中津城を歩く。  <新天地で築いた城に見る、「軍師」の真骨頂>  ~ 軍師官兵衛ゆかりの城 ⑫ ~

2014-09-05 00:21:34 | うんちく・小ネタ
中津城  なかつじょう    (大分県中津市)



NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」 、いよいよ舞台は九州へ移りました。
新たなステージで、どんな物語が繰り広げられるのか、今から楽しみです。


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天正15年(1587)3月、豊臣秀吉は25万人という空前の大軍を率い、九州遠征を開始しました。
島津氏を盟主とする九州の反・秀吉勢力も、圧倒的な兵力差は如何ともし難く、次々と撃破されてゆきます。
そして、秀吉本軍が薩摩国に攻め込んだ時、島津義久は降伏しました。

6月、九州平定を成し遂げた秀吉は、九州における新たな大名配置を発表しました。
これによって、黒田官兵衛には豊後国のうちで6郡、石高にして12万石の領地が与えられます。
その代わり、播磨国の内にあった従来の領地は、返上となりました。
播磨国から豊後国へ、一族郎党率いての転勤です。

7月、豊後国の新領地に入った官兵衛は、先ずは京都郡(みやこぐん)の馬ヶ岳城を居城としました。
現在の福岡県行橋市です。
馬ヶ岳城は、標高216メートルの険しい山上に築かれた山城です。
九州平定を成したとは言うものの、征服された側の不満はまだまだ各地に燻っています。
官兵衛も不測の事態に備え、既存の山城を選ばざるを得なかったのでしょう。

やがて官兵衛は、宇佐郡にあった時枝城(ときえだじょう)でも政務を執ったようです。
現在の大分県宇佐市です。
時枝城は、広々とした平野の只中に築かれた平城です。
宇佐郡は、時枝氏をはじめ官兵衛に協力的な領主が多く居ました。
臨戦態勢から、治世へと段階を進展させようとする官兵衛の意志が感じられます。

翌・天正16年(1588)1月、官兵衛は山国川河口の中津の地を選び、新たな築城に着手しました。
中津城です。
この築城は、官兵衛の本格的な新領地支配の始まりを告げるものでした。


それでは、中津城を歩いてみましょう。
今に残る城の遺構の中に、当時の官兵衛の思いを窺えるものが有るかも知れません。




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現在の中津城は、本丸に五重天守が建っています。

これは、昭和39年(1964)に観光用に建てられたもので、史実とは無関係の模擬天守です。
但し、この角度からの眺めは、手前の二重櫓(実はこちらも模擬建築)と共に、なかなか風格があって見事です。
中津城で記念写真を撮るならば、ぜひこの場所をお勧めします。

ちなみに、官兵衛が中津城に天守を建てたかどうか、実は確認できる史料が無くて明らかではありません。
今後の研究に期待です。




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山国川の対岸から見た中津城です。

中津城は、西側は山国川の河口、北側は海(周防灘)を天然の堀として築かれました。
川沿いに延々と築かれた石垣は、今も良く残っています。

このように石垣が自然の水辺に接する城を「水城」(みずじろ)と呼びます。
さらに、その水辺が海の場合は「海城」(うみじろ)と呼ぶこともあります。

中津城は、高松城(香川県高松市)、今治城(愛媛県今治市)とともに、「日本三大海城」と呼ばれています。





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これは、中津城跡の説明板に掲載されている見取り図です。
江戸時代後期に描かれた絵図を元にしています。

山国川を背後の守りとして、南と東に堀を廻らせた城の縄張は、おおまかに見ると直角三角形をしています。
この形は、扇にもなぞらえられました。
そのため、中津城は別名を「扇城」(せんじょう)とも呼ばれます。

この直角三角形の縄張には、どういった意図があるのでしょうか?
官兵衛は、その秘密を明かしていないので、これは永遠の謎です。
現代の研究では、
「山国川を除く南側と東側に敵の攻撃ルートを限定し、迎え撃ち易くする工夫」
との解釈もされていますが ・・・ さて真相はいかに???

なお、官兵衛築城の中津城は、黒田家の後に城主となった細川家の手で大改修されました。
しかし、近年行われた石垣の調査によって、本丸を中心とした基本プランは、おおよそ官兵衛の縄張が踏襲されていることが分かりました。





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本丸南側の堀と石垣です。
近代以降、この堀は埋められ民家が建っていました。

近年、堀は旧状どおりに復元されました。



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ここでは石垣に注目して下さい。
水面上にそびえる石垣を良く見ると、ちょうど中間くらいの高さで石材の大きさが変わっているのが分かります。

下のほうの、やや大ぶりな石材を積んでいるのが官兵衛築城当時の石垣、上のほうは細川家による増築です。




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山国川に沿って残る本丸石垣です。
大部分が、官兵衛の築城当時の遺構です。

かつては石垣の裾は、川の流れに洗われていましたが、現在は遊歩道が造られ散策できます。
石垣を観察しながら歩いてみましょう。

こうして見ると、川沿いの石垣は、特に大きな石が集中的に使用されているのが分かります。


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また、石垣の角部分には丁寧に加工された石が積まれています。
これは、山国川の川上にある唐原山城(とうばるやまじょう)という7世紀に築かれた城の石垣を解体して転用したものです。

川沿いの石垣は、石を選び、見栄えを意識して築かれていると言えます。
この事は、こちら側は決して城の裏側ではなく、水運の上ではむしろ城の表玄関だったということを示しているのではないでしょうか。




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石垣は、まだまだ様々なことを語りかけてくれそうです。





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それでは、模擬天守に上ってみましょう。



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模擬天守とは言うものの、すでに築50年です。
今やすっかり中津のシンボルになっています。



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模擬天守の最上階からの眺望です。

眼下を流れる山国川の向こうには、海が広がっています。
長年、川が運んだ土砂の堆積と、海岸の干拓によって、海は官兵衛の時代より遠くなっています。
しかし、この景観は中津城が海運を意識して築かれた城だということを如実に語っています。

中津城は、海路で瀬戸内海を経て、播磨、そして大坂城と直結しているのです。
さらに、海は世界へと通じているとも言えます。
この景観を見ながら、ここに居城を築いた官兵衛が何を構想していたか、
しばし思いをめぐらせてみるのも面白いでしょう。





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