ブログ引越しのお知らせです。

2014-11-30 19:14:42 | 歴史
いつもご愛読いただき、本当に有難うございます。

この度、ブログをniftyの「ココログ」へ引越しすることになりました。


こちらです。

  ↓

http://oshironahibi.cocolog-nifty.com/blog/



早速、引越し記念の第一号として、50年ぶりに特別公開された大坂城の一番櫓(いちばんやぐら)
をネタに記事をアップしています。

今後ともよろしくお願い申し上げます。




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新発田城 <紅葉の名所のお城 2014 ②>

2014-11-16 21:21:32 | 歴史
新発田城  しばたじょう    (新潟県新発田市)


先日、地域の図書館へ行ってきました。
その道すがら、街路樹も、町中の小さな公園の木々も、いよいよ色付きつつあることに気づきました。
普段あまり気に留めていない場所にも、秋は着実に深まりつつあるようですね。


さて、「紅葉の名所のお城」、第二弾は新潟県の新発田城です。
「新発田」は、案外と難読地名かも知れないですね。
 (撮影/2007年11月12日)

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新発田城は、溝口秀勝(みぞぐち ひでかつ)によって築かれました。

秀勝は尾張国の出身で、織田信長の重臣・丹羽長秀(にわ ながひで)に仕える武将でした。
信長の死後、その政権を継いだ豊臣秀吉は、天正13年(1585)秀勝を丹羽家から独立させ大名に抜擢。
加賀国の大聖寺城(だいしょうじ じょう/石川県加賀市に所在)の城主として、4万4000石を与えました。
秀吉の目にかなうほどですから、よほど有能な武将だったのでしょう。

慶長3年(1598)、越後国の上杉景勝が、会津に領地替えとなりました。
上杉氏が去った越後国には、豊臣系の大名たちが新領主として配置されました。

秀勝は、その内の蒲原郡6万石を与えられたのでした。
こうして、溝口家は越後の大名として新たなスタートをきることになったのです。

しかし、秀勝の新たな領国・越後蒲原郡には、問題が山積していました。
入国早々に起こった一揆の鎮圧(この一揆は、越後回復をもくろむ上杉景勝が裏で糸を引くものでした)。
頻発する洪水対策としての治水事業。
これらを見事にクリアした秀勝が、領国支配のシンボルとして新築した城が新発田城でした。

その後の新発田城は、寛文8年(1668)の大火、翌9年の大地震、さらに享保4年(1718)には再び大火に見舞われ、大きな被害を受けました。
その都度、年数はかかりましたが新発田城は復興され、むしろ前よりも精巧な美を持つ城へと姿を変えてゆきます。
苦心して新発田藩の礎を築いた秀勝の意志が、見事に引き継がれているような感じがします。

溝口家は、江戸時代を通じて新発田藩主として続き、明治を迎えました。




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本丸南側の景観です。
手前は平成16年に復元された辰巳櫓。

緻密に積まれた石垣と櫓の白壁が、澄んだ堀の水に映えています。
落ち着いた佇まいが魅力的な一角です。


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本丸表門です。
江戸時代中期の享保17年(1732)の建築です。

壁の下の部分が、黒と白の美しい格子模様になっています。
これは、塼(せん)というタイル状の瓦を貼り付け、目地を漆喰(しっくい)で固定した海鼠壁(なまこかべ)です。
見た目の美しさの他に、積雪で外壁の漆喰が水分を含み、剥がれるのを防ぐねらいもあるようです。
お城の櫓で海鼠壁が使われた例は少なく、現存建築は金沢城(石川県金沢市)と、ここ新発田城くらいしか無い貴重なものです。

ちなみに、手前の旗のぼりに入った家紋は、溝口家の「五階菱」(ごかいびし)の紋です。
この紋は、何と今は新発田市の市章(市のマーク)としても使われています。
殿様の家紋が、そのまま市章になっている例も、全国的に見て稀少だと言えます。



