久保田城 くぼたじょう (秋田県秋田市)
久保田城は、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)が築城しました。
慶長8年(1603)に着工し、翌年に完成。義宣が入城しています。
以後、秋田藩20万石・佐竹氏の居城として、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。
<本丸の表門>
*****
佐竹義宣、関ヶ原の「負け組」としての再スタート
佐竹氏は、元は常陸国(現在の茨城県)を支配する大名でした。
そのルーツは、平安時代後期の武将・源義光(源義家の弟)に遡るという名門です。
源義光は、新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)という通称の方が有名かも知れません。
ちなみに、武田信玄の武田氏、江戸時代の盛岡藩主・南部氏も、義光をルーツとしています。
さて、佐竹氏ですが、義光の孫・昌義が常陸国に下り、同国の久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を拠点としました。
そして、郷名にちなんで、佐竹氏を名乗りました。
以後、次第に常陸国内で実力を蓄え、鎌倉時代初頭には源頼朝も一目置くほどの勢力となっていました。
戦国時代、19代目の佐竹義重(さたけ よししげ)は、常陸国はもとより、下野国から陸奥国の一部にまで勢力を拡大します。
豊臣秀吉の天下統一後は、20代目の義宣(よしのぶ)が常陸国で54万石の領地を認められ、水戸城を居城としてました。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦を前に義宣は、徳川家康の指示に従い、会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を攻めるため、水戸城を出陣します。
しかし、石田三成の挙兵を知ると、途中で進軍を止め、水戸城に戻りました。
義宣は、豊臣政権に服属して以来、三成とは大変親しい間柄でした。何か示し合わせたものがあったのでしょう。
この態度が仇となり、戦後の慶長7年(1602)、家康によって石高を20万石に減らされた上で、出羽国秋田へ領地替えとなりました。
<二の丸から本丸を見る>
*****
新たな城と城下町の建設が、現在の秋田市街の礎に
秋田に移った義宣は、一旦、港町として栄えていた土崎の湊城(みなとじょう)へ入城しました。
しかし、土崎は海岸の小さな町で、発展には限界があります。
そこで義宣は、領国支配の拠点として、新たな城と城下町の建設を考え、その地を秋田郡の窪田郷(くぼたごう)に定めました。
当時の窪田郷は、その名の通り低湿地でしたが、平野は広く、街道と雄物川水運の結節点でもあり、発展の可能性を備えていました。
慶長8年(1603)から、窪田郷の神明山(標高40メートル)に築城を始め、翌年完成。
土塁造りで複雑な縄張を持つ大城郭でしたが、天守は建てず、本丸南西隅に望楼を載せた御殿・御出書院(おだししょいん)を建ててその代用としていました。
また、8棟あった櫓も質素な外観をしていました。
義宣は、地名の窪田を 「久保田」 に改め、城は久保田城と命名しました。
城下町の建設は、低湿地の埋め立てに河川の改修も加わって難工事でしたが、最終的に寛永8年(1631)頃までかけて完成しました。
こうした義宣の「再スタート」の努力で誕生した久保田城と城下町が、現在の県都・秋田市につながっているのです。
*****
久保田城を歩く
それでは、久保田城を歩いてみましょう。
久保田城は現在、神明山に構えられた本丸・二の丸の一帯が、「千秋公園」(せんしゅうこうえん)となっています。
私が踏査したのは、たまたま晩秋の頃でした。
千秋公園の名にふさわしく、城跡はさまざまな紅葉に彩られていました。
*****
二の丸から本丸へ登る「長坂」(ながさか)です。
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長坂門の跡です。
久保田城は土塁造りの城です。
このように主要な門や通路に限定し、土塁の裾に土留めの石組みを築くのみで、石垣は全く築かれていません。
しかし、土塁は急峻で容易に登ることは出来ません。
また、この長坂に象徴されるように、土塁で複雑な導線を構築し、高い防御力を備えています。
*****
長坂を上り詰めたら、真紅の紅葉が枝を張っていました。
この場所に、御物頭御番所(おものがしら ごばんしょ)が建っています。
久保田城内に唯一現存する建築遺構です。
*****
この番所の名前は、「御物頭」という役職の武士の詰所だったことに因みます。
御物頭は、長坂門の管理の他、城下町の警備、火事の消火を任務としました。
*****
御物頭御番所の内部です。
外観は平屋建てですが、一部は二階建てになっています。
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本丸の正面入り口にあたる表門です。
