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久保田城を歩く。  ~ 秋の彩りが美しい、土塁造りの名城 ~

2014-07-31 23:36:03 | まち歩き
久保田城  くぼたじょう    (秋田県秋田市)





久保田城は、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)が築城しました。

慶長8年(1603)に着工し、翌年に完成。義宣が入城しています。
以後、秋田藩20万石・佐竹氏の居城として、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。



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   <本丸の表門>


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佐竹義宣、関ヶ原の「負け組」としての再スタート



佐竹氏は、元は常陸国(現在の茨城県)を支配する大名でした。

そのルーツは、平安時代後期の武将・源義光(源義家の弟)に遡るという名門です。
源義光は、新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)という通称の方が有名かも知れません。
ちなみに、武田信玄の武田氏、江戸時代の盛岡藩主・南部氏も、義光をルーツとしています。

さて、佐竹氏ですが、義光の孫・昌義が常陸国に下り、同国の久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を拠点としました。
そして、郷名にちなんで、佐竹氏を名乗りました。
以後、次第に常陸国内で実力を蓄え、鎌倉時代初頭には源頼朝も一目置くほどの勢力となっていました。

戦国時代、19代目の佐竹義重(さたけ よししげ)は、常陸国はもとより、下野国から陸奥国の一部にまで勢力を拡大します。
豊臣秀吉の天下統一後は、20代目の義宣(よしのぶ)が常陸国で54万石の領地を認められ、水戸城を居城としてました。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦を前に義宣は、徳川家康の指示に従い、会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を攻めるため、水戸城を出陣します。
しかし、石田三成の挙兵を知ると、途中で進軍を止め、水戸城に戻りました。
義宣は、豊臣政権に服属して以来、三成とは大変親しい間柄でした。何か示し合わせたものがあったのでしょう。
この態度が仇となり、戦後の慶長7年(1602)、家康によって石高を20万石に減らされた上で、出羽国秋田へ領地替えとなりました。



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   <二の丸から本丸を見る>


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新たな城と城下町の建設が、現在の秋田市街の礎に



秋田に移った義宣は、一旦、港町として栄えていた土崎湊城(みなとじょう)へ入城しました。
しかし、土崎は海岸の小さな町で、発展には限界があります。

そこで義宣は、領国支配の拠点として、新たな城と城下町の建設を考え、その地を秋田郡の窪田郷(くぼたごう)に定めました。
当時の窪田郷は、その名の通り低湿地でしたが、平野は広く、街道と雄物川水運の結節点でもあり、発展の可能性を備えていました。

慶長8年(1603)から、窪田郷の神明山(標高40メートル)に築城を始め、翌年完成。
土塁造りで複雑な縄張を持つ大城郭でしたが、天守は建てず、本丸南西隅に望楼を載せた御殿・御出書院(おだししょいん)を建ててその代用としていました。
また、8棟あった櫓も質素な外観をしていました。

義宣は、地名の窪田を 「久保田」 に改め、城は久保田城と命名しました。

城下町の建設は、低湿地の埋め立てに河川の改修も加わって難工事でしたが、最終的に寛永8年(1631)頃までかけて完成しました。

こうした義宣の「再スタート」の努力で誕生した久保田城と城下町が、現在の県都・秋田市につながっているのです。


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久保田城を歩く



それでは、久保田城を歩いてみましょう。
久保田城は現在、神明山に構えられた本丸・二の丸の一帯が、「千秋公園」(せんしゅうこうえん)となっています。

私が踏査したのは、たまたま晩秋の頃でした。
千秋公園の名にふさわしく、城跡はさまざまな紅葉に彩られていました。




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二の丸から本丸へ登る「長坂」(ながさか)です。



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長坂門の跡です。

久保田城は土塁造りの城です。
このように主要な門や通路に限定し、土塁の裾に土留めの石組みを築くのみで、石垣は全く築かれていません。

しかし、土塁は急峻で容易に登ることは出来ません。
また、この長坂に象徴されるように、土塁で複雑な導線を構築し、高い防御力を備えています。



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長坂を上り詰めたら、真紅の紅葉が枝を張っていました。

この場所に、御物頭御番所(おものがしら ごばんしょ)が建っています。
久保田城内に唯一現存する建築遺構です。



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この番所の名前は、「御物頭」という役職の武士の詰所だったことに因みます。

