国の庄内藩(藩主:酒井家)およびその支藩の出羽松山藩において伝承されてゆきました。
(以下、次号)
会 場 : 兵庫県立武道館(姫路市西延末)
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6.竹生島流 棒術 (ちくぶしまりゅう ぼうじゅつ)
竹生島流 棒術は、今からおよそ800年余り前の源平合戦の時代、難波平治光閑(なんば へいじ みつのり)によって創始されました。
光閑は、もともと長刀(なぎなた)の達人で、長刀一流を極めて自ら難波流の流祖となっていました。
その後、ある合戦で光閑は、長刀を振い獅子奮迅の働きをしていましたが、戦いの最中に長刀が折れて柄ばかりになってしまうという危機に見舞われます。
しかし、その残った柄を長刀の手で使って戦い、大勢の敵を討ち取りました。
この体験から棒術を編み出したと伝えられています。
光閑は、これはかねてより信心していた琵琶湖の竹生島弁財天の冥恩であるとして、竹生島流棒術と名付けました。
江戸時代になると、竹生島流 棒術は、出羽国の庄内藩(藩主:酒井家)およびその支藩の出羽松山藩において伝承されてゆきました。
(以下、次号)