姫路城 -「平成の保存修理」いよいよ終盤、素屋根撤去の近況-

2014-04-22 23:35:45 | まち歩き
所用で姫路へ行ってきました。

 
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姫路城の近況です。

「平成の保存修理」もいよいよ終盤。
4年間、大天守を覆っていた素屋根(すやね)の撤去作業が進行中でした。


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真新しい漆喰(しっくい)で、化粧直しされた大天守が垣間見えます。


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この日は、あいにくの雨模様でした。
晴れた日には、ひときわ白さを実感できることでしょう。


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桜も種類によっては、まだ花を残していました。
来年のお花見シーズンには、桜と真っ白な大天守のコラボが楽しめるのですね。
きっと、今までに無いほどの脚光を浴びそうです。


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それにしても、周囲の文化財を傷つけないように、上手く工事設備を作ったものです。
現代の工学技術の素晴らしさを実感します。


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考えてみたら、この景観も姫路城の歴史のひとコマになるのでしょうね。
そんなことを思いながら、素屋根撤去の過程を見るのも、これまた面白いものです。





津山城探訪 - 今、話題の「江戸一目図屏風」の実物を見学しました -

2014-04-20 12:37:27 | うんちく・小ネタ
西日本では、桜の季節も過ぎましたが、津山城探訪記の続きです。


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南から見た津山城です。

手前に見える水路は、かっての外堀の名残りです。


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橋を渡った突き当たりに、津山城を背にして洋館が建っています。
昭和9年(1934)に建てられた旧・津山市庁舎です。

現在、津山郷土博物館になっています。


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この博物館には、とても精巧な津山城の復元模型が展示されています。

何度見ても、これはスゴイ・・・・!!
かつての勇姿を、リアルに実感できます。

津山城に行かれた折には、津山郷土博物館も一緒に見学されるのがオススメです。


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さて、もう一つ、ぜひ見ておきたいのがこの屏風です。


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(HP写真より/以下同じ)



江戸時代後期の文化6年(1809)、津山藩お抱え絵師が描いた「江戸一目図屏風」 (えどひとめずびょうぶ) です。
その名の通り、江戸の町を一目で見渡せるパノラマ鳥瞰図です。
今回はラッキーなことに、実物を見ることができました。
(実物公開は、2014年5月6日までの予定)

この「江戸一目図屏風」は、東京スカイツリーから見た景色と構図が極めて一致するということで、近ごろ話題になっています。
ちなみに、東京スカイツリーの展望デッキ(地上350メートル)には、この屏風のレプリカが展示され、現在の眺望と
約200年前の江戸時代の街並みを比較できるようにしているそうです。


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ところで、この「江戸一目図屏風」の構図と、現代の東京スカイツリーから見た景色は、なぜこんなに一致するのでしょうか?
もちろん、偶然と言ってしまえば、それまでなのですが・・・。

屏風を細かく観察してゆくと、偶然の一致が生まれたのには、明確な理由があったことが分かります。

この屏風は一見したところ、江戸城を構図の中心にすえて、そこから広がる江戸の町並みを描いているように思えます。
しかし、本当の構図の中心は、どうやら別にあるようです。

屏風の中央あたりを拡大して見てみましょう。

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赤い○印で囲ったところには、津山藩の江戸藩邸(上屋敷)が描かれています。
実は、これこそが屏風絵の中心なのです。

絵の構図を

まず中心に津山藩の江戸藩邸をすえて、
その背景に江戸城と富士山があって、
そして、そのお膝元に江戸八百八町が広がる・・・。


と、設定して屏風を描いたら、必然的に現代の東京スカイツリーから見た景色と同じ構図になったようです。
200年の時を越えた、運命のイタズラと言ったところでしょうか。


ちなみに、津山藩の江戸藩邸が建ってた場所は、江戸城の鍛冶橋門内です。
現在、そこは東京駅の南側にあたり、一部は東京駅の敷地になっています。


桜満開!津山城を歩く。  ~国持大名のプライドと、亡き父と兄たちへの思いで築いた大城郭~

2014-04-11 00:01:24 | まち歩き
思いがけないところで、振替休暇が舞い込んで来ました。
ならばこの機会に!と思い立ち、車を走らせて津山城の桜を見てきました。