御物頭は、長坂門の管理の他、城下町の警備、火事の消火を任務としました。



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御物頭御番所の内部です。

外観は平屋建てですが、一部は二階建てになっています。



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本丸の正面入り口にあたる表門です。

表門は、別名を「一ノ門」と言います。
平成12年(2000)に復元されました。



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表門を見上げると、柱に扇の形をした紋様が飾られているのが分かります。
佐竹氏の家紋 「五本骨披扇」 です。


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表門をくぐると本丸です。

かつては、この広々とした空間に、本丸御殿の建物が建ち並んでいました。


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本丸北側の帯曲輪門(おびくるわもん)跡です。

枡形の土塁が、銀杏の落ち葉で黄色く彩られていました。



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本丸に立つ佐竹義尭(さたけ よしたか)公銅像です。

義尭は、義宣から数えて12代目、最後の秋田藩主です。
対立していた藩論を 「一藩勤皇」 に決定し、幕末から明治維新に至る難局を乗り切りました。

ちなみに、平成26年現在の秋田県知事・佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏は、秋田藩主・佐竹氏の一門で、角館(かくのだて)
に領地を持った佐竹北家の21代目当主です。
ご先祖様たちと同じく、秋田を大切にする思いが深く、秋田県民から「殿」のニックネームで呼ばれることもあるんだとか。



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本丸の北西部は、土塁がひときわ高く築き上げられています。
現在、土塁の上には散策路が造られています。

秋に久保田城を訪れたならば、夕暮れ時にこの土塁に上がってみてください。


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西から差す夕陽で、全てが錦の如く輝きます。


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土塁の先端には、模擬天守風の隅櫓があります。
平成元年(1989)に建てられました。
鉄筋コンクリート造りで、内部は史料館になっています。

江戸時代、ここには新兵具御隅櫓(しんひょうぐ おすみやぐら)という二重櫓が建っていました。現在の隅櫓は、同じ名前を踏襲していますが、外観からして全く異なる姿をしています。







志波城を歩く。  ~ 古代ニッポンの全国統治の過程が見える大規模城柵 ~

2014-07-27 18:00:29 | まち歩き
志波城  しわじょう    (岩手県盛岡市)



志波城は、平安時代初期の延暦22年(803)、朝廷が坂上田村麻呂に命じて築かせた城柵(じょうさく)です。

城柵とは、古代の律令国家が、いまだ支配下に組み込まれていなかった本州東北部(現在の新潟県と、東北地方6県)を統治するために設置した行政府(役所)です。
外周を築地塀や材木塀で囲んで国家の威信を示すとともに、蝦夷(えみし)と呼ばれていた元からの住民たちの攻撃に備える構造となっていました。
これらの行政府は、当時の文献に「○○城」あるいは「○○柵」の名称で記されているので、歴史学上では城柵と言っています。



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志波城は、城柵の中で最も北に位置し、和我(わが)・稗縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の三郡を統治していました。
(これは現代の岩手県の和賀郡、稗貫郡、紫波郡に相当し、佐賀県や香川県よりも広い地域です)

また、同時に2000名の兵士が駐屯する基地でもありました。

築地塀で囲まれた外郭は、一辺840メートル四方。
さらに、その外側を一辺930メートル四方の外大溝が囲っていました。
城柵として、最大級の規模を誇るものです。


しかし、築造後しばしば洪水に遭ったことから、弘仁3年(812)、南へ約10キロメートルの地点に徳丹城(とくたんじょう)を築き、行政機能を移転しました。




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志波城は、長らくその所在が分からなくなっていました。
昭和52年(1977)から昭和54年(1979)にかけて、盛岡市教育委員会が「太田方八丁遺跡」の発掘調査を行った結果、城柵の中心建物である正殿や西脇殿、西門、南門などの跡を検出。
そこが志波城の跡であることが明らかになりました。

昭和59年(1984)9月、国史跡に指定。

平成9年(1997)、南門や築地塀など、外郭南側の遺構群が復元されるとともに、「志波城古代公園」として一般開放が開始されました。


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それでは、志波城を歩いてみましょう。



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外大溝に架かる橋から見た外郭南門(がいかく みなみもん)です。
外郭南門は、志波城の正門にあたります。

柱間が5つあり、中央に扉を開く「五間一戸」(ごけんいっこ)の壮大な門です。
城柵の門では最大級の規模です。




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外郭を廻る築地塀は、高さ4.5メートルです。

築地塀に沿って、約60メートルごとに櫓が上げられています。
これらの櫓は、平時には見張り台として、有事には矢を射掛ける防御施設として機能するものです。




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築地塀の旧状を、生け垣で表示した部分。

ずっと向こうに、復元された築地塀と外郭南門が見えます。
一辺が840メートルという、かつての壮大な規模をうかがうことが出来る面白い工夫です。




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それでは、外郭南門から中へ入ってみましょう。




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外郭南門の正面に立つと、奥に政庁南門(せいちょう みなみもん)が見えます。




