郡山城 <天守台発掘調査 現地説明会  ~ 見えてきた! 100万石の幻の天守 ~ >

2014-09-23 00:09:56 | うんちく・小ネタ
郡山城  こおりやまじょう    (奈良県大和郡山市)




郡山城は、豊臣秀吉の弟・秀長(ひでなが)の居城です。

天正13年(1585)、秀吉は秀長を大和国・和泉国・紀伊国の3ヵ国・100万石の太守に任じました。
秀長は、大和郡山を居城に定め、前領主の筒井氏が築いた郡山城の大改修に着手します。




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<幻の天守>


豊臣秀長の郡山城について、その構造を詳しく記した文献は残っていません。

天正16年(1588)、中国地方8ヵ国・112万石の太守、毛利輝元が上洛した際、その帰路で秀長から郡山城に招かれています。(「毛利輝元上洛日記」)
そして盛大な饗応を受けているので、この時期までに郡山城は、豊臣政権ナンバー2の大和大納言・秀長にふさわしい豪壮華麗な建築群が完成していたと考えられます。

天正19年(1591)秀長が病死し、甥の羽柴秀保(はしば ひでやす)が後を継ぎ、郡山城主となりました。
しかし、文禄4年(1595)4月、秀保が十津川にて変死を遂げてしまいます。
ここに、郡山城の豊臣一門の城としての歴史はここで終わりました。
同年7月、地震(慶長大地震)で郡山城の天守が破損したと伝えられています。(「近衛前久書状」)
規模などの詳細は不明ですが、天守が建てられていたことが分かります。

続いて、五奉行の一人・増田長盛(ました ながもり)が20万石で郡山城主となりました。
長盛は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で西軍に加盟し、戦後に領地を没収されます。
その時、郡山城の留守を守っていた重臣が、明け渡しの際に「天守に金銀を残し・・・」、「天守の三重目へ上がり・・・」と記しています。(「渡辺水庵覚書」)
この時期も天守が存在し、それは少なくとも三重(三階建て)以上の規模であったと分かります。

その後、郡山城は一時廃城になりました。

慶長20年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家を滅ぼし、全国支配を確立した江戸幕府は、畿内支配の要地として再び郡山城に着目します。
元和2年(1616)に譜代大名の水野氏(6万石)を入城させ、幕府の補助で郡山城を復興します。
しかし、天守が再び建てられることは有りませんでした。
以降、松平氏(12万石)、本多氏(19万石)、藤井松平氏(8万石)と譜代大名が入れ替わりつつ城主を務め、享保9年(1724)に柳沢氏(15万石)が入城し、明治に至りました。


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<発掘調査で天守礎石を検出>


平成26年(2014)9月12日、大和郡山市教育委員会は、天守台の発掘調査で、天守の礎石を検出したと発表しました。
遺構には改修痕が無く、また、出土した瓦から、天守は16世紀末の豊臣政権期(秀長・秀保・増田長盛)に建てられたと考察しています。

翌日、このニュースは新聞各紙に写真や図版入りで大きく紹介され、注目を集めました。

お城博士としてお馴染みの奈良大学学長・千田嘉博氏は
「16世紀の天守の構造が判明したのは、安土城を除くと初めての例であり、今後の城郭研究の基準となる貴重な発見」
と、評価されています。(9月13日付・読売新聞)






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私も、これはぜひ自分の眼で見てみたいと思いました。
そして様々な予定を調整して、9月20日に実施された「郡山城天守台発掘調査現地説明会」に行ってきました。

以下、写真を交えつつ、現地説明会の内容および、実見した感想について簡単に触れてみます。




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郡山城の本丸に残る天守台です。
高さ約8.5メートルの石垣で築かれています。
この上に、天守が建っていました。

