紅葉の名所のお城① - 盛岡城

2012-10-28 22:57:32 | 歴史
現在、公園化されている近世の城跡は、多くが桜の名所になっています。
そんなお城でお花見をされたことがある方は、案外と多いかと思います。

さて、まもなく11月。紅葉真っ盛りの季節ですね。
紅葉を楽しめる場所といえば、都会を離れた山奥の風景をイメージしがちですが、実は街中の城跡でも見事な紅葉を見せてくれる場所があります。
過去に撮った写真から、いくつかご紹介しましょう。まずは・・・


盛岡城 (岩手県盛岡市) -2007年11月16日撮影-


慶長3年(1598)、南部利直が築城を開始。断続的に普請を続け、寛永年間(1624~44)初期に完成。
以後、明治まで南部家歴代が居城しました。


現在、城跡には移築復原された二階蔵の他に城郭建築は残っていませんが、花崗岩の巨石を豪快に積み上げた石垣は、東北地方屈指と評されています。

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三ノ丸の石垣。



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この城の石垣は、「豪快さ」と「精巧さ」を併せ持つといった感じでしょうか。



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紅葉に染まった三ノ丸。奥の石垣は二ノ丸。


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枝ぶりも何だか芸術的に思えてきます。


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二ノ丸と本丸を結ぶ廊下橋。


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本丸に入ると、頭上いっぱいに紅葉が覆いかぶさってくる心地です。


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白い石垣に紅葉の赤が映えます。


聚楽第 -発掘された本丸石垣-④

2012-10-25 23:40:37 | 歴史
写真は、今回発掘された聚楽第の金箔瓦です。
石垣のすぐ南から出土しました。


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金箔瓦は、漆を接着剤として、瓦の瓦当(がとう:瓦を屋根に葺いた時、軒先に面する部分。通常、文様が凹凸で表現されている)に金箔を貼り付けてあります。

金箔瓦は、織田信長によって考案されたと考えられています。信長は自らの居城である安土城を金箔瓦で飾り、限られた一門の城以外では金箔瓦の使用を認めなかったようです。
そして、信長政権を継承した秀吉もこのスタイルを継承しました。但し、一門以外でも特に信頼する大名、活躍を期待する大名には金箔瓦の使用を認めたことが、各地の城郭の発掘調査で確認されています。

なお、安土城で出土する金箔瓦は、文様部分の凹面に金箔が貼られています。
それに対し、秀吉の大坂城・聚楽第・伏見城で出土する金箔瓦は、文様部分の凸面に金箔が貼られているという違いがあります。今回出土した瓦を良く観察すると、確かに文様部分の凸面に金箔が貼られています。


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文様部分の凹面に金箔を貼る「信長方式」と、凸面に金箔を貼る「秀吉方式」。
この違いは何を意味するのでしょうか?

最近の研究では、「信長方式」は技術的に手間がかかって難しいけれど、風雨に晒される環境での耐久性を優先したもの。「秀吉方式」は作業を簡略化し、とにかく大量生産を優先したもの。 という見解があります。
確かに秀吉の金箔瓦の使用量は、信長を圧倒しており、なかなか説得力の有る説です。

ひょっとすると、秀吉はただの「サル真似」になるのがイヤで、信長とは金箔の貼り方を逆にしたのかも・・・。
私がたった今、思い付いたこの説などは、いかがなものでしょうか?


聚楽第 -発掘された本丸石垣-③

2012-10-24 01:41:48 | 歴史
さて、先に紹介した石垣の写真を見て、お城好きの方は「おや?」と、疑問を感じたかも知れません。ではもう一度、今度はやや拡大した石垣の写真を見てみましょう。


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いかがでしょうか。
石垣の裏側に詰め込まれた栗石(ぐりいし)が、近世城郭の一般的な石垣に比べてかなり小ぶりなのです。
栗石は石垣を裏から支え、また、石垣の裏の排水を良くして、石垣に余分な水圧がかかるのを防ぐという役割があります。
近世城郭でよく目にする石垣では、通常は小さいもので握り拳くらい、大きいものは人の頭くらいの大きさの栗石を混在させて使っています。
それに対し聚楽第のこの石垣は、手の平に軽々と乗せられるような小ぶりな河原石をぎっしりと裏側に詰め込んでいるのが特徴的です。


なぜこうした構造になっているのでしょうか。その理由をうかがえる史料があります。
天正14年(1586)と推定されている三月十三日付の「前田玄以黒印状」です。

この書状で前田玄以は、下鴨神社に対し、

 「地元の人足を使って、鴨川の河原の栗石を三十荷、今日明日中に聚楽に届けられよ」

と命じています。 (※前田玄以は、秀吉政権下で京都所司代を務めた武将)


 「今日明日中に届けられよ」という文言から、突貫工事の様子が見て取れます。加えて突貫工事ゆえの資材不足・人員不足も一時的に発生していたのかも知れません。
こうした背景によって、下鴨神社に命じ、地元の人足まで徴用し、近場の鴨川から小ぶりな河原石までも採集させたとも考えられます。
今回発見された石垣は、聚楽第の築城当時の模様を物語る生き証人と言っても良いのではないでしょうか。