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この櫓も江戸時代の建築で、「二の丸隅櫓」と言います。
その名の通り、元は二の丸の一角に建っていました。

二の丸は堀が埋められ、城の面影を留めなくなっていました。
そこで保存のため、ここ本丸の南西隅に移築されました。



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堀には、たくさんの鴨(カモ)が泳いでいました。
せっせと泳ぎ餌を探す者、翼の下に顔を埋め、水面を漂いながら居眠りする者・・・。
間近で観察すると、これがなかなか面白いものでした。



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さて、こちらが新発田城のシンボル、御三階櫓(ごさんかいやぐら)です。
実質的にも、この城の天守であると言えます。

御三階櫓は、惜しくも明治初期に取り壊されていました。
平成16年、古写真などの史料に基づき、辰巳櫓とともに忠実に復元されました。


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御三階櫓の最大の特徴は、何と言っても最上層の棟がT字型に組まれていることです。
T字の先端には、合計3尾の鯱瓦が飾られています。

通常の天守の場合、最上層の鯱瓦は2尾であり、それは雄と雌の一対という設定になっています。
鯱は想像上の動物で、顔は龍、体は魚という姿をしています。
その姿から、火災除けの願いを込めて城郭建築の屋根に飾られるようになったと考えられています。
雄と雌のペアで、お城のシンボルを護るという発想が面白く感じます。

ところで、新発田城御三階櫓の3尾の鯱瓦は、一体どういう関係なのでしょうか?
雄•雌•雄、それとも雌•雄•雌???
興味津々な「三角関係」です。



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新発田城には、見事な松の木が多く見られます。
中には、江戸時代から生き続けているような古木もあります。
きっと、お城と時代の移ろいを見守り続けてきたことでしょう。

新発田市では、長期計画で城跡の公有地化と、建築の復元を計画しているそうです。
今後の展望が楽しみなお城です。

和歌山城   < 紅葉の名所のお城 2014 >

2014-10-13 18:44:34 | 旅行記
和歌山城  わかやまじょう     (和歌山県和歌山市)




早いもので、10月も中旬となりました。
秋の恒例企画 「紅葉の名所のお城」 として、今回は和歌山城をご紹介致します。
(撮影/2002年11月10日)

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<始まりは、秀吉>


和歌山城は、徳川御三家の一つ、紀州徳川家55万5000石の居城として有名です。
しかし、この地に最初に築城したのは、実は羽柴(豊臣)秀吉なのです。

天正13年(1585)、紀伊国を平定した秀吉は、紀ノ川河口に近い平野に新たな築城を企てます。
場所を 「吹上の峰」(ふきあげのみね)と呼ばれていた小山に定め、自ら縄張り(設計)をしたと伝えられます。
(『紀伊続風土記』)
そして、秀吉の弟・秀長が築城に着手し、完成した城は「若山城」(わかやまじょう)と命名されました。
城の名はその後、近くにある景勝地の「和歌浦」に因んで「和歌山城」と表記を改めます。

一説に、「和歌山」という表記は、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)が最初とも言われています。
秀吉こそ、和歌山の「生みの親」と言って良いでしょう。




<歴代城主が増改築>

和歌山城主は、はじめは秀長の城代として入城し、のちに4万石の大名(城主)となった桑山家
次は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で、徳川家康から紀伊国37万6000石を与えられた浅野家
そして元和5年(1619)、芸備(安芸国・備後国=現在の広島県)へ領地替えとなった浅野家に代わり、徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が、紀伊国全域および伊勢国南部と大和国の一部を領有する55万5000石の大名として入城しました。
以後、紀州徳川家歴代が城主を務め、明治に至りました。

こうして見ると、次第に石高が大きい大名が城主を務めるようになっていることが分かります。
石高は、大名の財力を示します。
歴代城主が行った増改築によって、和歌山城は名城としてまさにグレードアップしていきました。



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和歌山城は、とても表情豊かなお城です。
見る場所によって、全く異なる印象を与えてくれます。

