有岡城を歩こう。 - 信長軍が苦戦した 「甚だ壮大にして、見事なる城」 の面影 - <「軍師官兵衛」

2014-05-28 23:44:30 | うんちく・小ネタ
有岡城 ありおかじょう  (兵庫県伊丹市)


さて、今年に入ってから「軍師官兵衛ゆかりの城」と題して、いくつかのお城を取り挙げてきました。
今回の有岡城は、その中でも電車でのアクセスの良さが抜群と言えます。
何せ、JR伊丹駅に降り立てば、そこは既に有岡城の本丸跡なのです。



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Photo

上の写真の中で、青い線で囲った範囲が有岡城の本丸(主郭)の跡です。
ここは、伊丹台地が東(画面左)へ突き出した丘で、廃城後も「古城山」と呼ばれ、城の姿をとどめていました。
しかし、明治時代の中頃、阪鶴鉄道(現在のJR福知山線の前身)がこの地に開通。
線路と伊丹駅の建設のため、丘の東側が削り取られてしまいました。

残る西側も、駅前として開発が続き、次第に破壊されてゆきました。
そんな中、奇跡的に本丸の北西隅の一帯は破壊を免れ、遺構を伝えています。



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それでは、有岡城を歩いてみましょう。
駅舎の2階に設けられた改札を出て、歩道橋を左手(西側)に進みます。
歩道橋を渡り終えた所が、削り残された本丸跡の高台です。



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歩道橋の突き当たりに、復元整備された土塁が南北に続いています。
土塁の上には、「史跡 有岡城跡」として、説明板が設けられています。

有岡城跡は、昭和54年(1979)に国史跡に指定されました。



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土塁の向こう側には、本丸の西側を囲む堀がありました。
発掘調査で確認された堀の跡は、一段低くして、人工芝を敷いて範囲を表示しています。
ここには車両が入って来ないので、子供たちの格好の遊び場になっていました。
史跡公園として、なかなか面白い活用方法です。


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それでは、本丸跡の北西隅に上ってみましょう。
削られた東と南側には、城郭風の模擬石垣が築かれており、南に入り口の石段があります。


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石段を上がると、急に雰囲気が変わります。
まぎれもなく、ここは戦国の城跡だという実感が湧いてきます。



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礎石建物の跡が表示されています。



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石垣が残っています。
荒木村重の時代の貴重な遺構です。

土塁の内側に石垣が築かれているのは、本丸内のスペースを広く取るためと考えられます。
本丸内には、御殿をはじめ、多くの礎石建物が建ち並んでいたのでしょう。



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石垣は、自然石を積み上げた「野面積」(のづらづみ)ですが、所々に真四角に加工された石も見られます。
これらは、石塔の部材を転用したものです。
信長の二条城、明智光秀の福知山城など、同時代の城の石垣に共通しており、興味深い遺構です。

なぜ、こうした転用石が用いられているのでしょうか?
「突貫工事による石材不足を補うため、あまりこだわらずに使える石材は何でも使った」
という説が一般です。
その一方で、
「転用石の中でも石塔・石仏など、宗教的な石造物には、呪術的な意図(たとえば、城の鎮護といったような・・・)が籠められている可能性もある」
という説もあります。

有岡城のこの部分の石垣は、よく見ると転用石がきれいに組み合わされています。
この石垣を積む時、一体どんな会話が交わされていたのでしょうか・・・・。
そんな想像をするのもお城めぐりの楽しみです。



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本丸の外(北側)から見た、北西隅の土塁です。



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かつては、この規模の土塁が本丸をぐるりと囲んでいました。


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そして、土塁の外側には、こうした堀が廻らされていました。
これらの遺構の規模から、有岡城は本丸だけでもかなりの防御力を持っていたことがうかがえます。


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以上が、有岡城の本丸跡に残る遺構です。

しかし、これはあくまで本丸跡。
実は、有岡城はとてつもなく大規模な城なのです。



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有岡城には、城を城下町もろともに囲む「惣構え」(そうがまえ)と呼ばれる防衛ラインが築かれていました。
堀と土塁、さらに天然の段丘を利用し、「岸の砦」・「女郎塚砦」・「鵯塚砦」の3つの砦を配置した「惣構え」の規模は、東西800メートル、南北1700メートルに及びます。


天正2年(1574)、荒木村重が城主となり、城の大改築に着手します。
その2年後の天正4年(1576)、この地を訪れた宣教師ルイス・フロイスは、有岡城を
「甚だ壮大にして、見事なる城」
と記録しています。
この「惣構え」が、後に信長軍の攻撃を1年近くに渡って頑強に阻む威力を発揮します。

有岡城跡を訪ねられた際は、時間に余裕があればぜひ、この「惣構え」の跡も散策されることをお薦めします。
特に、北端の「岸の砦」(現在、猪名野神社境内)の跡は、土塁と堀が良く残り、本丸跡と同様に国史跡に指定されています。
また、市街地化された区域でも、土地の高低差や堀の名残りの水路によって、長大な「惣構え」を実感することが出来ます。



有岡城 - 城の名に籠められた荒木村重の思い - <軍師官兵衛」ゆかりの城 ⑥ >

2014-05-25 19:30:50 | うんちく・小ネタ
久々に、NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」ネタです。

さぁ大変、物語が急転回です!

