大坂城 - 夜桜とライトアップ -

2013-03-30 19:21:57 | まち歩き
大坂城 (大阪府大阪市)




週末の仕事帰り、大坂城の夜桜を観て来ました。

大手門の前まで来てみて、「おや?」と感じました。
何やら、ライトアップに趣向を凝らしているようです。


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大手門に続く土橋が、ゆるやかな坂道になっています。
その両側には、雪見灯籠のような照明が点々と続いています。
何となく、茶室に向かう露地のような趣が感じられます。





坂道を登りきって、大手門に到達しました。
大手門は、石垣で囲まれた「枡形(ますがた)」という四角い広場を構成します。
手前に高麗門、奥に櫓門が建つ二重構造で、枡形門と呼ばれる最も厳重な門です。

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高麗門をくぐって枡形に入ると、正面の石垣と多聞櫓が明々と照らされていました。
このため、枡形の内部はまるで屋内のような明るさです。
客人を招く座敷をイメージしたものでしょうか。
明かりの中に、枝ぶりも見事に桜が映えます。
また、背景となる石垣の巨石、多聞櫓の白壁も良い風情を出しています。





その先に目をやると、櫓門をくぐった向こうは再び暗がりの空間がひろがっています。

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その暗がりの中、うっすらとした光を浴びて浮かび上がる桜がありました。


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明るいところで観る桜では感じられない、なんとも妖艶な美しさです。
桜とは、実に様々な顔を見せてくれるものだとつくづく思いました。




趣の異なる桜と照明の競演で、とても味わい深い夜桜鑑賞でした。




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大手門だけで十分でしたが、せっかくなので本丸まで足を伸ばしました。



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復興天守のライトアップです。
この光が強すぎるためか、本丸内には案外、夜桜を楽しめる桜の木はありませんでした。



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帰りに通った京橋口門の付近の桜です。
この一帯は、特にライトアップはされていませんでした。
そんな中、遠くから差すかすかな明かりに浮かび上がる桜の木がありました。
これはまた、まるで日本画に描かれたような枯淡とした美しさではないでしょうか。


もうひとつの「蛤御門の変」 / 掃討戦と大山崎大火 - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記② -

2013-03-29 01:53:25 | まち歩き
前回のブログでもお話しましたが、「蛤御門の変」の戦闘では、京の町に兵火がかかり、2万8,000余戸が焼失しました。
しかし、兵火は京の町だけに留まりませんでした。
京の町から10キロメートル余り離れた大山崎宿(現・京都府乙訓郡大山﨑町)も戦場となり、兵火により大きな被害を受けました。



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大山崎宿は、摂津国と山城国の境界に接しており、西国街道の宿場町でした。





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この地は、天王山と淀川に挟まれた隘路になっていて、京へ向かう関門として軍事上の要衝でもありました。
天正10年(1582)、本能寺の変で織田信長を倒した明智光秀と、信長の弔い合戦をスローガンに掲げる羽柴秀吉が激突した「山崎の合戦」は有名です。
この戦いに因み、「天王山」の名は、決戦の代名詞として使われるようになりました。





元治元年(1864)6月半ば、長州藩は藩主親子および京を追われた三条実美ら七卿の赦免嘆願として、家老・福原越後率いる500人を主力に、総勢3000人の兵で京に迫ります。
そのうち、大山崎宿には、久留米水天宮の元宮司で、長州軍の幹部になっていた真木和泉守保臣が率いる兵が布陣しました。

それでは、長州藩兵の布陣の様子を見てみましょう。




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大山崎宿の中心部にある離宮八幡宮です。
平安時代の初め、清和天皇が夢のお告げにより、九州・宇佐八幡宮より神霊を奉じて祀ったという由緒のある神社です。
大山﨑宿に布陣した長州藩兵は、ここを屯所として利用しました。

大河ドラマ 「八重の桜」では、開戦前に八重の兄・山本覚馬が町人姿に扮して、この地を偵察するというシーンがありました。
この話は「八重の桜」のオリジナルかも知れませんが、ドラマとして面白い展開でした。