表門は、別名を「一ノ門」と言います。
平成12年(2000)に復元されました。
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表門を見上げると、柱に扇の形をした紋様が飾られているのが分かります。
佐竹氏の家紋 「五本骨披扇」 です。
*****
表門をくぐると本丸です。
かつては、この広々とした空間に、本丸御殿の建物が建ち並んでいました。
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本丸北側の帯曲輪門(おびくるわもん)跡です。
枡形の土塁が、銀杏の落ち葉で黄色く彩られていました。
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本丸に立つ佐竹義尭(さたけ よしたか)公銅像です。
義尭は、義宣から数えて12代目、最後の秋田藩主です。
対立していた藩論を 「一藩勤皇」 に決定し、幕末から明治維新に至る難局を乗り切りました。
ちなみに、平成26年現在の秋田県知事・佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏は、秋田藩主・佐竹氏の一門で、角館(かくのだて)
に領地を持った佐竹北家の21代目当主です。
ご先祖様たちと同じく、秋田を大切にする思いが深く、秋田県民から「殿」のニックネームで呼ばれることもあるんだとか。
*****
本丸の北西部は、土塁がひときわ高く築き上げられています。
現在、土塁の上には散策路が造られています。
秋に久保田城を訪れたならば、夕暮れ時にこの土塁に上がってみてください。
*****
西から差す夕陽で、全てが錦の如く輝きます。
*****
土塁の先端には、模擬天守風の隅櫓があります。
平成元年(1989)に建てられました。
鉄筋コンクリート造りで、内部は史料館になっています。
江戸時代、ここには新兵具御隅櫓(しんひょうぐ おすみやぐら)という二重櫓が建っていました。現在の隅櫓は、同じ名前を踏襲していますが、外観からして全く異なる姿をしています。
久保田城は、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)が築城しました。
慶長8年(1603)に着工し、翌年に完成。義宣が入城しています。
以後、秋田藩20万石・佐竹氏の居城として、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。
<本丸の表門>
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佐竹義宣、関ヶ原の「負け組」としての再スタート
佐竹氏は、元は常陸国(現在の茨城県)を支配する大名でした。
そのルーツは、平安時代後期の武将・源義光(源義家の弟)に遡るという名門です。
源義光は、新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)という通称の方が有名かも知れません。
ちなみに、武田信玄の武田氏、江戸時代の盛岡藩主・南部氏も、義光をルーツとしています。
さて、佐竹氏ですが、義光の孫・昌義が常陸国に下り、同国の久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を拠点としました。
そして、郷名にちなんで、佐竹氏を名乗りました。
以後、次第に常陸国内で実力を蓄え、鎌倉時代初頭には源頼朝も一目置くほどの勢力となっていました。
戦国時代、19代目の佐竹義重(さたけ よししげ)は、常陸国はもとより、下野国から陸奥国の一部にまで勢力を拡大します。
豊臣秀吉の天下統一後は、20代目の義宣(よしのぶ)が常陸国で54万石の領地を認められ、水戸城を居城としてました。
慶長5年(1600)、関ヶ原合戦を前に義宣は、徳川家康の指示に従い、会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を攻めるため、水戸城を出陣します。
しかし、石田三成の挙兵を知ると、途中で進軍を止め、水戸城に戻りました。
義宣は、豊臣政権に服属して以来、三成とは大変親しい間柄でした。何か示し合わせたものがあったのでしょう。
この態度が仇となり、戦後の慶長7年(1602)、家康によって石高を20万石に減らされた上で、出羽国秋田へ領地替えとなりました。
<二の丸から本丸を見る>
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新たな城と城下町の建設が、現在の秋田市街の礎に
秋田に移った義宣は、一旦、港町として栄えていた土崎の湊城(みなとじょう)へ入城しました。
しかし、土崎は海岸の小さな町で、発展には限界があります。
そこで義宣は、領国支配の拠点として、新たな城と城下町の建設を考え、その地を秋田郡の窪田郷(くぼたごう)に定めました。
当時の窪田郷は、その名の通り低湿地でしたが、平野は広く、街道と雄物川水運の結節点でもあり、発展の可能性を備えていました。
