久保田城を歩く。  ~ 秋の彩りが美しい、土塁造りの名城 ~

2014-07-31 23:36:03 | まち歩き
久保田城  くぼたじょう    (秋田県秋田市)





久保田城は、佐竹義宣(さたけ よしのぶ)が築城しました。

慶長8年(1603)に着工し、翌年に完成。義宣が入城しています。
以後、秋田藩20万石・佐竹氏の居城として、明治4年(1871)の廃藩置県まで続きました。



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   <本丸の表門>


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佐竹義宣、関ヶ原の「負け組」としての再スタート



佐竹氏は、元は常陸国(現在の茨城県)を支配する大名でした。

そのルーツは、平安時代後期の武将・源義光(源義家の弟)に遡るという名門です。
源義光は、新羅三郎義光(しんらさぶろう よしみつ)という通称の方が有名かも知れません。
ちなみに、武田信玄の武田氏、江戸時代の盛岡藩主・南部氏も、義光をルーツとしています。

さて、佐竹氏ですが、義光の孫・昌義が常陸国に下り、同国の久慈郡佐竹郷(現在の茨城県常陸太田市)を拠点としました。
そして、郷名にちなんで、佐竹氏を名乗りました。
以後、次第に常陸国内で実力を蓄え、鎌倉時代初頭には源頼朝も一目置くほどの勢力となっていました。

戦国時代、19代目の佐竹義重(さたけ よししげ)は、常陸国はもとより、下野国から陸奥国の一部にまで勢力を拡大します。
豊臣秀吉の天下統一後は、20代目の義宣(よしのぶ)が常陸国で54万石の領地を認められ、水戸城を居城としてました。

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦を前に義宣は、徳川家康の指示に従い、会津の上杉景勝(うえすぎ かげかつ)を攻めるため、水戸城を出陣します。
しかし、石田三成の挙兵を知ると、途中で進軍を止め、水戸城に戻りました。
義宣は、豊臣政権に服属して以来、三成とは大変親しい間柄でした。何か示し合わせたものがあったのでしょう。
この態度が仇となり、戦後の慶長7年(1602)、家康によって石高を20万石に減らされた上で、出羽国秋田へ領地替えとなりました。



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   <二の丸から本丸を見る>


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新たな城と城下町の建設が、現在の秋田市街の礎に



秋田に移った義宣は、一旦、港町として栄えていた土崎湊城(みなとじょう)へ入城しました。
しかし、土崎は海岸の小さな町で、発展には限界があります。

そこで義宣は、領国支配の拠点として、新たな城と城下町の建設を考え、その地を秋田郡の窪田郷(くぼたごう)に定めました。
当時の窪田郷は、その名の通り低湿地でしたが、平野は広く、街道と雄物川水運の結節点でもあり、発展の可能性を備えていました。

慶長8年(1603)から、窪田郷の神明山(標高40メートル)に築城を始め、翌年完成。
土塁造りで複雑な縄張を持つ大城郭でしたが、天守は建てず、本丸南西隅に望楼を載せた御殿・御出書院(おだししょいん)を建ててその代用としていました。
また、8棟あった櫓も質素な外観をしていました。

義宣は、地名の窪田を 「久保田」 に改め、城は久保田城と命名しました。

城下町の建設は、低湿地の埋め立てに河川の改修も加わって難工事でしたが、最終的に寛永8年(1631)頃までかけて完成しました。

こうした義宣の「再スタート」の努力で誕生した久保田城と城下町が、現在の県都・秋田市につながっているのです。


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久保田城を歩く



それでは、久保田城を歩いてみましょう。
久保田城は現在、神明山に構えられた本丸・二の丸の一帯が、「千秋公園」(せんしゅうこうえん)となっています。

私が踏査したのは、たまたま晩秋の頃でした。
千秋公園の名にふさわしく、城跡はさまざまな紅葉に彩られていました。




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二の丸から本丸へ登る「長坂」(ながさか)です。



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長坂門の跡です。

久保田城は土塁造りの城です。
このように主要な門や通路に限定し、土塁の裾に土留めの石組みを築くのみで、石垣は全く築かれていません。

しかし、土塁は急峻で容易に登ることは出来ません。
また、この長坂に象徴されるように、土塁で複雑な導線を構築し、高い防御力を備えています。



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長坂を上り詰めたら、真紅の紅葉が枝を張っていました。

この場所に、御物頭御番所(おものがしら ごばんしょ)が建っています。
久保田城内に唯一現存する建築遺構です。



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この番所の名前は、「御物頭」という役職の武士の詰所だったことに因みます。

