清須会議・主人公たちのその後① - 羽柴秀吉編 -

2013-12-17 23:27:36 | うんちく・小ネタ
映画 「清須会議」 を観てきました。

原作者(兼・脚本と監督)は三谷幸喜さん。
登場人物たちの心の機微がコミカルに描かれて、とても面白い作品でした。

さて、映画のラストは清須会議が閉幕した翌日。
諸将が、それぞれの領地に帰って行くというシーンでした。
秀吉が、帰国する柴田勝家の後姿を見送りつつ、妻の寧(ねい)に
「一年以内に親父殿(勝家)を滅ぼして、織田家を乗っ取る、そして、その先は天下だ。」
と、宣言します。



2






映画は、ここで終わりです。
しかし、その後の歴史で繰り広げられた、秀吉・勝家ら諸将の動きは、
奇策、駆け引き、挑発、打算、裏切り、そして合戦・・・・
と、さまざまな人間ドラマが絡み合って、実に面白いのです。

もしも、三谷幸喜さんが映画の続編を作ったら、どんなストーリーになるんだろ!?
・・・とか想像しつつ、主人公たちのその後にちょっと触れてみたいと思います。


それでは、まずは羽柴秀吉から・・・



1_3

(伝・羽柴秀吉像)





1.財力こそ最大の武器! 増大した領地でライバルを圧倒



天正10年(1582)6月27日の清須会議の議題は、

(1).信長の後継者を誰にするか
(2).信長が治めていた領地の再配分

の二つでした。

信長の後継者は、秀吉の思惑どおりに信長の嫡孫・三法師に決まりました。
また、領地の再配分も、一方的に秀吉に有利な結果となります。

再配分の対象になった領地は、
尾張・美濃・近江・山城・丹波・河内・摂津
の7ヵ国です。

まず、織田家の本領ともいうべき尾張と美濃。
尾張は信長次男の信雄、
美濃は三男の信孝
に与えられます。
これは、まあ妥当な配分でしょう。

そして、秀吉には
山城・丹波・河内
の3ヵ国が与えられました。
山城は言うまでもなく、京都を扼する政治の中心地です。
そして丹波・河内は、山城に隣接する実り豊かな穀倉地帯。
この有利な配分は、秀吉自身が
「山崎で明智光秀を打ち破り、信長の弔い合戦をした」
という功績を声高に主張して、勝ち取ったのでしょう。

また、その隣の摂津では、池田恒興、中川清秀、高山右近らが、
元の領地に加増を受けています。
彼ら摂津衆は皆、山崎合戦で秀吉に協力して以来の秀吉派です。
なので、ここも秀吉の勢力圏といえるでしょう。

残る近江は、複雑に分割して配分されました。
まず、織田家の家督を継いだ三法師には台所入、つまり生活費として、
安土の付近などで2万5000石。
秀吉の対抗馬・柴田勝家には、長浜6万石。
勝家は「信長の弔い合戦」に参加できなかったので、この点で何とも分が悪い。
宿老として少なすぎる配分ですが、不満は言えなかったのでしょう。
一方、秀吉派の武将には大領が与えられます。
丹羽長秀は、琵琶湖西岸の高島・滋賀の二郡。
堀秀政は、佐和山20万石を配分されています。

領地の再配分と言いながら、結果的に秀吉が圧倒的に多くの領地を得ました。
領地の多さは、財力・軍事力に結びつきます。
何よりも、京都を押えているということは、政治的にもこの上なく有利です。

こうして秀吉は、元の領地である播磨・但馬に加え、山城・丹波・河内を支配する大勢力になりました。
もはや、織田家臣団の武将たちの中には、単独で秀吉に対抗できる者は誰も居ません。

しかし、秀吉はまだまだ武力で事を運ぼうとはしませんでした。
そして、次なる奇策を打ち出してゆきます。






2.「弔い合戦」の地・山崎に築城し、自らの正当性を主張する広告塔に!



