<秀吉と おね> 結婚秘話 ~ 日出藩主・木下家の菩提寺・松屋寺 ~

2014-06-29 22:33:25 | うんちく・小ネタ
結婚に猛反対だった妻の母・・・。
周囲がなだめてくれて、何とか結婚できたけれど、
そんな義母が婿に対して、本心から打ち解ける日は、果たして来るのでしょうか?

いえ、これは私の身の上話ではなくて、豊臣秀吉のことです。


秀吉おね が結婚したのは、永禄4年(1561)8月3日。
秀吉は25歳、おね は14歳でした。

しかし、この結婚は始めから順風満帆に運んだものではありませんでした。
そんなスクープ記事のような史料が、日出藩(ひじはん)に伝えられています。




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日出藩に伝わる<秀吉と おね> 結婚秘話


秀吉とおねが出会い、結婚を考えるようになった時、これに猛反対したのは おね の母・朝日(あさひ)でした。
朝日は、こんな結婚は「野合」(やごう)であるとして、大いに不満でした。
「野合」とはまた凄い表現ですが、要するに、家同士の縁談によるものではなく、本人同士の「自由恋愛」による結婚は絶対ダメと反対したのでした。
農民出身の秀吉に対し、おね の実家・杉原家はれっきとした武家でした。
そのため、朝日は娘がそんな形で嫁ぐことに強い抵抗を感じたようです。

そこに思わぬ救いの手が差し伸べられました。
朝日の姉妹・七曲と、その夫・浅野長勝(あさの ながかつ)が、秀吉の人物を見込んで一計を案じたのです。
すなわち、浅野長勝・七曲夫妻が、姪の おね を養女とし、浅野家の娘として秀吉に嫁がせるという方法です。

かくして、めでたく秀吉と おね の結婚が実現し、後に日本史上に大きな足跡を残す夫婦が誕生したのでした。

  ・ ・ ・ ・ ・

以上が、『平姓杉原氏御系図附言』に記されている逸話です。

この史料は、宝暦元年(1751)に日出藩家老・菅沼政常が編纂した藩主・木下家の系譜です。
政常は、「或る説に云う・・・」という但し書きを付け、慎重に書き出しています。
実際に、日出藩に代々伝承されてきた逸話だったのでしょう。
そして、「御家伝の意味を考えるに実説なるべき歟」として、どうやら実話らしいとの考察を加えています。


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その後も、<義母と婿> の間には、冷たい風が吹いていた!?


それにしても、杉原家の娘ではなく、浅野家の養女として嫁ぐのなら、秀吉との結婚を認めるというのも何だか合点が行きません。
『平姓杉原氏御系図附言』 は、その表題の通り、おねの実家・杉原家ルーツは平貞衝(たいらのさだひら)としています。
朝日の本心は、そうした家系に農民出身の秀吉が連なることへの抵抗だったのかも知れません。


秀吉が天下を取った後、杉原家は おね の兄・家定が木下姓を与えられ、改姓します。
そして文禄4年(1595)、木下家定は豊臣一門の大名として2万5000石の姫路城主となりました。
ちなみに同じ時期、浅野家は甲斐国の甲府城主で22万5000石でした。

おね の実家・木下家(杉原家)と養家・浅野家とで、かなり処遇に差が付いてしまっています。
木下家では、この処遇の違いは、
「朝日と秀吉の<義母と婿>の関係が、後々までわだかまりを残していたことが影響したもの」
と、伝えられていますが、真偽の程はいかがでしょうか。



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松屋寺  しょうおくじ  (大分県速見郡日出町)



松屋寺は、日出藩主・木下家の菩提寺です。



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 <松屋寺表門>


慶長6年(1601)、木下延俊が姫路より国替えとなって、日出に移ってきます。
(延俊は、家定の三男 / おね の甥)

延俊は、翌慶長7年に祖母・朝日の菩提を弔うため、日出城の北西にあった西明寺を改修し、曹洞宗の禅寺にしました。
そして、朝日の法名「康徳寺殿松屋妙貞大姉」にちなみ、寺号を 「康徳山 松屋寺」 と改めました。