石垣は、自然石を積み上げた野面積み(のづらづみ)です。
この石垣は、自然石の他に、寺院などから徴発してきた石仏・礎石といった転用石が多く含まれるのが特徴です。
当時、興福寺の僧侶が記した『多聞院日記』には、
<秀長が郡山城の大改修にあたって、興福寺境内から大小さまざまな石を運び出した。>
と記されています。
文献史料の記述との一致がたいへん興味深い石垣です。

なお、この写真に写っている石垣の角(天守台北東隅)に注目して下さい。
地表面から3段目までの石が、他とは色(材質)が異なり、丁寧に四角く加工されています。
これらは、平城京の正門であった羅城門の礎石を転用したものと伝えられています。




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それでは、天守台上の発掘調査現場に向かいます。
危険防止のため、見学者は10人ずつくらいに区切って、交代で天守台に上りました。



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発掘調査現場に到着しました。

・・・今から20年余りの昔、大学時代を奈良で過ごした私は、暇があればよくここを訪れていました。
当時、天守台の中央には植樹の記念碑が建ち、周囲にはベンチが置かれて小公園のようになっていました。
訪れる度に、礎石が残っていないことを残念に思っていました。

しかし、実際には足元わずか20センチメートルほどの地下に、これほどの遺構が眠っていたのです。



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発掘された天守台の上面です。

見学用の足場は、天守台の南端に北に向かって設けられていました。
以下、4枚の写真は、視界の左から右、つまり西から東に順に撮ったものです。



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発掘の結果、良好な状態で残る礎石は23個確認されました。



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よく見ると、小さな石が集中的に敷き詰められている部分があります。
これらは、礎石を据える位置の地盤を固めた根石(ねいし)です。

根石の残存から、失われた礎石の存在を知ることが出来ます。


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天守の入り口です。


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説明用に掲示されていた実測図です。

礎石の配置から、郡山城天守の1階の規模は東西7間×南北8間と確認されました。
また、1階の規模をもとに、建物の高さは約20メートル、四重五階もしくは五重五階の天守だったと推定されました。


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天守台の床面上から出土した軒丸瓦(のきまるがわら)です。
豊臣期の大坂城の瓦と同じ型にはめて造られたものと確認されました。



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他に、聚楽第に類例のある軒平瓦(のきひらがわら)や、

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鯱瓦や鬼瓦の一部も出土しています。


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さらに、天守台の南に付属する付櫓台(つけやぐらだい)の地下からは、金箔を貼った瓦の破片も出土しました。
これらの出土品は、「豊臣の城」としての郡山城の性格を示す貴重な発見です。


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これまでは、郡山城天守は文献史料のわずかな記述から、その存在をうかがい知るばかりでした。
今回の天守台発掘調査の成果によって、幻の天守が一躍その姿を具体的に示し始めたと言えます。

なお、天守台石垣は、北・西面のはらみがひどく、このまま放置すれば崩壊の危機にあります。
石垣の修理(積み直し)と、天守台を展望の場として整備する工事に先立ち、遺構の確認を行ったのが今回の発掘調査でした。
全ての工事が完了して、天守台の見学が可能になるのは、平成29年(2017)2月の予定です。
なお、その過程で新たな遺構の発見があれば、また現地説明会が開催されるそうです。

幻のベールを脱いだ郡山城天守。
さらに実態が解明されてゆくことを大いに期待します。






中津城を歩く <宇都宮鎮房、無念の最期>  ~ 軍師官兵衛ゆかりの城 �-2 ~

2014-09-14 19:33:12 | うんちく・小ネタ
中津城  なかつじょう  (大分県中津市)



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中津城の本丸跡です。
奥まった一角に、うっそうと森のように木が茂った場所があります。
ここには、城井神社(きいじんじゃ)、扇城神社(せんじょうじんじゃ)という2つの小さな神社が祀られています。

天正16年(1588)4月、築城工事が進む中津城において、凄惨な暗殺が行われました。
黒田長政謀略を用い、宴会に招いた宇都宮鎮房(うつのみや しげふさ)を殺害したのでした。