これは最大幅70メートルを超える東堀からの眺め。
さながら水辺の絶景です。


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南側は台地続きのため、堀はありません。
代わりに城内で最大規模の高石垣をめぐらせて守りを固めています。



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それでは、天守を目指して山に登ってみましょう。
山の高さは、標高48.9メートル。

山腹から山頂にかけて累々と築かれた石垣は、自然石を積んだ野面積み(のづらづみ)です。
その外見の粗々しい印象から、まるで険しい岩山に登っているような気分になります。



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秋空に映える天守です。

戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)7月9日の夜、アメリカ軍による和歌山大空襲で無残にも焼失。
現在の天守は、昭和33年(1958)、鉄筋コンクリート造りで外観復元されたものです。



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天守最上階からの眺望です。

紀ノ川が海にたどり着き、その向こうには水平線。
右手には淡路島の島影も見えます。



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目を転じれば、遠くに霞む山並み。
その先は、高野山や熊野がある紀伊山地へと続いています。

田辺城を歩く。 <紀州徳川家の付家老・安藤氏の居城>

2014-10-06 23:52:22 | 旅行記
田辺城  たなべじょう    (和歌山県田辺市)



所用があって、和歌山県の田辺市へ行ってきました。

田辺は、温泉地として有名な南紀白浜に隣接しています。
風光明媚な海岸の風景が、目の前に広がる街です。

江戸時代には、紀州徳川家の付家老・安藤家3万8800石の城下町でした。


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二日目の朝、少し早起きして街を散策してみました。



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宿を出て少し歩くと、美しい砂浜に出ました。
その名も「扇ヶ浜」。

なんとも風雅な地名です。 



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田辺湾の沖に目をやると、遠く水平線が見えました。



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海岸の通りを西に向かって歩きました。
少し行くと、道路脇に小高い丘のようなものが見えてきました。

幕末、田辺城に隣接して築かれた砲台・扇ヶ浜台場(おうぎがはま だいば)の跡です。

欧米列強の侵攻に対する危機感が高まる中、
紀伊半島の先端に近い田辺領では、沖を航行する外国の軍艦がたびたび目撃されるようになっていました。

安政元年(1854)、領主の安藤直裕(あんどう なおひろ)は、田辺の町を防衛するため、江戸で砲術を学んだ家臣・柏木兵衛(かしわぎ ひょうえ)に命じて、扇ヶ浜台場の構築と大砲数十門の鋳造に着手しました。



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完成した扇ヶ浜台場の規模は、全長約180メートル、幅90~100メートル。
海に面する側には、約9メートルの高さに土塁を築き、巨大な大砲を配備していました。
大砲の試射を行ったところ、砲弾は田辺湾入り口の白浜半島沖に着弾するという威力を発揮しました。

幸い、扇ヶ浜台場は戦場となることなく明治維新を迎え、やがて廃されました。
その後、土取りで大きく形を変えました。

現在は、カトリック教会の敷地となっています。






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さて、いよいよ田辺城へと向かいましょう。

扇ヶ浜台場の前を過ぎると、ほどなく会津川河口に架かる田辺大橋のたもとに着きました。
南に海岸、西に会津川が接するこの一帯が、かつて田辺城の跡です。




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城跡は、埋め立てと道路建設によって、水際から切り離されています。
一見したところ、ここが城跡だとは、ちょっと気付き難いほどの変貌振りです。


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田辺城の歴史は、慶長11年(1606)に浅野氏定(あさの うじさだ)によって築かれた湊城(みなとじょう)に始まります。

元和5年(1619)、氏定は主君・浅野長晟(あさの ながあきら/和歌山城主)が芸備(安芸国・備後国=現在の広島県)へ領地替えとなったのに従い、田辺を去りました。

代わって、紀州の新領主として和歌山城に入城したのが徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)です。
ここに、紀州徳川家の歴史が始まります。
田辺は紀州徳川家の重臣・安藤直次(あんどう なおつぐ)の領地となりました。