桜の名所になっているお城は数多ありますが、ここ津山城(鶴山公園)は
「日本さくら名所100選」にも入選しているだけあり、予想をはるかに超えた
美しさでした。



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津山城  つやまじょう (岡山県津山市)


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津山城は、森忠政(もり ただまさ)が築いたお城です。

森忠政と聞いても、あまりピンとこない方も多いかも知れません。
忠政は、織田信長配下の猛将で、姉川合戦でも活躍した森可成(もり よしなり)の六男です。
また、信長の小姓として有名な森蘭丸(史実では「乱丸」と表記)は、忠政の兄(三兄)です。

忠政は、末っ子の六男なので、本来ならば大名になれる立場では無かったのかも知れません。
ところが、森家が相次ぐ悲運に見舞われ、忠政もその渦中に巻き込まれてゆきます。
長兄・可隆(よしたか)と父・可成は、浅井氏・朝倉氏との戦いで戦死。
信長に小姓として仕えていた三兄・蘭丸、四兄・坊丸、五兄・力丸は、天正10年(1582)の本能寺の変で戦死。
そして、家督を継いでいた次兄・長可(ながよし)も、天正12年の小牧長久手合戦で戦死してしまいます。

こうして、六人兄弟の中で一人生き残った忠政は、幼くして家督を継ぎました。
そして、元服後に秀吉政権下で大名に取り立てられ、美濃国の金山城主となりました。
さらに、秀吉が没した慶長3年(1598)、忠政は信濃国へ国替となり、松代城主となりました。

慶長5年の関ヶ原合戦では、忠政は徳川家康の東軍に属しました。
その戦功で慶長8年、信濃松代13万7500石から美作国18万6500石へ、加増のうえ国替となりました。
そして、慶長9年から津山城の築城を開始、
足かけ13年を要し、元和2年(1616)に完成しました。

当時、18万6500石というと、石高としては中堅クラスの大名です。
しかし津山城は、そのレベルをはるかに超越したスケールの大城郭でした。
城が立地する鶴山には、幾重にも高石垣が廻らされ、曲輪群を構成しています。
その石垣の上に、五層天守をはじめ、30棟を数える櫓が建ち並ぶ威容は、中国地方でも屈指のものでした。
忠政は、なぜ津山城をこれほど壮大に築いたのでしょうか?

おそらく、「国持大名」(くにもちだいみょう)としての自負心でしょう。
大名の中でも、一ヶ国を丸ごと領有する者を「国持大名」といいます。
これは、大名として最高ランクの格式と位置付けられていました。
忠政は、美作一国を丸ごと領有する「国持大名」となり、格式では肥後の加藤清正(熊本城主・58万石)、
播磨の池田輝政(姫路城主・52万石)と並んだのです。
そのプライドが、これほどの大城郭を築く動機になったのでしょう。
また、志半ばで戦場に散っていった父親や兄たちへの思いも籠っていたのかも知れません。




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桜花爛漫、津山城を訪ねて


 〈撮影 : 平成26年(2014)4月9日〉


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吉井川の対岸から見た津山城。

ひな壇状に、幾重にも石垣が廻らされています。


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三の丸の石垣と桜。


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表中門(おもてなかもん)の跡。

石段を登り詰めたら二の丸に至ります。
広々とした石段は、まるで宮殿の入り口のようです。


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備中櫓(びっちゅうやぐら)

天守に次いで、津山城のシンボル的な建物でした。
明治初年、他の建物とともに破却されましたが、平成17年(2005)に忠実に復元されました。

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本丸石垣と桜。


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天守台の上から見た備中櫓。


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天守曲輪から、城下町西方を見る。

まるで、桜の雲海に浮かんでいる心地です。


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本丸の北東部、粟積櫓(あわづみやぐら)跡から見た、月見櫓跡の高石垣。

ここは城外に向かって突出する立地上、石垣を特に高く築き上げて防御力を高めています。


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天守曲輪の北西部付近の石垣。


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再び、備中櫓を見上げる。


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伊賀上野城  <もうすぐ桜だより2014 ②>

2014-04-01 23:28:21 | まち歩き
桜前線、順調に北上中です。
東京では、開花から4日で満開になったとか・・・。

ところで、春は人事異動の季節でもありますね。
今回は、それにもチョッピリ話をからめて、このコーナーの第2回目を行ってみましょう。


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伊賀上野城  いがうえのじょう  (三重県伊賀市)