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 <樹齢700年の大蘇鉄(そてつ)>


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寛永年間(1624~1643)頃、寺の裏山に朝日をはじめ、木下家定夫妻、延俊の妻・加賀の四基の墓が建てられました。
以後、日出藩主・木下家の廟所(びょうしょ)と定められ、歴代藩主および木下家ゆかりの人物の墓が建てられてゆきました。



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 <木下家廟所に続く石段>


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 <朝日の墓>


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 <歴代藩主の墓>




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 <豊臣姓を記した墓石が並び、壮観です>
  

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裏山を少し歩くと、視界が開けました。
旧城下町と日出城跡、そして海が見えました。

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鬼門櫓も見えました。
かつては天守をはじめ、櫓が建ち並ぶ姿が見えたことでしょう。


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 <日出城の鬼門櫓 (矢印の下)>







日出城を歩く。  - 有名じゃないけれど、実は隠れた見どころ満載なお城 -

2014-06-22 23:28:03 | うんちく・小ネタ
日出城 ひじじょう  (大分県速見郡日出町)



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大分県のお城といえば、どこを連想されるでしょうか?

まずは何と言っても、岡城 (竹田市)でしょう。
瀧廉太郎が「荒城の月」作曲のイメージを練ったお城として有名です。

また、中津城 (中津市)を思い浮かべる方も多いでしょう。
こちらは今年の大河ドラマの主人公・黒田官兵衛(如水)が築城したお城ですね。

これらに比べると、日出城の名前はあまり知られていません。
三層の天守も、明治の始めに解体され、主な遺構は本丸周辺の石垣と、二棟の櫓建築です。

しかし、そんな日出城には、実はたくさんの見どころがあるのです。
中には、全国のお城の中で、日出城だけしか見られないような珍しい遺構も・・・。

今回は、そんな日出城の隠れた見どころを紹介しましょう。


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日出城とその城下町は、別府湾に臨む標高28メートルの台地に築かれています。




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台地の上は平坦で、東西900メートル・南北400メートルほどの広さがあります。
その台地南端の海際に城を築き、西・東・北の三方に向かって二重の堀を廻らせていました。

台地の北側は城下町で、街道を引き入れて町屋を発展させました。
また、台地の要所に武家屋敷と寺社を配置し、有事に備えました。
まさに、要塞都市の様相を呈していました。



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明治6年(1873)の廃城令以降、堀は本丸の周囲を残して、次第に埋められてゆきました。

その一方で、鉄道も国道も台地上を避けて、北側の麓に開通しました。
そのため、今でも日出の旧城下町には、江戸時代の町割が濃厚に残っています。


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二の丸 に残る武家屋敷です。
この一帯は重臣の屋敷が建ち並んでいました。

他にも、城下町の外周などに武家屋敷の面影が良く残っています。


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裏門櫓(うらもんやぐら)。

元は、本丸東側に構えられた裏門を護る櫓でした。
廃城後の明治8年(1875)、払い下げられて民家に移築されていました。


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現在は、観光案内施設「二の丸館」(にのまるやかた)の一角に移築・保存されています。


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本丸は現在、日出小学校が建っています。
堀と石垣で囲まれた小学校です。


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かつての本丸大手門に通じる土橋が、そのまま小学校の正門への連絡通路に使われています。

その土橋の両脇には、石造りの塀が残ります。
上部が丸く加工されていて、その形状から「かまぼこ塀」と呼ばれています。

「かまぼこ塀」は、他では岡城(竹田市)など、限られたお城でしか見られない貴重な遺構です。


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鬼門櫓(きもんやぐら)。
元は、本丸の北東隅の石垣上に建つ櫓でした。

明治の初め、本丸に小学校が建てられた以降もそのまま保存されていました。
その後、大正10年(1921)の校舎改築に際し、民間に払い下げられ、町の郊外に移築されました。

平成20年(2008)、子孫の方から日出町に寄付され、翌年には文化財指定を受けて、再び日出城内に移築されました。

なお、元々建っていた本丸北東隅は、小学校敷地拡張のため改変されています。
そのため、本丸西側の堀の向かい(二の丸の一角)に場所を変えて保存されています。



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鬼門櫓の北東側は、このように屋根も壁も欠き取られた形になっていて、角が存在しません。
このような櫓建築は、全国のお城でも日出城にしか現存しておらず、大変貴重な遺構です。

