清須会議・主人公たちのその後② - 柴田勝家編 -

2014-01-26 22:18:16 | うんちく・小ネタ
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 (柴田勝家画像)



(かたく)なに貫こうとした 織田家への忠義



天正10年(1582)6月27日の清須会議の後、私生活の面で最も変化があったのは柴田勝家です。
亡主・織田信長の妹で、美人の評判が高い お市を妻に迎えました。

このことは、とかく艶めいたイメージで後世に語り継がれ、江戸時代に書かれた物語には、
「勝家は、お市の色香に溺れてしまい、そのため秀吉との勝負が後手後手にまわり、滅亡した」
と、まことしやかに述べているものもあります。
もちろん、取るに足りない作り話です。

勝家と お市の婚姻がいつ行われたか、その月日を特定できる史料はありません。
諸々の状況から推測して、天正10年の9月頃だったと考えられます。
仕掛け人は、おそらく織田信孝でしょう。
清須会議で圧倒的に有利な立場になった秀吉に対抗するため、勝家を織田家一門に昇格させ、その発言権を強化するための政略結婚でした。
勝家・お市の年齢は諸説ありますが、翌天正11年4月24日に2人が越前・北庄(きたのしょう)城で自害した時、勝家は62歳、お市は37歳だったと伝えられています。(「柴田勝家始末記」)


結果的に勝家は、秀吉との政治争いに翻弄され、賤ヶ岳合戦で敗れ、北庄城で滅亡してしまいました。
後世の歴史書には、これを
「勝家は、野戦攻城を得意とし、軍司令官としては適任だった。しかし、政治家としての能力は秀吉には遠く及ばず、天下人の器ではなかった」
と、評しているものも有ります。

そう言ってしまえば、そうなのですが・・・。
ただし、勝家が目指したものは、天下人の座ではありません。
「亡主・織田信長が生涯をかけて拡大した領地を、織田家筋目の者に継承させ、重臣たちでそれを補佐してゆく」
これが勝家の切なる願いでした。
勝家が秀吉に再三出した手紙の中でも、
「敵対する大名(上杉氏・北條氏・毛利氏など)が多い中、織田家臣団の内輪での戦いは何としても避けるべきだ」
という趣旨のことを力説しています。

亡き主君への忠義を貫こうとした勝家。
なりふり構わず、自らの天下盗りを目指す秀吉。

皮肉にも、多くの織田家臣団の支持は秀吉に集まりました。
個人の能力もさることながら、時代の流れも秀吉に味方したのでした。


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<現地探訪>

平成19年(2007)5月、福井市にある北庄城の跡を訪ねました。


B5

JR福井駅の西口を出て、5分ほど歩いたところに柴田神社があります。
ここは、北庄城の天守跡と伝えられる場所で、江戸時代に祠(ほこら)が建てられ柴田勝家の霊が祀られていました。
明治になって祠は神社に格上げされ、現在の柴田神社に至っています。
境内は歴史公園として整備されています。



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B155

公園の奥には、昭和42年(1967)に建てられた柴田勝家の銅像があります。
長槍を持って床几に腰掛けた勇壮な姿です。

この20年前ほどに来たときには、背後に高い松の木が枝を張って、とても絵になっていました。
今はそれが失われ、ビルの壁がむき出しになっているのが残念です。
二代目の松の生長を期待します。



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B50

また、公園の一角に無料で見学できる資料館が建っています。
今や幻となった北庄城について、パネルや史料で分かり易く解説しています。

北庄城は、足羽川と吉野川を天然の堀として活用した城だったんですね。なるほど・・・・。



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B33

資料館のもう一つの展示テーマは、柴田勝家が福井に残した偉業です。
勝家が北庄城を拠点に越前を領有していたのは、わずか8年足らずの間でした。
しかし、その間に城下町の建設、街道や橋などのインフラ整備、商業の振興など様々な政策を行っています。
そうした諸政策は、のちに「福井」と名を改めたこの地が発展してゆく基礎になりました。

写真は、九頭竜川に架かっていた舟橋の鎖です。
暴れ川で架橋が不可能とされていた九頭竜川に、天正6年(1578)に勝家が舟橋を架けたことにより、北陸道の交通事情は向上しました。



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この日はもう一ヵ所、柴田勝家ゆかりの地を訪ねました。
北庄城跡から西南西に約500メートル、足羽山の麓近くまで歩いてみると・・・・

そこに勝家の菩提寺・西光寺があります。


B164

現在は保育園も併設されています。
一見したところ、よくある町中のお寺です。



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B169

境内には、勝家と お市の墓所があります。




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B175

また、こちらにも勝家ゆかりの史料を展示した資料館があります。
まずは、奥に祀られた勝家・お市夫妻の位牌所にお参りしました。



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B176

位牌所に安置された柴田勝家の木像です。


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こちらは、お市の木像です。

天正11年(1583)4月24日、北庄城最期の日。
・・・ ちなみに、この日付は旧暦です。現在の太陽暦に直すと、6月14日になります・・・


勝家が、「夏の夜は 夢路はかなき跡の名を 雲居にあげよ山郭公(ほととぎす)」 と辞世の句を詠みます。
お市はこれに対し 「さらぬだに 打ちぬる程も 夏の夜の 別れを誘ふ ほととぎすかな」 と詠んで応えました。
お市が応えた辞世の句には、勝家に対する気持ちがよく現れているように思えます。

西光寺を訪ねる機会があったら、みなさんも勝家・お市夫妻の木像の前で、静かに思いを巡らせてみてはいかがでしょうか。

なお、この資料館には、北庄城跡で出土した石製の鬼瓦や、勝家の馬印 「金の御幣」など、貴重な史料が展示されているので必見です。