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天王山の裾の高台にある宝積寺です。

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奈良時代に聖武天皇が、行基に命じて建立したと伝わる古寺です。
長州軍はここにも布陣して、兵糧や諸物資を集積していたことが史料よりうかがえます。




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7月19日、嵯峨・天竜寺に布陣していた家老・国司信濃、来島又兵衛率いる長州藩兵が、御所の蛤御門を守備する会津藩兵に対し攻撃を仕掛けます。
長州藩兵は勇猛果敢に戦いましたが、やがて薩摩藩が会津藩の加勢に加わったため、壊走しました。

敗れた長州軍は、大山崎宿を経て、国元に落ち延びて行きましたが、真木和泉守保臣らは宝積寺に籠って徹底抗戦を試みます。

7月21日、幕府軍は、会津藩兵を主力とする掃討軍を大山崎宿に差し向けます。
その攻撃は、まず会津藩配下の新撰組が町に放火し、その上で藩兵が砲撃を加えるというものでした。

この攻撃により、離宮八幡宮をはじめ多くの寺社が焼失し、町屋も150軒が焼失したと伝えられます。



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真木和泉守保臣は、抗戦の不可能を悟り、真木以下17名が宝積寺で自刃しました。
17名の墓は、明治維新後に天王山の山腹に改葬され、「十七烈士の墓」として今に伝えられています。


大山﨑宿での掃討戦によって、「蛤御門の変」における戦闘は終結しました。
しかし、町の蒙った被害は甚大なもので、大山﨑の近代の幕開けは、その復興から始まることになりました。


蛤御門の変 - 「八重の桜」ゆかりの地 探訪記 -

2013-03-25 23:04:12 | まち歩き
NHK大河ドラマの「八重の桜」、いよいよ動乱の時代に入りました。
先日3月24日(日曜)の放送は、「蛤御門(はまぐりごもん)の戦い」でした。

実を言うと、私は30年来の大河ドラマファンなのです。
日本史への関心も、小学生の時に観た「おんな太閤記」に刺激されて始まり、そして現在に至っています。
しかし、前作・前々作の大河ドラマ(タイトルはあえて触れませんが・・・)は非常に残念な内容で、日曜8時台はテレビの前から久しく遠ざかっていました。

けれど、今年の「八重の桜」は、たいへん面白くて毎回楽しみにしています。
原作・脚本を手がけられた山本むつみさんは、時代劇・現代劇を問わず、さまざまなジャンルで活躍されている方です。最近では、NHK連続テレビ小説 「ゲゲゲの女房」が大ヒットし、社会現象を引き起こしました。
その実力は、「八重の桜」でも遺憾なく発揮されているようです。
実際、会津藩の立場から見た幕末史というのは結構難しいテーマだと思いますが、「八重の桜」は、激流のような歴史の中での登場人物の心の動きが巧みにドラマ化されている。そこに面白さの秘訣があるように思います。


さて、蛤御門の戦いですが、一般には「蛤御門の変」又は、「禁門の変」と呼ばれています。

これは文久3年(1863)8月18日に会津藩・薩摩藩が中心となって長州藩一派を京都から追い落としたことに端を発しています。
明くる元治元年(1864)6月半ばより、長州藩は藩主親子および京を追われた三条実美ら七卿の赦免嘆願として、家老・福原越後率いる3000人の兵で京に迫ります。そして7月19日、御所の蛤御門を守備する会津藩兵に長州藩兵が攻めかかり、戦いが始まりました。長州藩兵は勇猛果敢に戦いましたが、薩摩藩が会津藩の加勢に加わったため、やがて壊走します。

なお、この戦いで京の町には兵火がかかり、三日間燃え続けました。
この火事で2万8,000余戸が焼失したといわれています。

ドラマのラストも、焼け野原になった京の町を見て絶句する八重の兄・山本覚馬、そして焼け出され、あるいは家族を失った京の町衆が会津藩士に恨みの目を向けるシーンで終わっていました。


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現在の蛤御門です。
この写真では分かり難いですが、柱には「蛤御門の変」の時の弾痕が今もたくさん残っています。





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会津藩本陣が置かれた金戒光明寺の裏手には、会津藩殉難者墓地があります。