古来、北東の方位は禍(わざわい)を招く「鬼門」として忌み嫌われていました。
そこで、このように屋根も壁も、さらには内部の間取りも北東側の角を欠き取った形で櫓を造りました。
いわゆる「鬼門除け」(きもんよけ)です。
これで、禍を招く鬼門の方位そのものが無くなって、安泰というわけです。

私たちは、とかく 「昔の人は、迷信や因習に縛られて生きていた・・・」 というイメージを抱きがちです。
でも、実際には昔の人の方が、現代人よりもはるかにポジティブな感性を持っていたんじゃないでしょうか?
この櫓の「鬼門除け」の発想を見ていると、そんな気がしてきました。


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二の丸 の西から、南へ廻り込みます。
武家屋敷の土塀に挟まれた道の先に海が見えます。

右奥には藩校・致道館(ちどうかん)の建物が移築されています。
この時は、修理中で素屋根で覆われていました。
藩校の建物として、九州地方でも珍しい遺構です。

なお、致道館は元は 二の丸 の東側にありました。
現在、その場所には中学校が建っています。
藩校の伝統が、今に受け継がれているようで面白いです。


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二の丸石垣。

石垣上にあるのが藩校・致道館の建物です。



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最後に、お城の遺構ではありませんが、もう一つ。

日出城の南側の海岸は、「城下海岸」(しろしたかいがん)と呼ばれています。
波の静かな別府湾と、遠く高崎山を望む景勝の地です。

そして、珍しいことに、この海中には淡水が湧き出している所があります。
それは魚の成育にも良い影響を与え、特にカレイは美味で、「城下カレイ」の名前で知られています。

大分県の味覚のひとつとして全国的にその名を知られる「城下カレイ」。
その「城」とは、まさに日出城のことなんですね。




誇り高き豊臣一門の城   - 日出城 -

2014-06-19 00:22:35 | うんちく・小ネタ
日出城  ひじじょう    (大分県速見郡日出町)






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穏やかな波が打ち寄せる別府湾。


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日出城は、別府湾に臨む小高い丘に築かれています。


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石垣が松の緑に映えて、見事です。


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本丸の東南隅に、ひときわ高く築かれた天守台。


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天守台に登ると、真っ青な別府湾が視界一杯に広がります。

かつて、ここに三層の天守が上げられていました。
天守からの眺望は、一段と素晴らしかったことでしょう。


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慶長5年(1600)、関ヶ原合戦に勝利し、政権を手中にした徳川家康は、全国規模で大名の配置換えに着手します。

その流れの中、慶長6年4月に木下延俊(きのした のぶとし)が、豊後国速見郡で3万石を与えられ、播磨の姫路より移ってきました。
そして、慶長7年からおよそ一年がかりで日出城を築きました。





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延俊は、豊臣秀吉の夫人・おね(ねね)の実兄・木下家定(きのした いえさだ)の息子です。
つまり おね の甥にあたります。

近畿地方から九州への領地替えは、ちょっと考えると豊臣→徳川への政権交代に伴う左遷人事というイメージが思い浮かびます。
しかし、実際には細川忠興の領地替えに関係しているようです。
延俊の妻は、忠興の妹でした。
忠興は、関ヶ原合戦の論功行賞によって、丹後国12万石から、豊前国37万石に加増され、中津城(大分県中津市)に入りました。

家康および後の江戸幕府は、しばしば姻戚関係にある大名同士を同じ地方に配置しました。
その地方の統治を、連携して行わせるのがねらいだったと考えられますが、おそらく延俊の日出への移封も同様の期待を受けていたのでしょう。

日出は付近にいくつかの良港を持ち、海上交通の要衝でした。
また、日出城も3万石の分を超えるほど立派な城に築かれていました。

日出城を見ていると、延俊の自負が強く現れているように思えます。
その後、木下家は歴代がここを居城とし、明治維新に至りました。


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日出の城下町の一角にある若宮八幡神社。

木下家の歴代藩主が崇敬した神社です。
ここで、めずらしいものに気付きました。


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江戸時代中期の享保4年(1719)、当時の藩主・俊量(としかず)が寄進した石鳥居です。
ここには、「豊臣」の姓が堂々と刻まれていました。