御物頭は、長坂門の管理の他、城下町の警備、火事の消火を任務としました。



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御物頭御番所の内部です。

外観は平屋建てですが、一部は二階建てになっています。



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本丸の正面入り口にあたる表門です。

表門は、別名を「一ノ門」と言います。
平成12年(2000)に復元されました。



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表門を見上げると、柱に扇の形をした紋様が飾られているのが分かります。
佐竹氏の家紋 「五本骨披扇」 です。


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表門をくぐると本丸です。

かつては、この広々とした空間に、本丸御殿の建物が建ち並んでいました。


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本丸北側の帯曲輪門(おびくるわもん)跡です。

枡形の土塁が、銀杏の落ち葉で黄色く彩られていました。



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本丸に立つ佐竹義尭(さたけ よしたか)公銅像です。

義尭は、義宣から数えて12代目、最後の秋田藩主です。
対立していた藩論を 「一藩勤皇」 に決定し、幕末から明治維新に至る難局を乗り切りました。

ちなみに、平成26年現在の秋田県知事・佐竹敬久(さたけ のりひさ)氏は、秋田藩主・佐竹氏の一門で、角館(かくのだて)
に領地を持った佐竹北家の21代目当主です。
ご先祖様たちと同じく、秋田を大切にする思いが深く、秋田県民から「殿」のニックネームで呼ばれることもあるんだとか。



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本丸の北西部は、土塁がひときわ高く築き上げられています。
現在、土塁の上には散策路が造られています。

秋に久保田城を訪れたならば、夕暮れ時にこの土塁に上がってみてください。


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西から差す夕陽で、全てが錦の如く輝きます。


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土塁の先端には、模擬天守風の隅櫓があります。
平成元年(1989)に建てられました。
鉄筋コンクリート造りで、内部は史料館になっています。

江戸時代、ここには新兵具御隅櫓(しんひょうぐ おすみやぐら)という二重櫓が建っていました。現在の隅櫓は、同じ名前を踏襲していますが、外観からして全く異なる姿をしています。







志波城を歩く。  ~ 古代ニッポンの全国統治の過程が見える大規模城柵 ~

2014-07-27 18:00:29 | まち歩き
志波城  しわじょう    (岩手県盛岡市)



志波城は、平安時代初期の延暦22年(803)、朝廷が坂上田村麻呂に命じて築かせた城柵(じょうさく)です。

城柵とは、古代の律令国家が、いまだ支配下に組み込まれていなかった本州東北部(現在の新潟県と、東北地方6県)を統治するために設置した行政府(役所)です。
外周を築地塀や材木塀で囲んで国家の威信を示すとともに、蝦夷(えみし)と呼ばれていた元からの住民たちの攻撃に備える構造となっていました。
これらの行政府は、当時の文献に「○○城」あるいは「○○柵」の名称で記されているので、歴史学上では城柵と言っています。



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志波城は、城柵の中で最も北に位置し、和我(わが)・稗縫(ひえぬい)・斯波(しわ)の三郡を統治していました。
(これは現代の岩手県の和賀郡、稗貫郡、紫波郡に相当し、佐賀県や香川県よりも広い地域です)

また、同時に2000名の兵士が駐屯する基地でもありました。

築地塀で囲まれた外郭は、一辺840メートル四方。
さらに、その外側を一辺930メートル四方の外大溝が囲っていました。
城柵として、最大級の規模を誇るものです。


しかし、築造後しばしば洪水に遭ったことから、弘仁3年(812)、南へ約10キロメートルの地点に徳丹城(とくたんじょう)を築き、行政機能を移転しました。




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志波城は、長らくその所在が分からなくなっていました。
昭和52年(1977)から昭和54年(1979)にかけて、盛岡市教育委員会が「太田方八丁遺跡」の発掘調査を行った結果、城柵の中心建物である正殿や西脇殿、西門、南門などの跡を検出。
そこが志波城の跡であることが明らかになりました。