これらの神社は、宇都宮鎮房とその家臣たちを供養するために建てられたものです。



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城井神社には、宇都宮鎮房が祀られています。




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扇城神社には、鎮房とともに討ち果たされた宇都宮氏の家臣たちが祀られています。





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<確執の始まり>


天正15年(1587)7月、黒田官兵衛・長政父子は、豊臣秀吉から与えられた豊前国6郡の新領地に入りました。
石高にすると12万石強あり、播磨国山崎の旧領から一躍3倍の加増です。
しかし、この領地を統治するにあたって、先ず解決しなければならない課題がありました。

元々、豊前国6郡には統一勢力は無く、中小規模の領地を持つ豪族たちが割拠していました。
秀吉が九州へ兵を進めると、ほとんどが戦わずその軍門に降りました。
そして、引き続きそれぞれの領地を治めることを承認されていたのでした。

その上で秀吉は、豊前国6郡を官兵衛に与えたのです。
これは、決して秀吉の方針がブレたわけではありません。
秀吉の天下構想では、平定した地方は秀吉が任命した大名に統治させるというのが大前提でした。
戦国時代以来の中小規模の豪族たちは、大名の家臣に組み込まれることで、武士としての存続が認められました。

つまり、官兵衛が与えられた12万石は、「やった、増収だ!」と手放しで喜べるものではありません。
まず、この地方に割拠する中小規模の豪族たちを黒田家臣団に組み込むこと。
そして、領民の端々にまで秀吉の支配体制を浸透させること。
このノルマを達成して、晴れて12万石の大名になれるという課題付きの報酬でした。
これは諸刃の剣の大変厳しい課題です。

同じ時期、肥後国を与えられた佐々成政は、豪族たちの反抗を抑えるのに失敗しました。
その結果、大規模な一揆が勃発。
成政は、毛利氏にまで援軍を要請して何とか一揆を鎮圧しましたが、責任を問われ領地は没収、切腹させられました。


さて、官兵衛の豊前国6郡ですが、やはり豪族たちの説得に苦心したようです。
その一方で、好意的に家臣になって協力してくれる豪族も居ました。
官兵衛はよほど嬉しかったのか、後に黒田姓を与えて一門として待遇した者もありました。

しかし、ここに一筋縄では行かない人物が登場します。
豊前国の城井谷(きいだに/現・福岡県築上郡築上町)に城を構える宇都宮鎮房です。




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<戦闘、そして和睦>



鎮房の宇都宮氏は、その名の通り下野国(現・栃木県)の豪族の末裔です。
文治3年(1187)、宇都宮信房が源頼朝から豊前国内で地頭職を与えられ、城井谷に居館を構えました。
さらに信房は、豊前国各地に一族・子弟を配置ました。
その一門が、戦国時代まで勢力を保ちます。
そして、秀吉の九州平定を迎えた当主が宇都宮鎮房で、城井谷の奥の大平城(おおひらじょう)を居城にしていました。



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宇都宮鎮房については、実は史料が非常に少なく、後世に書かれた物語をベースに語られることが多いのです。
よく言われるのが、

「鎮房は、秀吉から伊予国の今治に領地替えを命じられたが、それを拒んだ。
その結果、領地を没収されてた。
一時は城井谷を退去するも、再び戻って挙兵した」

という挙兵までの経緯です。

しかし、いかに鎌倉時代以来の名族だからといって、秀吉は九州平定に何の戦功も無い宇都宮氏をいきなり大名に抜擢するでしょうか?
また、秀吉が実際に伊予国へ配置した大名は、加藤嘉明や藤堂高虎など、後に朝鮮出兵で水軍として活躍した武将たちです。
水軍に無縁な山間部の豪族・宇都宮氏を伊予国に領地替えしようと考えていたというのは甚だ不自然です。
私は、「伊予国に領地替え」の話は後世につくられた物語と考えています。