徳川の世になってからは、豊臣の名を出すことは憚られるようになりました。
しかし、延俊に始まる日出藩・木下家は、豊臣の一門であることを誇りに思い続けていたことが、ここにはっきりと示されています。



駅から眺めるお城の景観、これぞ日本一 !!  - 明石城 -

2014-06-12 01:24:26 | まち歩き
明石城 あかしじょう (兵庫県明石市)


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先日、所用で兵庫県明石市に行ってきました。

JR山陽線の新快速に乗って、明石駅に到着。
ホームに降り立った瞬間、目に飛び込んで来るのはこの景観。
ここに来るたびに、しばし時を忘れ見入ってしまいます。

駅から眺めるお城の景観としては、明石城の右に出るものは無いと言っても良いでしょう。



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JR明石駅の北側は、一車線の道路を挟んで、すぐ明石城の「三の丸」を囲む堀があります。
つまり、ビルなど視界を妨げるものが絶対に建たないという好条件なのです。

堀の向こう岸は、土塁に茂った樹木が、東西に長く延びる森となっています。
堀も土塁も、本来は人工の構築物ですが、今は水辺と森が織り成す自然の景観になっていて、甚だ美観を呈しています。

その森の向こうには、高石垣がそびえ立つ「二の丸」と「本丸」。
そして本丸には、明石城のシンボルである二棟の三重櫓、坤櫓(ひつじさるやぐら)と巽櫓(たつみやぐら)。
(いずれも重要文化財)

自然と人工の美が調和する美しさ、変わることなく伝え残してゆきたい景観です。



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元和元年(1615)、江戸幕府は大坂城を攻め落とし、豊臣家を滅亡させました(大坂夏の陣)。
その後、江戸幕府は近畿地方の支配体制を強化するため、大名の配置換えやいくつかの新規築城を実施します。

明石城もそのひとつです。
元和3年(1617)、信濃松本の城主だった小笠原忠真が、明石に領地替えとなり移ってきます。
そして、翌・元和4年に江戸幕府の命令によって明石城を築き始めました。

明石は、陸上交通の幹線・山陽道と、海上交通の要衝・明石海峡が接する所です。
江戸幕府が近畿地方を支配する上で、まさに重要地点でした。
そのため城の普請は、小笠原家と江戸幕府の共同工事として行われ、壮大な城が築かれました。

累々と築かれた高石垣が、今もその面影を伝えています。



荒木村重の妻・だし のこと

2014-06-08 07:45:17 | うんちく・小ネタ
このところ、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」の影響で、有岡城(伊丹城)が一躍注目されているようです。
このブログにも、連日、たくさんのアクセスを頂くようになり、内心驚いています。(有難うございます!)

ちなみに、JR伊丹駅(前回まででお話ししたように、有岡城の本丸跡の中心にあたります)の改札を出て、
北へ200メートルほど歩いたところに阪神運転免許更新センターがあります。
そのため、兵庫県の東南部に住む人は、3年か5年ごとに運転免許の更新で、必ず有岡城本丸跡の地を踏んでいるのです。
その行き帰りには、大規模な土塁や空堀の遺構も視界に入ってきます。
しかし、そこが城跡だと知っていたのは、地元の人を除くと、ある程度の歴史好きの人に限られていたんじゃないでしょうか。
有岡城跡は、少し前まではそうした存在でした。



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  <JR伊丹駅前の城址碑>




しかし、歴史を紐解いてみれば、

・荒木村重の栄光と挫折、やがて謀叛へ。 
・村重に帰順を説くも、幽閉される黒田官兵衛。 
・信長軍の攻撃を頑強に阻む有岡城、しかし次第に孤立無援に。
・そして、家族も家臣団も見捨てての村重の逃亡劇。
・残された村重の家族や家臣団の悲劇的な末路。

これほど様々な人間ドラマに満ち溢れた城跡も珍しいかもしれません。



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  <史跡公園となった本丸跡北西部には、大勢の見学者が(2014年6月撮影)>




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「だし」、・・・・ちょっと変わった名前?