昭和59年(1984)9月、国史跡に指定。

平成9年(1997)、南門や築地塀など、外郭南側の遺構群が復元されるとともに、「志波城古代公園」として一般開放が開始されました。


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それでは、志波城を歩いてみましょう。



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外大溝に架かる橋から見た外郭南門(がいかく みなみもん)です。
外郭南門は、志波城の正門にあたります。

柱間が5つあり、中央に扉を開く「五間一戸」(ごけんいっこ)の壮大な門です。
城柵の門では最大級の規模です。




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外郭を廻る築地塀は、高さ4.5メートルです。

築地塀に沿って、約60メートルごとに櫓が上げられています。
これらの櫓は、平時には見張り台として、有事には矢を射掛ける防御施設として機能するものです。




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築地塀の旧状を、生け垣で表示した部分。

ずっと向こうに、復元された築地塀と外郭南門が見えます。
一辺が840メートルという、かつての壮大な規模をうかがうことが出来る面白い工夫です。




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それでは、外郭南門から中へ入ってみましょう。




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外郭南門の正面に立つと、奥に政庁南門(せいちょう みなみもん)が見えます。




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発掘調査の結果、これら二つの門の間には、幅18メートル、長さ230メートルの道があったことが分かりました。
南大路と名づけられ、再現されています。



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政庁南門は、8本の柱から成る「八脚門(やつあしもん)です。




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政庁の南東側には、官衙(かんが = 役所)の建物が一棟、復元されています。


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政庁跡に入ってみましょう。

政庁は、中央北寄りに正殿(せいでん)を南向きに建て、東西に東脇殿、西脇殿を向かい合わせて配置していました。
これは、都の大極殿・朝堂院を簡略にしたものです。

まさに政庁は、天皇の権威を帯びつつ政務・儀式を行う神聖な空間でした



それでは、政庁跡の南東隅に建って、西から北、そして東へと全貌を見渡してみましょう。



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左側が、政庁南門です。


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左奥に見える門は、西門です。
広場の中央からやや右手(北寄り)に正殿の跡があります。

遠くに望む岩手山の景観は、当時と変わらないでしょう。


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東門です。


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東門から見た西門です。
ともに、4本の柱から成る四脚門です。








信長は、なぜ本能寺を宿所としていたのか?

2014-07-20 23:10:58 | うんちく・小ネタ
NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」、物語はついに本能寺の変を迎えました。

本能寺の変は、歴史上最も有名な事件のひとつですが、同時に最大級の謎のベールに包まれた事件でもあります。
そもそも、明智光秀はなぜ信長を討ったのか・・・。

光秀は天下が欲しかったという「野望説」、
信長からの度重なる非道な仕打ちに堪忍袋の緒が切れたという「怨恨説」、
あるいは、信長の天下構想に危機感を持ったという「信長野望阻止説」・・・・・
諸説紛々で、まさに迷宮入りです。

ちなみに、NHK大河ドラマ 「軍師官兵衛」で描かれた光秀謀叛の動機は、「信長野望阻止説」でした。



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1.なぜか、信長は京都に屋敷が無かった!? 


ところで、本能寺の変をめぐる謎は、光秀謀反の動機だけではありません。

信長が本能寺を宿所にしていたことも、実は大きな謎をはらんでいるのです。
厳密に言うと、信長が泊まっていたのは、本能寺の敷地内に自分専用に建てた御殿でした。

私たちのイメージでは、信長ほどの実力者ならば、京都の好きな場所に、城なり屋敷なりを造れば良いように思います。
しかし、信長が頻繁に上洛を繰り返した14年間のうち、京都に自分の屋敷を持ったのは、わずか2年余りの短期間でした。
それ以外のほとんどは、市街地に隣接する大寺院を転々として宿所に利用していました。
そして、最後は本能寺の敷地を間借りするように建てた御殿に泊まっていて、そこを明智光秀に襲撃され落命しました。

独立した屋敷を持たず、お寺に宿を取る信長・・・。
これには、果たしてどのような理由があるのでしょうか?