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発掘調査の結果、これら二つの門の間には、幅18メートル、長さ230メートルの道があったことが分かりました。
南大路と名づけられ、再現されています。



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政庁南門は、8本の柱から成る「八脚門(やつあしもん)です。




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政庁の南東側には、官衙(かんが = 役所)の建物が一棟、復元されています。


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政庁跡に入ってみましょう。

政庁は、中央北寄りに正殿(せいでん)を南向きに建て、東西に東脇殿、西脇殿を向かい合わせて配置していました。
これは、都の大極殿・朝堂院を簡略にしたものです。

まさに政庁は、天皇の権威を帯びつつ政務・儀式を行う神聖な空間でした



それでは、政庁跡の南東隅に建って、西から北、そして東へと全貌を見渡してみましょう。



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左側が、政庁南門です。


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左奥に見える門は、西門です。
広場の中央からやや右手(北寄り)に正殿の跡があります。

遠くに望む岩手山の景観は、当時と変わらないでしょう。


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東門です。


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東門から見た西門です。
ともに、4本の柱から成る四脚門です。








駅から眺めるお城の景観、これぞ日本一 !!  - 明石城 -

2014-06-12 01:24:26 | まち歩き
明石城 あかしじょう (兵庫県明石市)


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先日、所用で兵庫県明石市に行ってきました。

JR山陽線の新快速に乗って、明石駅に到着。
ホームに降り立った瞬間、目に飛び込んで来るのはこの景観。
ここに来るたびに、しばし時を忘れ見入ってしまいます。

駅から眺めるお城の景観としては、明石城の右に出るものは無いと言っても良いでしょう。



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JR明石駅の北側は、一車線の道路を挟んで、すぐ明石城の「三の丸」を囲む堀があります。
つまり、ビルなど視界を妨げるものが絶対に建たないという好条件なのです。

堀の向こう岸は、土塁に茂った樹木が、東西に長く延びる森となっています。
堀も土塁も、本来は人工の構築物ですが、今は水辺と森が織り成す自然の景観になっていて、甚だ美観を呈しています。

その森の向こうには、高石垣がそびえ立つ「二の丸」と「本丸」。
そして本丸には、明石城のシンボルである二棟の三重櫓、坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)。
(いずれも重要文化財)

自然と人工の美が調和する美しさ、変わることなく伝え残してゆきたい景観です。



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元和元年(1615)、江戸幕府は大坂城を攻め落とし、豊臣家を滅亡させました(大坂夏の陣)。
その後、江戸幕府は近畿地方の支配体制を強化するため、大名の配置換えやいくつかの新規築城を実施します。

明石城もそのひとつです。
元和3年(1617)、信濃松本の城主だった小笠原忠真が、明石に領地替えとなり移ってきます。
そして、翌・元和4年に江戸幕府の命令によって明石城を築き始めました。

明石は、陸上交通の幹線・山陽道と、海上交通の要衝・明石海峡が接する所です。
江戸幕府が近畿地方を支配する上で、まさに重要地点でした。
そのため城の普請は、小笠原家と江戸幕府の共同工事として行われ、壮大な城が築かれました。

累々と築かれた高石垣が、今もその面影を伝えています。



姫路城 -「平成の保存修理」いよいよ終盤、素屋根撤去の近況-

2014-04-22 23:35:45 | まち歩き
所用で姫路へ行ってきました。

 
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姫路城の近況です。

「平成の保存修理」もいよいよ終盤。
4年間、大天守を覆っていた素屋根(すやね)の撤去作業が進行中でした。


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真新しい漆喰(しっくい)で、化粧直しされた大天守が垣間見えます。


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この日は、あいにくの雨模様でした。
晴れた日には、ひときわ白さを実感できることでしょう。


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桜も種類によっては、まだ花を残していました。
来年のお花見シーズンには、桜と真っ白な大天守のコラボが楽しめるのですね。
きっと、今までに無いほどの脚光を浴びそうです。


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それにしても、周囲の文化財を傷つけないように、上手く工事設備を作ったものです。
現代の工学技術の素晴らしさを実感します。