さて、ここでもう一人、有岡城をめぐる人間ドラマの中で、気になる人物がいます。
荒木村重の妻・だし です。

だし は大変な美人だったそうです。
当時の史料には、その評判の高さが記されています。


「きこえ有る美人なり」 (『信長公記』)

意訳:有名な美人である。

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「一段美人にて、い名は今楊貴妃と名づけ申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:一段と美人で、楊貴妃の再来との異名で呼ばれた。

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だし は、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、桐谷美玲さんが演じました。
桐谷さんは時代劇は初出演だそうですが、だし という戦国の世を生きた女性の役作りを考えた末に、
「容姿だけでなく、心の持ち方など内面も美しい女性」
「強い責任感を持ち、どんな状況でも自分の考えを発信できる女性」
という結論に至ったそうです。
だし の最期のシーンは特に好演でした。

なお、刑場の露と消えた だし の年齢は、
『信長公記』は21歳、『立入左京亮入道隆佐記』は23歳と記しています。
だし は、京都の街中を引き廻された後、六条河原の刑場で車から下ろされると、着物の帯を締め直し、髪を高々と結い直し、華やかな小袖の襟を後ろへ引いて、少しも取り乱すことなく首を斬られたそうです。 (『信長公記』)


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ところで、この 「だし」 という名前ですが、これは実名ではありません
当時の史料には、 「だし」 について次のように記されています。

「城の大手の だし におき申女房にて候故、名をば だし 殿と申候」 (『立入左京亮入道隆佐記』)

意訳:有岡城の表側の<だし>と呼ばれる場所に住む女房なので、名前を「だし殿」と呼ばれていた。


この時代、高貴な女性は、おそれ多いとして実名をあまり表に出されることはありません。
大名の妻の場合は、敬意を込めて、城内の住んでいる場所にちなんで「○○殿」と呼ばれました。
たとえば、徳川家康の正室は、岡崎城の西の「築山御殿」(おそらく、築山を持つ優雅な庭園があったのでしょう)に住んだので「築山殿」と呼ばれました。
豊臣秀吉の側室となった茶々は、淀城に住んで「淀殿」、後に大坂城二の丸に移り「二の丸殿」と呼ばれました。
また、秀吉の側室の中でも最高の美人と言われた京極龍子は、後に伏見城の「松の丸」に住んで、「松の丸殿」と呼ばれるようになりました。

荒木村重の妻は、「だし殿」として史料に名を残していますが、実名は残念ながら不明です。
先に挙げた『立入左京亮入道隆佐記』の続きの記述に、「ちょぼ」という女性の名が出てきます。
これを「だし殿」の実名だとする解釈もありますが、いかがでしょう。
「ちょぼ」ではあまりに庶民的で、大名の妻の名前では無いように思うのですが・・・。


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「だし殿」が住んだ場所はどこ?


では、有岡城内で「だし殿」が住んだ場所の特定は可能でしょうか?
手がかりは、その名の由来になった<だし>と呼ばれる場所です。

お城の中で<だし>と呼ばれるのは、本丸や大手門などの重要地点の防御を強化するために、外に突き出すように築かれた曲輪のことです。
たとえば、下の写真のような形をしています。

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 <参考史料 : 丹波篠山城復元模型>


永禄12年(1569)に織田信長が京都に築いた二条城(将軍・足利義昭の居館)にも、<だし>が築かれていたことが当時の史料に記されています。
お城の防御施設の<だし>は、江戸時代になると、「出丸(でまる)」とか「馬出(うまだし)」という呼び方が一般となり、こんにちに至っています。

それでは、有岡城に、該当しそうな場所が無いか探してみましょう。
これは、江戸時代の寛文9年(1669)に描かれた伊丹郷町の地図です。

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既に城跡となった有岡城が描かれています。
本丸の南側(画面左側)に接続する区画には、「二之丸」という書き込みがあり、さらに「金之間」とも書かれています。

この「二之丸」は、有岡城の本丸南側の防御を強化する形で築かれています。
江戸時代の地図では分かり難いのですが、近年の発掘調査によって本丸から堀を隔てて、外に突き出すように築かれていたことが確認されています。
また、「金之間」という書き込みからは、この地にかつて華麗な御殿が存在したことが想像されます。

この場所は、現在のJR伊丹駅の南西方、現在、荒村寺(こうそんじ)が建っているあたりになります。
(ちなみに、この荒村寺。お寺の名前は、荒木村重にちなみます。)

あくまで仮説ですが、「だし殿」が住んだのは、この辺りではないでしょうか?