新たな領主となった直次が初めて田辺に来た時、湊城はすでに無く、民家に宿泊したと伝えられています。(『田辺大帳』)
おそらく湊城は、元和元年(1615)の一国一城令で破却されていたのでしょう。
そして、直次が湊城の跡に再興したのが田辺城です。



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田辺城の本丸の復元図です。
本丸御殿が建ち並んでいます。

田辺城は、近世の城としては規模が小さく、天守や高層の櫓も建てられていませんでした。
しかし、石垣の上に連なる白壁の土塀が海に映えて、美しい景観を構成していました。

そうした景観に由来するものでしょうか。
錦水城(きんすいじょう)の別名があります。

本丸の北から東にかけては、本丸を取り囲むように二の丸が構えられていました。


 
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田辺城本丸跡の一角は、小さな公園になっています。

鳥居の左手に櫓を模したような構造物がありますが、この中に珍しいものが展示してありました。


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それは、田辺城の屋根を飾っていた一対の鯱瓦です。
写真はそのうちの一つ。


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そして、城主・安藤氏の家紋 「下り藤に安」(さがりふじにあん)が入った軒丸瓦です。
名字の「安」という字がそのまま入った家紋というのが、なかなか面白いです。


ちなみに安藤直次は、幼少の頃から家康に仕え、側近中の側近として江戸幕府の政治に関与していました。
その後、家康は、いまだ若年の十男・頼宣を大名とするため、その補佐役の一人として直次を頼宣の家老として配属しました。
これを付家老(つけがろう)と言います。

今風に言うと、親会社の「江戸幕府」から子会社の「紀州藩」へ役員として出向・・・といったところでしょうか。
(ただし、現代のサラリーマンとは異なり、この「出向」は、安藤家代々の世襲となるのです)

安藤氏は、こうした特異な立場にあったため、紀州藩に仕える身でありながら、特例として居城を構えることが許されました。
しかし、田辺城を天守がそびえ建つ派手な城にすることは、さすがに遠慮したようです。
また、安藤氏の当主は、常に和歌山城に詰め、付家老としての執務を行わなければなりません。
城主不在が常なので、必然的に田辺城はコンパクトな城になったのでしょう。
また、城普請も徹底しておらず、石垣の上に土塀が造られず、仮に柴垣や竹垣を廻らせた部分もあったようです。

前述した「錦水城」の別名を持つ、美しい城として完成したのは、江戸時代後期の天保2年(1831)のことでした。


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さて、本丸跡の一角に、全国的に見ても珍しい「水門」(すいもん)の遺構があります。

水門といっても、水を塞き止める堰(せき)のことではなく、船付き場に通じる専用の門のことです。



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本丸の隅にある石段を下ります。
その先は、トンネル状の通路になっています。



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石段を下りきった所です。
門の礎石と石製の敷居が残っています。
ここに扉がありました。

かつては、この水門を出たら会津川の畔で、その場から乗船できました。

現在、向こうにもうひとつトンネル状の通路がありますが、これは現代の道路工事に伴うものです。



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道路の下のトンネルを抜けて、会津川の畔に出てみました。

水量は豊かで、ひたひたと打ち寄せています。
船が本丸に直接乗り付けていた時代を彷彿とさせます。



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田辺大橋の先に、海の波頭が見えます。
水門が、海上交通と直結していた様子が良く分かります。



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再び水門の前に戻ってみました。

外から見た水門の石垣です。



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この部分の石垣は、独特な積み方をしています。

外側は、波や増水時などの水圧に耐えるように緩い傾斜で石を積んでいます。
一方、トンネルの壁面となる内側は、垂直に石を積み上げて門の密閉性を高めています。

また、天井には丁寧に加工した石の角材を架け渡しています。



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門の礎石です。
この礎石の上に、門の両脇の柱が建っていました。