7月になると、秀吉は山崎に新たな居城を築き始めます。
場所は、明智光秀と戦った山崎合戦の戦場を見下ろす天王山。
山頂には、これ見よがしに天守を建てました。
また、山麓の宝積寺およびその塔頭寺院は、自らの居館や家臣団の宿舎に転用していたようです。

ここに、ひとつの謎があります。
秀吉は、なぜ山崎に居城を構えたのでしょうか。
確かに山崎は、京都の入り口を扼する要衝です。
しかし、天王山と淀川に挟まれた隘路なのです。
平地が少なく、大大名の城下町を建設するには適切ではありません。

秀吉にとって、山崎はあくまでも政略上の暫定的な居城でした。
京都への入り口なので、天王山の上に建てられた天守は、多くの人の目に触れます。
それはまさに、信長の弔い合戦の戦勝記念碑であり、
秀吉が信長の後継政権のリーダーシップを執ることの正当性を強く主張する、
さながら広告塔だったのです。

そのメッセージは、秀吉の意図したとおりに、強烈なインパクトで発信されました。
山崎城には、織田家中の多くの武将たちが、秀吉のご機嫌伺いに訪れ、その
配下になることを誓います。
そして、ついには柴田勝家の使者として訪ねてきた前田利家までがも、秀吉派となる密約を
結ぶに至ったのでした。



41_2

(秀吉が築城した山崎・天王山)




3.天下取りレース、次なる舞台は「信長さまのお葬式」?



同年9月11日、柴田勝家は、妻となった お市の方を喪主として、
京都の妙心寺で信長の百箇日忌の法要を行いました。

翌12日、今度は秀吉が、養子の秀勝(信長の四男で、幼くして秀吉の養子となっていた)
を喪主として、京都の大徳寺で信長の百箇日忌の法要を行います。

2日連続して、場所を変えて信長の百箇日法要が行われるという異常事態。
秀吉の魂胆は、一体何だったのでしょうか?

秀吉には、京都周辺を領地とする地の利と、それを基盤とする財力があります。
おそらく秀吉が行った百箇日法要は、前日のそれを圧倒する盛大なものだったのでしょう。
「勝家が行った百箇日法要など取るに足らない。 
信長様の供養は、全てこの秀吉が仕切っているのだ」
そのように世間に印象付けるのがねらいだったのでしょう。

そして秀吉は、10月15日から17日にかけて、同じく大徳寺で、信長の葬儀を盛大に行います。
信長亡き後の織田家は、実質的に秀吉が動かしているという大規模なデモンストレーションでした。
織田家の諸将たちも、多くがこれに参列しました。
しかし、そこに勝家の姿はありませんでした。
傍若無人な秀吉に対し、抗議の意味で参列を辞退したのかも知れませんが、
秀吉が大軍を入京させていることに、身の危険を感じていたとする史料もあります(『川角太閤記』)。



3_2

(明治時代に想像を交えて描かれた「大徳寺焼香之図」。実際には、秀吉と勝家の対決は起こりませんでした。)




4.雪の季節を待って、いよいよ出陣



こうした秀吉の行動を苦々しく思っていた柴田勝家と織田信孝は、ささやかな抵抗を続けていました。
清須会議では、織田家の家督を継いだ三法師は、安土城に居住すると決められていました。
しかし、三法師を秀吉に取り込まれてしまえば、いよいよ政局は秀吉の思うがままになってしまいます。

そこで、三法師を信孝の居城・岐阜城に留め置いて、手放そうとしませんでした。
10月になって秀吉は、その約定違反を手紙で批判し、すみやかに三法師を安土城へ移すよう要求します。
しかし、信孝は無視します。

12月9日、秀吉はついに自ら兵を率いて出陣します。
攻撃目標は、北近江の長浜城(清須会議後、勝家に与えられ、甥・勝豊が在城)、
そして信孝の居城・岐阜城です。

その時、反・秀吉の主力である柴田勝家は、その本拠地の越前・北庄城に居ました。
旧暦の12月ですから、すでに越前と近江の国境の峠は、豪雪によって閉ざされていました。

この季節、勝家が援軍を送れなくなることを計算し尽くした、秀吉の作戦勝ちでした。
圧倒的な秀吉の軍勢の前に、長浜城も岐阜城もあえなく降参。

三法師は秀吉の手に渡りました。
こうして、満を持した秀吉は、いよいよ武力行使で天下をねらってゆくのでした。



4