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    <本能寺跡付近に建つ石碑>





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2.戦国時代の京都


信長について考える前に、まずは戦国時代の京都を見てみましょう。
次の写真は、現代の京都の航空写真に、戦国時代の町の様子を略記したものです。


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京都の市街地は、室町時代中期の 応仁の乱(応仁元年~文明9年/1467~1477)で一面の焼け野原となりました。
その後、「町衆」(まちしゅう)と呼ばれた都市民たちの手で復興が進められました。
その結果、戦国時代の京都は、市街地が上京(かみぎょう)と下京(しもぎょう)とに分離し、それぞれ「町衆」による自治が行われていました。
両市街地は、室町小路(むろまちこうじ)によって連結されていました。

上京は、おおまかに言うと、老舗の豪商が多い街です。
この地域は、天皇の住む内裏、室町幕府将軍の御所に隣接しています。
また、公家屋敷、幕府の役人や諸国の守護たちの屋敷なども集中していました。
市街地の東側には、足利義満が建立した相国寺の大規模な境内がありました。
まさに、政治の中心地のお膝元として発展した地域でした。

一方、下京は、中小規模の商工業者が多い街で、新興の気概にあふれ発展してゆきました。
こうした人々は法華宗を厚く信仰し、「町衆」としての結束を強めていました。
そのため、本能寺や妙覚寺(みょうかくじ)など、大規模な法華宗の寺院が市街地に隣接して建っているのが特長です。


 

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3.京屋敷を持たない信長。 それは、足利将軍との微妙な関係から始まった
    ≪永禄11年(1568)~天正元年(1573)≫




永禄11年(1568)9月、信長は足利義昭を奉じ、6万人と号する大軍を率いて上洛。
室町幕府を傀儡化していた三好氏の勢力を、わずかな日数のうちに駆逐しました。
信長の武力を背景に、足利義昭は朝廷から征夷大将軍に任命され、室町幕府15代将軍となりました。

永禄12年(1569)2月、信長は京都に将軍義昭の居城を築き始めます。
その場所は、上京と下京の中間地点で、両市街を結ぶ室町小路の上にまるで胡坐(あぐら)を
かくような立地です。
「京都の中心に将軍が君臨する」
という権力構造を、視覚的に誇示する狙いもあったのでしょう。



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この城は、「公方御構」(くぼう おかまえ)、あるいは「武家御城」(ぶけ おしろ)と呼ばれていたことが当時の史料から分かります。まさに将軍の城として認知されていました。
(なお、現在の歴史学上では、この城は 「旧二条城/きゅう にじょうじょう」という仮称で呼ばれています)




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城普請は、時に信長自らが陣頭指揮を執り、70日間ほどの突貫工事で完成し、義昭が入城しています。
将軍義昭の居城の周りには、義昭を支持する大名たちの屋敷が建ち並び、城の威容をさらに一段と高めていました。

こうして京都に平穏が訪れたかのように見えましたが、ここに小さな綻(ほころ)びが芽生えていました。
他でもない信長が、義昭がどんなに勧めても、頑なに辞退して義昭居城の周りに屋敷を建てようとしないのです。

この時の両者の思惑は、およそ次のように考えられます。
義昭・・・「信長の屋敷を我が居城の周辺に建てさせ、信長が将軍の家臣であると世間に示したい。」
信長・・・「義昭は、政治利用するために将軍の座に就けたまでのこと。臣下の礼など取るものか!」

つまり、大名は京都のどこに屋敷を建てるかで、その地位や立場を世間に、さらには日本中に表明することになってしまうのです。
信長は、なにも室町幕府の再興を望んでいるのではなく、将軍義昭を自分の権力拡大に利用したいだけでした。
いずれ義昭に利用価値がなくなれば、袂を分かつつもりでした。
それだけに、ここで足利将軍の家臣であると表明すれば、将来の活動上、大きな制約ともなり兼ねません。
信長は、自らの天下構造に向けて、超然として居たかったのでしょう。

そこで、信長が考えた方策は、寺院への宿泊でした。

この時代、大名が寺院を宿所に利用することは、ごく一般なことでした。
寺院の境内は十分な広さがあり、大勢のお供を収容することができます。
また、周囲の高い築地塀は、いざというとき防御壁ともなります。
さらに、格式の高い寺院になると、貴人を迎える客殿を備えており、体面を保つことができます。