それはともかく、天正15年(1587)10月、宇都宮鎮房は官兵衛に反抗し、大平城で挙兵しました。
鎌倉時代以来の一門たちも共に兵を挙げました。
城井谷は全長17キロメートル、奥の大平城へ至る途中には、多くの出城や砦が構えられていたようです。
ここに攻め込んだ黒田長政は、反撃に遭い敗退、後藤又兵衛も重症を負いました。

しかし黒田勢には、毛利勢の大軍が援軍に加わりました。
城井谷入り口の要衝であった広幡城も落城。

城井谷を徐々に制圧した黒田勢は、大平城の間近に付城(攻撃のための拠点となる城)を築きました。
そして、年末近くになって、宇都宮鎮房はこれ以上の抗戦は不可能と判断、人質を出して官兵衛と和睦しました。


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<だまし討ち>


天正16年(1588)4月、宇都宮鎮房は長政から宴会に招かれ、中津城を訪れました。

宴会というのは偽りで、長政は最初から鎮房を殺害し、禍根を絶つつもりでした。
従えてきた家臣たちの多くが城下の合元寺で待機させされ、鎮房と共に登城した家臣はわずかでした。
そんな状況で襲われた鎮房は、あえなく白刃の下に斃れたのでした。






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現在の合元寺です。
この寺は、珍しいことに赤い壁をしています。

鎮房が殺害された後、ここで待機していた家臣たちも押し寄せた黒田勢に斬殺されました。
その時に飛び散った地が壁を赤く染め、以後、何度塗り直しても血の色が染み出してくるので、壁そのものを赤くしたと伝わっています。


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また、屋内の柱には、その乱闘の際の刀傷が今も残っているそうです。



中津城を歩く。  <新天地で築いた城に見る、「軍師」の真骨頂>  ~ 軍師官兵衛ゆかりの城 ⑫ ~

2014-09-05 00:21:34 | うんちく・小ネタ
中津城  なかつじょう    (大分県中津市)



NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」 、いよいよ舞台は九州へ移りました。
新たなステージで、どんな物語が繰り広げられるのか、今から楽しみです。


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天正15年(1587)3月、豊臣秀吉は25万人という空前の大軍を率い、九州遠征を開始しました。
島津氏を盟主とする九州の反・秀吉勢力も、圧倒的な兵力差は如何ともし難く、次々と撃破されてゆきます。
そして、秀吉本軍が薩摩国に攻め込んだ時、島津義久は降伏しました。

6月、九州平定を成し遂げた秀吉は、九州における新たな大名配置を発表しました。
これによって、黒田官兵衛には豊後国のうちで6郡、石高にして12万石の領地が与えられます。
その代わり、播磨国の内にあった従来の領地は、返上となりました。
播磨国から豊後国へ、一族郎党率いての転勤です。

7月、豊後国の新領地に入った官兵衛は、先ずは京都郡(みやこぐん)の馬ヶ岳城を居城としました。
現在の福岡県行橋市です。
馬ヶ岳城は、標高216メートルの険しい山上に築かれた山城です。
九州平定を成したとは言うものの、征服された側の不満はまだまだ各地に燻っています。
官兵衛も不測の事態に備え、既存の山城を選ばざるを得なかったのでしょう。

やがて官兵衛は、宇佐郡にあった時枝城(ときえだじょう)でも政務を執ったようです。
現在の大分県宇佐市です。
時枝城は、広々とした平野の只中に築かれた平城です。
宇佐郡は、時枝氏をはじめ官兵衛に協力的な領主が多く居ました。
臨戦態勢から、治世へと段階を進展させようとする官兵衛の意志が感じられます。

翌・天正16年(1588)1月、官兵衛は山国川河口の中津の地を選び、新たな築城に着手しました。
中津城です。
この築城は、官兵衛の本格的な新領地支配の始まりを告げるものでした。