ここに興味深い遺構があります。
礎石に柱が建っていると想像して、柱に接する石垣を見てみましょう。
柱が石垣にしっかりとフィットするように、石垣の表面にへこみが付けられているのが分かります。


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門をくぐった先の石段です。

二十段で本丸に達するように造られています。
十三段目までは幅が広く、十四段目から急に幅が狭くなっています。

一般的に、お城の中でこのように通路が急に狭くなっている場所は、敵の侵攻速度を鈍らせるための防衛上の工夫と解釈されます。
しかし、この水門の石段の場合は規模が小さく、こうした構造にしてもあまり防衛上の効果は無いように思えます。
むしろ、ステータスとして軍学の理論を取り入れたものと見るべきでしょう。



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石段が急に狭くなっている部分は、もちろん登り下りする人の足に踏まれる頻度も高くなります。
それが石段のへこみになって、しっかりと現れています。

江戸時代にこの石段が築かれてから、現代までの数百年。
幾多の人々の歩みが刻み込んだ、貴重な歴史遺産です。










郡山城 <天守台発掘調査 現地説明会  ~ 見えてきた! 100万石の幻の天守 ~ >

2014-09-23 00:09:56 | うんちく・小ネタ
郡山城  こおりやまじょう    (奈良県大和郡山市)




郡山城は、豊臣秀吉の弟・秀長(ひでなが)の居城です。

天正13年(1585)、秀吉は秀長を大和国・和泉国・紀伊国の3ヵ国・100万石の太守に任じました。
秀長は、大和郡山を居城に定め、前領主の筒井氏が築いた郡山城の大改修に着手します。




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<幻の天守>


豊臣秀長の郡山城について、その構造を詳しく記した文献は残っていません。

天正16年(1588)、中国地方8ヵ国・112万石の太守、毛利輝元が上洛した際、その帰路で秀長から郡山城に招かれています。(「毛利輝元上洛日記」)
そして盛大な饗応を受けているので、この時期までに郡山城は、豊臣政権ナンバー2の大和大納言・秀長にふさわしい豪壮華麗な建築群が完成していたと考えられます。

天正19年(1591)秀長が病死し、甥の羽柴秀保(はしば ひでやす)が後を継ぎ、郡山城主となりました。
しかし、文禄4年(1595)4月、秀保が十津川にて変死を遂げてしまいます。
ここに、郡山城の豊臣一門の城としての歴史はここで終わりました。
同年7月、地震(慶長大地震)で郡山城の天守が破損したと伝えられています。(「近衛前久書状」)
規模などの詳細は不明ですが、天守が建てられていたことが分かります。

続いて、五奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)が20万石で郡山城主となりました。
長盛は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に加盟し、戦後に領地を没収されます。
その時、郡山城の留守を守っていた重臣が、明け渡しの際に「天守に金銀を残し・・・」、「天守の三重目へ上がり・・・」と記しています。(「渡辺水庵覚書」)
この時期も天守が存在し、それは少なくとも三重(三階建て)以上の規模であったと分かります。

その後、郡山城は一時廃城になりました。

慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、全国支配を確立した江戸幕府は、畿内支配の要地として再び郡山城に着目します。
元和2年(1616)に譜代大名の水野氏(6万石)を入城させ、幕府の補助で郡山城を復興します。
しかし、天守が再び建てられることは有りませんでした。
以降、松平氏(12万石)、本多氏(19万石)、藤井松平氏(8万石)と譜代大名が入れ替わりつつ城主を務め、享保9年(1724)に柳沢氏(15万石)が入城し、明治に至りました。


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<発掘調査で天守礎石を検出>


平成26年(2014)9月12日、大和郡山市教育委員会は、天守台の発掘調査で、天守の礎石を検出したと発表しました。
遺構には改修痕が無く、また、出土した瓦から、天守は16世紀末の豊臣政権期(秀長・秀保・増田長盛)に建てられたと考察しています。