何よりも、寺院はあくまでも宿所ですから、信長の置かれている地位や立場をぼやかすことが出来ます。
むしろ、軍事力を背景に過大に世間に印象付けることが可能になる。
これこそが信長のねらいだったのでしょう。

そんな思惑を秘めた信長が注目したのは、下京の市街地に隣接する妙覚寺と本能寺でした。
特に本能寺は、かつて比叡山延暦寺の兵力に焼き討ちされた教訓から、周囲に堀と土塁を廻らせ、城館のような構えをしていました。

元亀元年(1570)8月と9月、相次ぐ上洛の際に、信長は本能寺を宿所としています。
そして、同年12月に本能寺宛に発給した文書の中で、
「本能寺は信長の定宿であるから、他の者が寄宿してはならない。」
と指示しています。(/『本能寺文書』)

しかし、その後は本能寺よりも妙覚寺をよく利用するようになります。
やはり、上京と下京とを結ぶ室町小路に面した妙覚寺の方が、信長の京都での実力を誇示するのに好都合と考えたのでしょう。



天正元年(1573)に至って、 足利義昭と信長の関係は決裂。

同年7月、義昭は、宇治の槇島城に籠城して抗戦しましたが、ほどなく信長に降伏。
河内国の若江を経て、毛利氏を頼って備後国へ落ち延びて行きました。
ここに、室町幕府は滅亡しました。


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室町幕府の滅亡後、信長はすぐには京都に屋敷を建てず、やはり妙覚寺を上洛時の宿所に利用するスタイルを続けました。
しかし、翌・天正2年(1574)以降、新たな動きを見せます。



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3.信長、幻の京都築城計画 
    ≪天正2年(1574)~天正3年(1575)≫


天正2年(1574)になって、信長は京都に自分の城を築くことを計画します。
場所は、上京の市街地に接する相国寺です。
相国寺は、応仁の乱で全焼した後、復興が進められていましたが、天文20年(1551)に細川氏と三好氏の戦いで再び全焼しました。
その後、どこまで復興されていたか不明ですが、室町幕府の力がいよいよ弱まっていた時代なので、広大な境内の多くは空き地のままだったのではないでしょうか。
信長は、この広大な境内を城に改造しようと考えたようです。

しかし、この築城計画は、何故か立ち消えになりました。
武田勝頼の侵攻(翌・天正3年、長篠合戦にて撃破)をはじめ、なお多くの敵と交戦中だったこと。
また、上京という土地柄が、とかく信長に反抗的だったことなども理由に考えられます。


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 4・妙覚寺の隣に、初めての京屋敷を建設
    ≪天正4年(1576)~天正7年(1579)≫
  

天正4年(1576)5月、信長は妙覚寺の東側(室町小路を挟んだ向かい側)にあった公家・二条晴良の屋敷地を譲り受けました。そして、自分の屋敷の普請を開始します。

なぜ、この時期になって、ようやく京屋敷を建てたのか、よく分かりません。
前年に信長が、従三位権大納言兼右近衛大将に叙任されたことが関連しているのかも知れません。
また、同じく前年に信長は、長男の信忠に織田家の家督を譲っています。
妙覚寺の宿所も信忠に譲って、別に隠居所を構える意図もあったのかも知れません。

信長が初めて建てたこの京屋敷は、「二条御新造」(にじょうごしんぞう)の名で史料に登場します。
翌・天正5年の夏には完成したようで、その後は上洛時には常に「二条御新造」に泊まっています。

ところが、天正7年(1579)11月、信長は「二条御新造」を誠仁親王(さねひとしんのう/正親町天皇の第一皇子)に献上しました。
これは、前年に、信長が右大臣と右近衛大将の官を辞した(正二位の位階は変わらず)ことも関係しているのでしょうか?
また、信長は建設当初から、この屋敷はいずれ誠仁親王に献上するという意志を持っていたとする史料もありますが、完成して2年余りも自分の屋敷として使ってから献上するというのもこれまた謎です。


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 5・そして、再び本能寺へ
    ≪天正8年(1580)~天正10年(1582)≫