それでは、中津城を歩いてみましょう。
今に残る城の遺構の中に、当時の官兵衛の思いを窺えるものが有るかも知れません。




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現在の中津城は、本丸に五重天守が建っています。

これは、昭和39年(1964)に観光用に建てられたもので、史実とは無関係の模擬天守です。
但し、この角度からの眺めは、手前の二重櫓(実はこちらも模擬建築)と共に、なかなか風格があって見事です。
中津城で記念写真を撮るならば、ぜひこの場所をお勧めします。

ちなみに、官兵衛が中津城に天守を建てたかどうか、実は確認できる史料が無くて明らかではありません。
今後の研究に期待です。




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山国川の対岸から見た中津城です。

中津城は、西側は山国川の河口、北側は海(周防灘)を天然の堀として築かれました。
川沿いに延々と築かれた石垣は、今も良く残っています。

このように石垣が自然の水辺に接する城を「水城」(みずじろ)と呼びます。
さらに、その水辺が海の場合は「海城」(うみじろ)と呼ぶこともあります。

中津城は、高松城(香川県高松市)、今治城(愛媛県今治市)とともに、「日本三大海城」と呼ばれています。





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これは、中津城跡の説明板に掲載されている見取り図です。
江戸時代後期に描かれた絵図を元にしています。

山国川を背後の守りとして、南と東に堀を廻らせた城の縄張は、おおまかに見ると直角三角形をしています。
この形は、扇にもなぞらえられました。
そのため、中津城は別名を「扇城」(せんじょう)とも呼ばれます。

この直角三角形の縄張には、どういった意図があるのでしょうか?
官兵衛は、その秘密を明かしていないので、これは永遠の謎です。
現代の研究では、
「山国川を除く南側と東側に敵の攻撃ルートを限定し、迎え撃ち易くする工夫」
との解釈もされていますが ・・・ さて真相はいかに???

なお、官兵衛築城の中津城は、黒田家の後に城主となった細川家の手で大改修されました。
しかし、近年行われた石垣の調査によって、本丸を中心とした基本プランは、おおよそ官兵衛の縄張が踏襲されていることが分かりました。





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本丸南側の堀と石垣です。
近代以降、この堀は埋められ民家が建っていました。

近年、堀は旧状どおりに復元されました。



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ここでは石垣に注目して下さい。
水面上にそびえる石垣を良く見ると、ちょうど中間くらいの高さで石材の大きさが変わっているのが分かります。

下のほうの、やや大ぶりな石材を積んでいるのが官兵衛築城当時の石垣、上のほうは細川家による増築です。




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山国川に沿って残る本丸石垣です。
大部分が、官兵衛の築城当時の遺構です。

かつては石垣の裾は、川の流れに洗われていましたが、現在は遊歩道が造られ散策できます。
石垣を観察しながら歩いてみましょう。

こうして見ると、川沿いの石垣は、特に大きな石が集中的に使用されているのが分かります。


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また、石垣の角部分には丁寧に加工された石が積まれています。
これは、山国川の川上にある唐原山城(とうばるやまじょう)という7世紀に築かれた城の石垣を解体して転用したものです。

川沿いの石垣は、石を選び、見栄えを意識して築かれていると言えます。
この事は、こちら側は決して城の裏側ではなく、水運の上ではむしろ城の表玄関だったということを示しているのではないでしょうか。




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石垣は、まだまだ様々なことを語りかけてくれそうです。





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それでは、模擬天守に上ってみましょう。



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模擬天守とは言うものの、すでに築50年です。
今やすっかり中津のシンボルになっています。



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模擬天守の最上階からの眺望です。

眼下を流れる山国川の向こうには、海が広がっています。
長年、川が運んだ土砂の堆積と、海岸の干拓によって、海は官兵衛の時代より遠くなっています。
しかし、この景観は中津城が海運を意識して築かれた城だということを如実に語っています。

中津城は、海路で瀬戸内海を経て、播磨、そして大坂城と直結しているのです。
さらに、海は世界へと通じているとも言えます。
この景観を見ながら、ここに居城を築いた官兵衛が何を構想していたか、
しばし思いをめぐらせてみるのも面白いでしょう。