慶長8年(1603)から、窪田郷の神明山(標高40メートル)に築城を始め、翌年完成。
土塁造りで複雑な縄張を持つ大城郭でしたが、天守は建てず、本丸南西隅に望楼を載せた御殿・御出書院(おだししょいん)を建ててその代用としていました。
また、8棟あった櫓も質素な外観をしていました。
義宣は、地名の窪田を 「久保田」 に改め、城は久保田城と命名しました。
城下町の建設は、低湿地の埋め立てに河川の改修も加わって難工事でしたが、最終的に寛永8年(1631)頃までかけて完成しました。
こうした義宣の「再スタート」の努力で誕生した久保田城と城下町が、現在の県都・秋田市につながっているのです。
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久保田城を歩く
それでは、久保田城を歩いてみましょう。
久保田城は現在、神明山に構えられた本丸・二の丸の一帯が、「千秋公園」(せんしゅうこうえん)となっています。
私が踏査したのは、たまたま晩秋の頃でした。
千秋公園の名にふさわしく、城跡はさまざまな紅葉に彩られていました。
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二の丸から本丸へ登る「長坂」(ながさか)です。
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長坂門の跡です。
久保田城は土塁造りの城です。
このように主要な門や通路に限定し、土塁の裾に土留めの石組みを築くのみで、石垣は全く築かれていません。
しかし、土塁は急峻で容易に登ることは出来ません。
また、この長坂に象徴されるように、土塁で複雑な導線を構築し、高い防御力を備えています。
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長坂を上り詰めたら、真紅の紅葉が枝を張っていました。
この場所に、御物頭御番所(おものがしら ごばんしょ)が建っています。
久保田城内に唯一現存する建築遺構です。
*****
この番所の名前は、「御物頭」という役職の武士の詰所だったことに因みます。
御物頭は、長坂門の管理の他、城下町の警備、火事の消火を任務としました。
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御物頭御番所の内部です。
外観は平屋建てですが、一部は二階建てになっています。
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本丸の正面入り口にあたる表門です。
表門は、別名を「一ノ門」と言います。
平成12年(2000)に復元されました。
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表門を見上げると、柱に扇の形をした紋様が飾られているのが分かります。
佐竹氏の家紋 「五本骨披扇」 です。
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表門をくぐると本丸です。
かつては、この広々とした空間に、本丸御殿の建物が建ち並んでいました。
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本丸北側の帯曲輪門(おびくるわもん)跡です。
枡形の土塁が、銀杏の落ち葉で黄色く彩られていました。
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本丸に立つ佐竹義尭(さたけ よしたか)公銅像です。
義尭は、義宣から数えて12代目、最後の秋田藩主です。
対立していた藩論を 「一藩勤皇」 に決定し、幕末から明治維新に至る難局を乗り切りました。
ちなみに、平成26年現在の秋田県知事・佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏は、秋田藩主・佐竹氏の一門で、角館(かくのだて)
に領地を持った佐竹北家の21代目当主です。
ご先祖様たちと同じく、秋田を大切にする思いが深く、秋田県民から「殿」のニックネームで呼ばれることもあるんだとか。
*****
本丸の北西部は、土塁がひときわ高く築き上げられています。
現在、土塁の上には散策路が造られています。
秋に久保田城を訪れたならば、夕暮れ時にこの土塁に上がってみてください。
*****
西から差す夕陽で、全てが錦の如く輝きます。
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土塁の先端には、模擬天守風の隅櫓があります。
平成元年(1989)に建てられました。
鉄筋コンクリート造りで、内部は史料館になっています。
江戸時代、ここには新兵具御隅櫓(しんひょうぐ おすみやぐら)という二重櫓が建っていました。現在の隅櫓は、同じ名前を踏襲していますが、外観からして全く異なる姿をしています。