そして、翌・天正8年2月より、新たな上洛時の宿所として、本能寺の敷地内に自分の御殿の建設を始めました。
転々と宿所を変え、再び戻ってきた本能寺。
それから1年4ヶ月の後、皮肉にも、ここが信長の終焉の地となったのでした。




弘前城を歩く。  ~ 保存状態の良さは、東北地方で一番! のお城 ~

2014-07-11 01:02:18 | うんちく・小ネタ
弘前城  ひろさきじょう  (青森県弘前市)




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弘前城は、津軽信枚(つがる のぶひら)が慶長15年(1610)2月より本格的な城普請に着手しました。
翌16年(1611)5月には一応の完成を見て、信枚が入城しています。
以後、明治4年(1871)7月の廃藩置県まで、弘前藩・津軽家の居城でした。

城跡は現在、弘前公園となり、東西約615メートル、南北約950メートルもあった城の敷地がほぼ残っています。
天守をはじめ、三重櫓3棟、櫓門5棟、番所1棟が現存し、東北地方の城の中で最も旧状をよく留めています。


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追手門です。
三の丸の南側に開く、弘前城の正面入り口です。

手前の堀は、外堀です。
弘前城は西側の岩木川を背後の守りとして、南・東・北の三方に、内堀・中堀・外堀の三重の堀を廻らせています。

外堀に沿って、歩いてみましょう。


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外堀を東側にまわった所に、東門が建てられています。
三の丸から城外に向かって開く、もう一つの門です。


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外堀に沿って北上すると、三の丸の北側に築かれた北の丸に至ります。

北の丸に建てられた亀甲門(かめのこもん)です。
北門とも呼ばれます。
弘前城の南東10キロメートルの地にあった大光寺城(だいこうじじょう)から移築した門と伝えられています。


以上の3棟の門が、城外から弘前城内へ入る主要な門でした。


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亀甲門を入って北の丸、続いて三の丸を南に進むと、内堀に突き当たります。

内堀越しに見る、二の丸北東隅の丑寅櫓(うしとらやぐら)です。


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さらに内堀に沿って南に進むと、東内門(ひがしうちもん)が建っています。

門を入ったところに与力番所(よりきばんしょ)が建っています。


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与力番所の辺りから見た天守です。

はやる気持ちを抑え、もういちど東内門を出て、内堀に沿って南進しました。


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南から見た二の丸です。

櫓は、二の丸の南西隅に建つ未申櫓(ひつじさるやぐら)です。


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内堀の南側に建つ南内門(みなみうちもん)です。
ここを入ると二の丸です。

なお、二の丸南側は、東西を2棟の三重櫓が固めています。

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二の丸南東隅の辰巳櫓(たつみやぐら)。


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同じく、南西隅の未申櫓。


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いよいよ天守に接近です。

築城当初、弘前城には五重天守が建っていました。
しかし、この五重天守は、寛永4年(1627)に落雷で焼失。
文化7年(1810)、本丸辰巳櫓を改築して建てたのが、現存する三重天守です。


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天守の外観は、本丸の外向き(南・東側)と内向き(西・北側)とでは、全く違う様相をしています。
窓の大きさ、屋根の破風飾りの有無などに注目してみて下さい。


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本丸から見た岩木山。

津軽の歴代の殿様も、ここから雄大な岩木山の姿を愛でたことでしょう。
とても贅沢な庭の借景です。





松前城  ~ さまざまな「唯一の・・・」を持つ、北海道のお城 ~

2014-07-08 02:16:24 | うんちく・小ネタ
松前城  まつまえじょう  (北海道松前郡松前町)



松前城は、北海道で唯一の天守を持つお城です。


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城主の松前氏のルーツは、室町時代の若狭国の守護大名・武田氏の一族と伝えられます。
故あって蝦夷地(北海道)に移り住み、その地の豪族・蠣崎(かきざき)氏の客分となり、やがて入り婿として蠣崎の家督を継ぎ、勢力を広げていった・・・・・と、されています。
しかし、確かなことは分かりません。

15世紀半ば頃、北海道の道南地方には、蠣崎氏のような豪族が12家あって群雄割拠していました。
この時代、北海道では稲作は出来ず、豪族たちは支配地を広げ、そこでのアイヌとの交易を財源としていました。