聚楽第 -発掘された本丸石垣-②

2012-10-21 23:54:43 | 歴史
 平成24年秋、京都府警の宿舎建設工事に伴って実施された発掘調査で、聚楽第の本丸南側の堀と石垣の一部が検出されました。聚楽第の本丸については、過去に行われた発掘調査で本丸東側の堀の肩(本丸との段差)が確認されていましたが、石垣を検出したのは今回が初めてです。10月7日、京都府埋蔵文化財調査研究センターによる現地説明会が開催されました。
 その時の解説と、配布された「現地説明会資料」をもとに、今回の発掘調査の成果で見えてきた聚楽第の構造を以下にまとめてみました。

1.はじめて本丸の堀の石垣を検出した。
石垣の工法は16世紀末の特徴を備えている。(石材は主に花崗岩)

2.堀の石垣を積み上げた背後に盛土を築いてある。
盛土は、南北幅5メートルで土と石を盛って固く叩き締めてある。
盛土の郭内側にも石垣を築き、石塁として本丸を囲んでいたと考えられる。
さらにその上には、土塀が建てられていたことが想定できる。

3.石垣と盛土の背後にある整地層の北側に2メートルの高低差があった。
本丸内部に壇が造成されていたと考えられる。

4.本丸南堀北端の正確な位置が判明した。(従来の復原案よりも南に位置する)




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現地説明会が行われたトレンチ です。
画面左端の日陰の中に石垣があり、その右の人物が立っている辺りが盛土、さらに右側の平坦面(整地層)を経て、地山がせり上がっている所が本丸内の壇と考えられる高低差です。





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初めて確認された本丸石垣です。8個の石が二~三段に積まれた状態で検出されています。
画面手前の水が溜まっている部分は、江戸時代に掘られた井戸の跡。石垣を破壊して掘り抜いています。
なお、この井戸跡を挟んで石垣の石があと3個検出されているそうですが、トレンチの死角になって撮影できませんでした。


聚楽第 -発掘された本丸石垣-①

2012-10-14 23:12:38 | 歴史
 聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、天正14年(1586)、豊臣秀吉が関白の政庁兼邸宅として、京都に築いた城郭構えの屋敷です。
 聚楽第・・・何とも難解に感じる名前ですが、「聚」という字には「あつめる」という意味があります。また、「第」という字は音読すれば「テイ」ですが、「亭」や「邸」と同じく「やしき」を意味します。つまり、聚楽第を直訳(?)すれば「楽しみを集める屋敷」ということになります。
 さて、「楽しみを集める」とは、何を示すのでしょうか?

 そのヒントは、天正16年(1588)4月、秀吉が後陽成天皇を聚楽第に迎えた時の様子を、秀吉自ら命じて記録させた『聚楽第行幸記』の中に記されています。同書には「爰(ここ)において行幸有べしとて聚楽と号して里第をかまへ」(意訳 : ここに天皇を迎える目的で、聚楽と名づけた屋敷を構えた)とあり、「聚楽」という名称には、天皇を迎えたいという秀吉の強い意志が籠められていることが分かります。
 さらに、「誠に長生不老の楽を聚むるものか」という記述があり、さり気なく命名の由来の核心に触れています。・・・しかし、この「長生不老」はどうやら秀吉の造語らしく、どのように解釈するかが難しいところです。(似たような語呂でも、「不老長寿」とは違うでしょう。それでは天皇行幸と意味がつながらなくなってしまいます)

 思うに、秀吉は聚楽第に後陽成天皇を迎えて行幸の盛儀を行い、戦乱の中で断絶しかけていた舞楽も再興しました。また、この時期に臣下に加わった大名たちの謁見も多くが聚楽第を舞台とし、その際に行われた豪華な饗宴、あるいは侘び数寄の茶会、能や舞といった芸事、さらには室内を飾る狩野永徳の筆による障壁画などは、いずれも当時の最高水準の文化によるもので、秀吉はこれらを融和の材料として天下統一を仕上げてゆきました。
 至高の文化を結集して、天下泰平を推し進める。「楽しみを集める」の意味するところは、この辺にあるのではないでしょうか。

 天正19年(1591)、秀吉は関白職とともに聚楽第も甥の秀次に譲ります。しかし、やがて秀吉に実子・秀頼が誕生したことで秀吉・秀次の対立は深刻化してゆき、文禄3年(1594)秀吉は秀次を高野山に追放し切腹させました。そして文禄4年(1595)、秀吉はまるで秀次の痕跡を地上から抹消するかのように聚楽第を破却し尽くしてしまいました。

 現在、聚楽第の跡地はすっかり市街地となっていて、うっかりすると素通りしてしまうほどです。でも少し注意して歩くと、聚楽第や大名屋敷の跡を示す石碑を見つけたり、「山里町」「高台院町」といった町名に聚楽第の名残を感じることもできます。


 <※山里町は茶室を設けた山里曲輪に、高台院町は秀吉の妻おね(高台院)に由来すると言われています>


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