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考えてみたら、この景観も姫路城の歴史のひとコマになるのでしょうね。
そんなことを思いながら、素屋根撤去の過程を見るのも、これまた面白いものです。





桜満開!津山城を歩く。  ~国持大名のプライドと、亡き父と兄たちへの思いで築いた大城郭~

2014-04-11 00:01:24 | まち歩き
思いがけないところで、振替休暇が舞い込んで来ました。
ならばこの機会に!と思い立ち、車を走らせて津山城の桜を見てきました。

桜の名所になっているお城は数多ありますが、ここ津山城(鶴山公園)は
「日本さくら名所100選」にも入選しているだけあり、予想をはるかに超えた
美しさでした。



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津山城  つやまじょう (岡山県津山市)


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津山城は、森忠政(もり ただまさ)が築いたお城です。

森忠政と聞いても、あまりピンとこない方も多いかも知れません。
忠政は、織田信長配下の猛将で、姉川合戦でも活躍した森可成(もり よしなり)の六男です。
また、信長の小姓として有名な森蘭丸(史実では「乱丸」と表記)は、忠政の兄(三兄)です。

忠政は、末っ子の六男なので、本来ならば大名になれる立場では無かったのかも知れません。
ところが、森家が相次ぐ悲運に見舞われ、忠政もその渦中に巻き込まれてゆきます。
長兄・可隆(よしたか)と父・可成は、浅井氏・朝倉氏との戦いで戦死。
信長に小姓として仕えていた三兄・蘭丸、四兄・坊丸、五兄・力丸は、天正10年(1582)の本能寺の変で戦死。
そして、家督を継いでいた次兄・長可(ながよし)も、天正12年の小牧長久手合戦で戦死してしまいます。

こうして、六人兄弟の中で一人生き残った忠政は、幼くして家督を継ぎました。
そして、元服後に秀吉政権下で大名に取り立てられ、美濃国の金山城主となりました。
さらに、秀吉が没した慶長3年(1598)、忠政は信濃国へ国替となり、松代城主となりました。

慶長5年の関ヶ原合戦では、忠政は徳川家康の東軍に属しました。
その戦功で慶長8年、信濃松代13万7500石から美作国18万6500石へ、加増のうえ国替となりました。
そして、慶長9年から津山城の築城を開始、
足かけ13年を要し、元和2年(1616)に完成しました。

当時、18万6500石というと、石高としては中堅クラスの大名です。
しかし津山城は、そのレベルをはるかに超越したスケールの大城郭でした。
城が立地する鶴山には、幾重にも高石垣が廻らされ、曲輪群を構成しています。
その石垣の上に、五層天守をはじめ、30棟を数える櫓が建ち並ぶ威容は、中国地方でも屈指のものでした。
忠政は、なぜ津山城をこれほど壮大に築いたのでしょうか?

おそらく、「国持大名」(くにもちだいみょう)としての自負心でしょう。
大名の中でも、一ヶ国を丸ごと領有する者を「国持大名」といいます。
これは、大名として最高ランクの格式と位置付けられていました。
忠政は、美作一国を丸ごと領有する「国持大名」となり、格式では肥後の加藤清正(熊本城主・58万石)、
播磨の池田輝政(姫路城主・52万石)と並んだのです。
そのプライドが、これほどの大城郭を築く動機になったのでしょう。
また、志半ばで戦場に散っていった父親や兄たちへの思いも籠っていたのかも知れません。




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桜花爛漫、津山城を訪ねて


 〈撮影 : 平成26年(2014)4月9日〉


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吉井川の対岸から見た津山城。

ひな壇状に、幾重にも石垣が廻らされています。


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三の丸の石垣と桜。


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表中門(おもてなかもん)の跡。

石段を登り詰めたら二の丸に至ります。
広々とした石段は、まるで宮殿の入り口のようです。


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備中櫓(びっちゅうやぐら)

天守に次いで、津山城のシンボル的な建物でした。
明治初年、他の建物とともに破却されましたが、平成17年(2005)に忠実に復元されました。

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本丸石垣と桜。


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天守台の上から見た備中櫓。


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天守曲輪から、城下町西方を見る。

まるで、桜の雲海に浮かんでいる心地です。


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本丸の北東部、粟積櫓(あわづみやぐら)跡から見た、月見櫓跡の高石垣。

ここは城外に向かって突出する立地上、石垣を特に高く築き上げて防御力を高めています。


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天守曲輪の北西部付近の石垣。


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再び、備中櫓を見上げる。


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