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伊賀上野城は、天正13年(1585)に筒井定次(つつい さだつぐ)が築いたお城です。

筒井氏は、もとは奈良の興福寺に仕えた国人領主でした。
戦国時代末期、畿内に進出してきた織田信長に従い、大和一国を支配する大名に成長します。
信長の死後は豊臣秀吉に従いました。

大坂城を拠点とした秀吉は、大和国を大坂の東の備えとして重視します。
そこで、筒井氏を大和国から伊賀国に移し、大和国は新たに異父弟の秀長に与えました。
こうした「玉突き人事」の結果、誕生したのが伊賀上野城でした。
伊賀上野城には、大坂城の東の最前線を守るという役割が与えられました。

秀吉の死後、今度は徳川家康に政権が移り、再び大名の配置替え・・・つまり、人事異動が行われます。
そんな中、慶長13年(1608)に筒井定次は、失政を理由に領地を没収されてしまいました。
家康の本音は、単に筒井氏の存在が目障りだったのでしょう。
そして、代わりに伊賀国を与えられたのは、家康の信任が厚い藤堂高虎(とうどう たかとら)でした。

高虎は、慶長16年(1611)より伊賀上野城の大改修に着手しました。
改修というよりも、新規の築城というにふさわしい大規模な普請でした。
その目的は、大坂城攻撃の拠点の一つとするため。
伊賀上野城の役割は、まるで正反対のものとなったのでした。

高虎は伊賀上野城の本丸を西側へ拡張し、高さ28メートルの高石垣を築きました。
また、筒井氏時代の三層天守に代わるシンボルとして、新たに五層天守の建造を始めました。

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これが本丸西側の高石垣です。
大坂城本丸東側の石垣(高さ30メートル)に次いで、日本で二番目の高さを誇る石垣です。


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しかし、伊賀上野城の工事は遅々として進みませんでした。

まずは、財政的な問題です。
高虎の領地は、伊賀国(10万石)の他に、隣接する伊勢国内でも10万石を与えられていました。
あと、四国は伊予今治に2万石の飛び地があり、当時は合計22万石を領する大名でした。
その中で、本拠地は伊勢国の安濃津(あのつ / 現在の三重県津市の中心街一帯)と定め、津城を築城中でした。
つまり、津城と伊賀上野城の二つの城の工事を同時進行中で、さすがに財力的に無理があったようです。

また、とても忙しかった・・・。
高虎の名は、築城術の大家として鳴り響いていたので、家康からあちこちのお城の工事の責任者を任されます。
江戸城、名古屋城、伏見城、二条城、丹波亀山城、篠山城・・・
もちろん、家来たちをごっそり引き連れて家康の命じた築城現場に向かうので、その都度伊賀上野城の工事は、
中断を余儀なくされたことでしょう。

さらには、運も悪かった・・・。
苦労の末に、ようやく形になりつつあった伊賀上野城のシンボル・五層天守が、台風で倒壊してしまいます。

そうこうしているうちに、大坂冬の陣が勃発し、高虎も大坂に出陣。
翌年の夏の陣で豊臣氏は滅亡。
豊臣氏が滅亡したので、これ以上の軍備は必要なしということで、伊賀上野城の工事は打ち切られました。

すなわち、伊賀上野城は未完成の名城なのです。


 ・・・それにしても、人もお城も、ざまざまな運命に振り回されるものですね。




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桜の伊賀上野城を訪ねて


  <撮影:平成20年(2008)4月6日>


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伊賀上野城に建つ模擬天守です。
昭和10年(1935)、地元出身の代議士が、町のシンボルとして資財を投じて建てました。

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五層天守が建てられるはずだった天守台の上に、三層の模擬天守が建っています。
敷地が余るので、天守台の周囲に土塀をめぐらせています。 


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ここに来たら、ぜひ日本で二番目に高い石垣の上から、内堀を見下ろしてみましょう。
(柵が無いので、高所恐怖症の方にはオススメしません・・・)


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天守は模擬ですが、最上階から見るのどかな伊賀盆地の眺望は、なかなか魅力的です。