鳥羽伏見の戦い② - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記 -

2013-05-27 23:30:04 | まち歩き
城郭のような伏見奉行所


伏見の町は、豊臣秀吉の伏見城築城に伴って造成された城下町に始まります。
江戸時代初期に伏見城が廃城になった後も、京・大坂を結ぶ交通の要衝として立地から、経済都市として繁栄します。

江戸幕府は、伏見の町と周辺の農村を支配する機関として、伏見奉行所を置きました。
そもそも山城国一国は、京都町奉行所の管轄でしたが、その中に伏見奉行所の行政区だけが独立して存在していました。
ここからも、伏見を江戸幕府がいかに重視していたかが分かります。



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「泰平伏見御役鑑」に描かれた伏見奉行所の雄姿です。
石垣の上に多聞櫓が延び、南北に三層櫓を配した構えは、城郭そのものです。



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至近距離で行われた砲撃戦


慶応4年(1868)1月3日、旧幕府軍は伏見街道を行く本隊と、鳥羽街道を行く別働隊に分かれて京へ進軍します。
伏見奉行所は、旧幕府軍本隊の本陣となりました。
対する薩長の新政府軍は、伏見奉行所のわずか200メートル北方の御香宮に布陣していました。

午後五時ごろ、鳥羽方面でとどろいた砲声を機に、伏見でも戦闘が開始されました。
至近距離で激しい銃砲撃が行われましたが、新政府軍の方が鉄砲・大砲ともに装備が勝っていて、旧幕府軍を圧倒します。
さらに新政府軍の布陣する御香宮は、旧幕府軍の拠る伏見奉行所より少し高台に立地しているので、その点でも有利でした。
一方、旧幕府軍は、せっかく大軍を持ちながら市街戦に持ち込んだため、かえってその動きを制約されてしまいました。
会津藩兵や新撰組は、白兵突撃を行いましたが、劣勢を覆すことは出来ませんでした。


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御香宮の表門です。(伏見城大手門を移築したものと伝わります)
ここに立ってみると、伏見奉行所の方面が地形が下がっているのがよく分かります。
旧幕府軍指揮官の戦術眼の甘さが残念に思えてなりません。

この戦いで、会津藩の大砲奉行・林権助(大河ドラマ「八重の桜」では、風間杜夫さんが好演してました)は、全身に敵弾を受け、立つことが出来なくなっても、なおも座ったまま指揮を執り続けました。(後、大坂より江戸へ撤退する船中で死去)

新政府軍は、鉄砲で旧幕府軍の白兵突撃を撃退し、大砲で伏見奉行所に集中砲火を浴びせました。
夜半に伏見奉行所が炎上するに及んで、旧幕府軍は淀城に向けて撤退しました。




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伏見奉行所の跡に建つ石碑です。
跡地の大半は、市営桃陵団地の敷地になっています。



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平成20年(2008)秋、伏見合同宿舎建設に先立って、発掘調査が行われました。
伏見奉行所跡の南側3分の1ほどの面積を対象とした、大規模な発掘調査でした。
この写真は、その時に検出された伏見奉行所の遺構です。
真っ赤な焼土層が、鳥羽伏見の戦いのすさまじさを物語っています。


鳥羽伏見の戦い① - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記 -

2013-05-24 23:32:45 | まち歩き
NHK大河ドラマ 「八重の桜」 、 5月19日放送の第20回は、「鳥羽伏見の戦い」でした。

いよいよ会津藩が崩壊への道をたどり始めます。


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なぜ、鳥羽と伏見が戦場になったのか?



さて、関西在住の私の周囲でも、この戦いが行われた場所について、今ひとつピンと来ないという人が案外居るようです。

(幕末史に関心の深い人は別ですが)

まず、「鳥羽って、どの辺り?」 という質問が意外と多い。

「鳥羽伏見の戦いの鳥羽は、名神高速道路の京都南インターチェンジから南側の一帯、かつての下鳥羽村です。」

と、答えると、ひとまず場所は分かってもらえます。

しかし、「何であんなところで?」という第2の質問が続くパターンもまた多い。

現代の感覚では、交通の要衝を考える時に、どうしても鉄道網を基準にイメージしてしまいます。

そうすると、鉄道網から外れた鳥羽は、「あんなところ・・・・」になってしまうのでしょう。


結論から言うと、江戸時代の交通網では、鳥羽と伏見は大坂から陸路で京都に入る場合の要衝だったのです。

当時、大坂と京都を結んだ幹線道路は、大坂城の北側に架かる「京橋」から、淀川左岸(南側)に沿って延びる京街道でした。

現在は、京阪国道(国道1号線)がほぼそのルートを踏襲しています。

京街道は、淀城下を過ぎた所で、二つのルートに分かれます。

一つは、桂川に沿って下鳥羽村に入り、そこから北上して京に入る「鳥羽街道」。

もう一つは、宇治川に沿って伏見に入り、そこから北上して京に入る「伏見街道」です。

一面の田園風景の中、これらの街道を通らなければ、旧幕府軍は、京に入ることができなかったのです。

逆に言えば、薩長の新政府軍は、少ない兵力をこれらの街道上に配置すれば、効率よく防禦体制をとれたわけです。

現在、網の目のように道路網が発達した現地の状況では、イメージし難いのですが・・・。




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