その後、蠣崎氏の当主にとても外交上手な人物が登場しました。
5代目とされる蠣崎慶広(かきざき よしひろ)です。
慶広は、豊臣秀吉によしみを通じ、文禄2年(1593)に「船役徴収権」を公認されました。
また、慶長9年(1604)には徳川家康から、アイヌ交易独占権を公認されて、大名としての財政基盤が整いました。

その少し前、慶長4年(1599)に氏を蠣崎から松前に改めています。
北海道で唯一の大名、松前氏の誕生です。

しかも、その財源が年貢米ではなく、海産物を主とする交易品によって成り立っている点でも、唯一の大名でした。


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慶長5年(1600)、松前氏は津軽海峡を見下ろす福山丘陵に新たな居城を築きました。
後の松前城ですが、当初は屋敷構え「福山館」(ふくやまだて)と称していました。
その規模は、東西93間(168メートル)、南北126間4尺(228メートル)で、決して大規模なものではありませんでした。

ただし、屋敷の内部はかなり立派だったようです。
後に福山館を訪れた幕府巡検使の一行は、その見事さに驚き、改めてアイヌ交易の利益の大きさを実感しています。

嘉永2年(1849)、幕府は松前氏に対し、福山館を本格的な城に改築するよう命じました。

この時期、日本近海に欧米の船が頻繁に出没し、特に北海道ではロシア侵略の危機感が高まっていました。
こうして誕生した松前城は、本丸に天守が建ち、その周囲に石垣と土塀を築き、櫓や門を配置した近世城郭でした。
しかし、その一方で、海に向かって砲台が並ぶという和洋折衷の部分もありました。


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外国の侵略に備えた松前城でしたが、明治元年(1868)、皮肉にも内戦の舞台となりました。
同年10月、榎本武揚を首魁とする旧幕府軍が北海道に上陸。
11月1日、旧幕府軍の軍艦が松前城へ艦砲射撃を開始、続いて新撰組生き残りの土方歳三率いる部隊が城に迫りました。
こうして5日間の戦いで松前城はあえなく落城しました。


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【ちょっと雑談・・・。】


江戸時代の大名は、参勤交代の制度によって、基本的に領国と江戸での1年ごとの二重生活を義務付けられていました。

参勤交代の制度は、建前では1年ごとに交代で将軍のお膝元の江戸を守るというのが目的でした。
実際には、大名の妻(正室)とその子供を江戸に人質として留め置き、大名に道中で多大な出費をさせ、反乱を起す力を削ぐ目的が大きいのでした。

そんな中、松前氏は領地が江戸からあまりに遠いという理由で、参勤交代では特例が認められていました。
諸大名の中で、唯一 「六年一勤」、つまり6年のうちに一度、江戸に出て暮らせば良いとされていたのです。
しかも、江戸での滞在期間は半年に短縮されていました。

この特例のよって、松前の殿様は、経済的には大変助かったことでしょう。

しかし、その一方で、家族との接し方では、かなりとまどったのではないでしょうか・・・。
なぜなら、松前の殿様は、江戸で奥方と半年暮らせば、その次はもう5年以上も会うことが出来ないのです。


また、殿様の江戸暮らし中に、奥方がめでたく懐妊したとします。

半年の江戸詰めを終えた殿様は、わが子の誕生を見ることなく、北海道に帰ってゆきます。
そして、殿様が念願のわが子に初めて会うとき、その子はもう数えて5歳になっています。
赤ちゃんの頃を知らないまま、いきなり5歳児の父となるのです。

そして半年間を子供と一緒に暮らし、また北海道の領地に帰る。 その次に会うときには、子供は10歳になっています。

再会するごとに、子供は一気に5歳ずつ大きくなっている。
また、殿様と奥方は、一気に5歳ずつ年を取っている・・・。

今、「超高速参勤交代」という映画がヒットしていますが、
松前氏の参勤交代をモチーフに、「超高速(で、子供が成長する)参勤交代」とか、
「超高速(で、夫婦が年を取る)参勤交代」というのも、
映画化してみたら面白いかも・・・ とか、勝手に想像してますが、いかがなものでしょうか?


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