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会津藩殉難者墓地にお参りして、墓碑銘を見せて頂きました。
そこには元治元年七月十九日の文字が・・・。
ここには「蛤御門の変」で戦死した多くの会津藩士が眠っています。






大坂城 - 桜ちらほら咲き始める中、いにしえを想う -

2013-03-23 21:34:23 | まち歩き
大坂城 (大阪府大阪市)




大阪でも桜がちらほら咲き始めました。
例年より、1週間ほど早い開花です。



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大坂城の桜が満開を迎えるのは、月末頃になるそうです。


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今年もお花見で、全国各地のお城に多くの人が訪れることでしょう。
桜の季節は、一年で最もお城が脚光を浴びる時と言えるのかも知れません。



さて、日本のお城には桜がつきものというイメージがありますが、江戸時代以前、つまりお城が「お城」として機能していた時代には、桜よりもむしろ梅の木が植えられていました。
梅は実を収穫して、梅干を作ることが出来ます。保存性の良い梅干は格好の兵糧となります。
梅の木を植えるということは、平時より有事に備えるという、武門の習いに適っていたのですね。



とは言っても、やはり桜の木も観賞用に植えられていました。
ここ大坂城の本丸大手門は、その名も「桜門」と言います。


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この位置に構えられた門が「桜門」と呼ばれた歴史は古く、豊臣時代の大坂城本丸を描いた中井家伝来の「本丸図」にも「桜御門」の名が見えます。
また、他の文献からは、門前に「桜の馬場」があったことが確認できます。
その名の示す通り、この一帯には美しい桜並木があったのでしょう。


ところで、今の大阪城公園に存在する城は、豊臣家を滅ぼした後に徳川幕府が装いも新たに築城した新「大坂城」です。
本丸は豊臣時代の地表面に、最大で約10メートルの盛り土をして、最新技術を用いた高石垣で周囲を固めています。
このことは、徳川幕府は豊臣家の栄華を抹消するため、「豊臣時代の痕跡を地下に埋没させた」というように解釈されています。

しかし、「桜門」の名前が引き継がれているのはどうしたことでしょうか。
さらには、本丸北側の一段低い曲輪の名前は「山里曲輪」、そこから本丸外への出入り口であった橋の名前は「極楽橋」というように、豊臣時代の名称はあちこちに引き継がれています。

むしろ、秀吉が築いた天下の名城・大坂城の名とともに、「桜門」、「山里曲輪」、「極楽橋」という個々の建造物の名称までがブランド化しており、新たな支配者となった徳川幕府もそうした名称を引き継がなければ権威の証にならなかった。というのが真相ではないでしょうか。


大坂城 - もうすぐ桜だより -

2013-03-17 23:04:05 | まち歩き
大坂城 (大阪府大阪市)



所用で大阪市内に出たついでに、大坂城の南外堀沿いを歩いてみました。


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大手門と千貫櫓の遠望

冬の間の乾燥で、堀の水位は年間を通じて最も下がっています。(石垣の白い部分は、満水時は水没しています)
また、石垣の一部を覆っていたツタなども冬枯れのままです。
今は、石垣の美を最大限に堪能できる季節といえます。





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二の丸南側石垣と六番櫓

横矢掛の屈曲が連続するこの石垣は、大坂城中でも最高水準の技法で築かれています。





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二の丸南側石垣、東方よりの景観

手前の角から順に、石垣の屈曲ごとに、二番櫓・三番櫓・四番櫓・五番櫓が立ち並んでいました。
一番奥に現存する六番櫓が見えます。

四番櫓・五番櫓は、慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦い後の混乱の中で、城内の大部分の建物とともに焼失。
二番櫓・三番櫓は昭和20年(1945)のアメリカ軍による大空襲で焼失してしまいました。





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一番櫓

手前の角が二番櫓の跡。
二の丸石垣は、ここで折れて北側に回り込みます。





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南外堀沿いは、桜並木が続いています。
つぼみが膨らみつつある段階のようですが、よく観察すると早くも桜色に色づき始めたつぼみを見つけました。

桜の季節が、もうそこまで来ているんですね。