翌日、このニュースは新聞各紙に写真や図版入りで大きく紹介され、注目を集めました。

お城博士としてお馴染みの奈良大学学長・千田嘉博氏は
「16世紀の天守の構造が判明したのは、安土城を除くと初めての例であり、今後の城郭研究の基準となる貴重な発見」
と、評価されています。(9月13日付・読売新聞)






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私も、これはぜひ自分の眼で見てみたいと思いました。
そして様々な予定を調整して、9月20日に実施された「郡山城天守台発掘調査現地説明会」に行ってきました。

以下、写真を交えつつ、現地説明会の内容および、実見した感想について簡単に触れてみます。




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郡山城の本丸に残る天守台です。
高さ約8.5メートルの石垣で築かれています。
この上に、天守が建っていました。

石垣は、自然石を積み上げた野面積み(のづらづみ)です。
この石垣は、自然石の他に、寺院などから徴発してきた石仏・礎石といった転用石が多く含まれるのが特徴です。
当時、興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』には、
<秀長が郡山城の大改修にあたって、興福寺境内から大小さまざまな石を運び出した。>
と記されています。
文献史料の記述との一致がたいへん興味深い石垣です。

なお、この写真に写っている石垣の角(天守台北東隅)に注目して下さい。
地表面から3段目までの石が、他とは色(材質)が異なり、丁寧に四角く加工されています。
これらは、平城京の正門であった羅城門の礎石を転用したものと伝えられています。




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それでは、天守台上の発掘調査現場に向かいます。
危険防止のため、見学者は10人ずつくらいに区切って、交代で天守台に上りました。



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発掘調査現場に到着しました。

・・・今から20年余りの昔、大学時代を奈良で過ごした私は、暇があればよくここを訪れていました。
当時、天守台の中央には植樹の記念碑が建ち、周囲にはベンチが置かれて小公園のようになっていました。
訪れる度に、礎石が残っていないことを残念に思っていました。

しかし、実際には足元わずか20センチメートルほどの地下に、これほどの遺構が眠っていたのです。



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発掘された天守台の上面です。

見学用の足場は、天守台の南端に北に向かって設けられていました。
以下、4枚の写真は、視界の左から右、つまり西から東に順に撮ったものです。



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発掘の結果、良好な状態で残る礎石は23個確認されました。



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よく見ると、小さな石が集中的に敷き詰められている部分があります。
これらは、礎石を据える位置の地盤を固めた根石(ねいし)です。

根石の残存から、失われた礎石の存在を知ることが出来ます。


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天守の入り口です。


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説明用に掲示されていた実測図です。

礎石の配置から、郡山城天守の1階の規模は東西7間×南北8間と確認されました。
また、1階の規模をもとに、建物の高さは約20メートル、四重五階もしくは五重五階の天守だったと推定されました。


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天守台の床面上から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)です。
豊臣期の大坂城の瓦と同じ型にはめて造られたものと確認されました。



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他に、聚楽第に類例のある軒平瓦(のきひらがわら)や、

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鯱瓦や鬼瓦の一部も出土しています。


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さらに、天守台の南に付属する付櫓台(つけやぐらだい)の地下からは、金箔を貼った瓦の破片も出土しました。
これらの出土品は、「豊臣の城」としての郡山城の性格を示す貴重な発見です。


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これまでは、郡山城天守は文献史料のわずかな記述から、その存在をうかがい知るばかりでした。
今回の天守台発掘調査の成果によって、幻の天守が一躍その姿を具体的に示し始めたと言えます。

なお、天守台石垣は、北・西面のはらみがひどく、このまま放置すれば崩壊の危機にあります。
石垣の修理(積み直し)と、天守台を展望の場として整備する工事に先立ち、遺構の確認を行ったのが今回の発掘調査でした。
全ての工事が完了して、天守台の見学が可能になるのは、平成29年(2017)2月の予定です。
なお、その過程で新たな遺構の発見があれば、また現地説明会が開催されるそうです。

幻のベールを脱いだ郡山城天守。
さらに実態が解明されてゆくことを大いに期待します。