官兵衛(ドラマでは岡田准一さん)の古くからの同志であった荒木村重(同じく田中哲司さん)が、織田信長(同じく江口洋介さん)への不信感を募らせて、ついに反旗を翻します。
村重を説得して帰参させようと、単身で有岡城に乗り込んだ官兵衛ですが、逆に身柄を拘束されてしまいました。
そして、洞窟のような「土牢」(つちろう)に閉じ込められてしまいます。
敵軍の城で、劣悪な環境での幽閉。解放される目途は全くありません。
官兵衛の身の上に、生涯最大の危機が迫ります。
さあ、官兵衛は、そして黒田家は、この先一体どうなるのでしょうか???

・・・それでは、村重の居城・有岡城の話をしてみたいと思います。
大河ドラマのネタバレ(?)をやって興を冷まさぬよう注意しつつ、小出しに連載といきましょう。




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有岡城  ありおかじょう  (兵庫県伊丹市) 




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 <有岡城の本丸跡に残る石垣、転用石が組み込まれている>





(1) 前途洋々の荒木村重、城の名を「有岡城」と改名




有岡城は、元の名は伊丹城(いたみじょう)と言いました。

城は、兵庫県と大阪府の境界を南流する猪名川の西岸、伊丹台地に築かれています。
ちょうど台地が東に突き出した部分が本丸で、その直下には猪名川の低湿地が広がり、要害の地でした。

ここに初めて城が築かれた時期は定かではありません。
おそらく、鎌倉時代の末期、この一帯を支配していた伊丹氏の居館に始まるものと考えられています。
城の存在が、最初に文献上で確認できるのは、南北朝時代の文和2年(1353)です。
「北朝方の伊丹城に南朝方の軍勢が攻め寄せたが、撃退した」
ということが、戦況を報告した文書に記されているので、この頃には実戦に耐えられる城郭に改築されていたことが分かります。
その後、室町時代にかけて、「伊丹城」の名はたびたび合戦の舞台として、古文書に登場します。
城主の伊丹氏は、一時的に城を追われることもありましたが、城主の座を守り続けています。
伊丹城がとても守りの堅い城だったことがうかがえます。

天正元年(1573)、織田信長から摂津国を任された荒木村重は、翌・天正2年11月に伊丹城を攻撃。
降伏した伊丹氏を追放し、ここを自らの居城と定め、「有岡城」と改名しました。

この時期、信長やその配下の武将たちは、新たに居城を構えた際に、その地名を改めるということをよく行いました。
例えば、信長は美濃国の井ノ口を岐阜と改め、羽柴秀吉は近江国の今浜を長浜と改めています。
また、明智光秀も奥丹波支配の拠点として横山を福智山と改めています(※ 現在の福知山)。
荒木村重が実行した、「伊丹城」から「有岡城」への改称もその流れの中にあるものです。

ただし、注目したいのは「有岡」という新地名に籠められた村重の思いです。
村重が命名した「有岡」は、「有明の岡」という意味だと言われています。
ちなみに「有明」という言葉を広辞林(三省堂)で調べてみると
「月が空に残っていながら、夜が明けようとする頃」
と解説していました。

出自が定かでない身の上から、次第に頭角を現し、ついに信長から摂津国を任された村重。
自身の栄達とともに、信長の天下統一に向かってゆく新時代の到来を実感していたのでしょう。
この時、村重の前途はまさに洋々たるものでした。
「有岡城」という名称には、そんな村重の理想と意気込みが籠められているのではないでしょうか?


しかし、村重の運命は、わずか4年を経ずして暗転します。
天正6年(1578)10月、「村重が本願寺や毛利氏に通じ、有岡城に籠城している」
という噂が信長の耳に入ります。
信長は、明智光秀を使者として有岡城へ派遣し、実否を確認させました。
村重はこの時点では謀叛は考えておらず、弁明のため安土城に向かいます。
しかし、途中で配下の中川清秀(茨木城主)らに引き止められ、
「信長に一度疑われると必ず殺される。もはや、有岡城に籠城して戦うしかない!」
と考え直し、謀叛の決断を下しました。

荒木軍は敢闘しましたが、孤立無援の有岡城は、翌・天正7年(1579)11月に落城
この戦いの後、摂津国の荒木村重の旧領は、戦功のあった池田恒興(信長の乳兄弟)に与えられました。
そしてこの時、「有岡城」の名は、再び元の「伊丹城」に戻されたのです。

これには信長のすざまじい怒りが籠められているように思えてなりません。
信長にしてみれば、武将としての能力を評価し、大抜擢をした村重が謀叛を起したのです。
征伐してもなお飽き足らず、村重が命名した「有岡城」の名称すら抹消せずには居られなかったのでしょう。



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 <JR福知山線・伊丹駅西側にひっそりと残る有岡城の本丸土塁、手前は空堀跡>





 ≪ 以下次号 ≫