駿府城 ④ -ようこそ妖怪さん、宇宙人さん(3)-

2013-01-27 15:09:23 | うんちく・小ネタ
駿府城 すんぷじょう (静岡県静岡市葵区)


文化7年(1810)、「一宵話」(ひとよばなし)という随筆集が発行されました。
「たわけもの」が、意外な方法で家康の駿府城に侵入した慶長14年(1609)から、およそ200年後の事です。

「一宵話」は、尾張藩の儒学者・秦鼎(はた かなえ)の著述を、その弟子で絵師でもあった牧墨僊(まき ぼくせん)が編纂し、挿絵を入れて名古屋で初版本を発行しました。
内容は、古今東西の珍しい話、麗しい話をテーマに著者の見解を加えたもので、やがて江戸でも人気となり広く読まれました。



この「一宵話」の中に、慶長14年の駿府城の一件が「異人」というタイトルで採り上げられています。
「異人」というタイトルから、「一宵話」の著者は、「玉露叢」(前回のブログをご参照下さい)の話を知識として知っていたと考えられます。

なお、たいへん興味深いのは、その記述内容が、事件発生から200年経過したこの時期(文化年間初め)に成立していた「ある雑書の説」について、その解釈の誤りを指摘するというスタンスで書かれている事です。






以下、少し長くなりますが「一宵話」の「異人」の項について、全文を掲載します。
なお、考察の便宜上、文章に ①~⑤ までの区切りを設けました。

① は、今からここに載せるのは、「ある雑書の説」であるという著者の断り書き。
② は、「ある雑書の説」そのものの抜粋
③ も、同じく「ある雑書の説」そのものの抜粋
④ は、「ある雑書の説」に対する著者自身の見解
⑤ は、そもそも異人とは何者であったかの著者自身の見解


以上のように分類しています。



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change 2. ~妖怪変化だ! ツチノコだ! いや違う、キリシタンの怪物だ! もう何でもありの世界~






 
 『一宵話』 (ひとよばなし) 所収  「異人」 



慶長十四年四月四日に出し事は、旧記に見ゆ。
今此にあげしは、或雑書の説なり


神祖、駿河にゐませし御時、或日の朝、御庭に、形は小児の如くにして、肉人ともいふべく、手はありながら、指はなく、指なき手をもて、上をさして立たるものあり。
見る人驚き、変化(ヘンゲ)の物ならんと立ちさわげども、いかにとも得とりいろはで、御庭のさうざう敷なりしから、後には御耳へ入れ、如何取はからひ申さんと伺ふに、人の見ぬ所へ逐出しやれと命ぜらる。
やがて御城遠き小山の方へおひやれりとぞ。


或人、これを聞て、扨も扨もをしき事かな。
左右の人達の不学から、かかる仙薬を君には奉らざりし。
此は白沢図(ハクタクズ)に出たる、封といふものなり。
此を食すれば、多力になり、武勇もすぐるるよし見えつるを、縦(ヨシ)君には奉らずとも、公達又群臣迄も、たべさせ度ものを、かへすがへすも其時、ものしり人のなかりしからなりと、をしがれど、


此は譬へば生質虚弱なる人は、養生食といふ事をし、常々持薬に、八味地黄剤など、たえず服する事なり。
又強健の人になりては、八十余まで服薬せし事も、又背に灸の痕一ツもなきがごとく、神祖の御代の人達は、自然に多力武勇飽まであれば、薬食などこのむ事なし。
君も臣も、封の事はよくしろし召されつれど、穢はしき物をくひ、多力武勇にならんとは、武士の本意にあらず。
いと卑怯なる事なりと、捨させ給ひつらめ。
徼幸の福を志ざす人等、淫祠を崇め祭るも、大かたは此に似たる事なり。


「此怪物は、切支丹なり。
逐やれと仰れしといふにて、封とは形ことなり。
封はツトヘビ、ソウタの類ならん。
封は※の形なり。」


                                    『日本随筆大成(第一期)19』より






  (意訳)


慶長14年4月4日に異人が現れた事は、旧記に記されている。
今からここに載せるのは、ある雑書の説である


家康公が駿府城に居られた頃、ある朝、庭に子供くらいの背丈で「肉人」とでも表現すべき姿の者が現れて、指の無い手で上をさして立っていた。
これを見た人たちは驚いて、「ヘンゲの物(化け物)だ!」と騒ぎ、どうすることも出来ないで居た。
庭が大騒ぎになったので、家康公にどうすべきか聞いたところ「人が居ない所に逐出しやれ」との命令だった。
そこで、駿府城から遠く離れた山の方へ逐いやったそうだ。


ある人がこの話を聞いて言いました。
「さてさて、残念な事だな。
側に仕える人たちの無知のために、これほどの仙薬を家康公に差し上げることが出来なかったのだ。
これは「白沢図」(古代の支那で描かれたという霊獣・妖怪などの図解)に載っている封(ほう)というものである。
これを食べれば強壮になり武勇にも優れると書かれているのに。
家康公に食べて頂けないのならば、せめて若君様や家臣たちが食べれば良かったのに。
何度考えても、その時、知識のある人が居なかったのは残念だ。」


雑書にはこのように記されているが、そうする事は、例えば生まれつき体の虚弱な人が、精の付くものを食べ養生したり、常に強壮の薬を飲んでばかりいるようなものだ。
一方で、体の強健な人は、80歳を過ぎるまでそうした薬を服用する事も無く、背中に灸をした痕が一つも無いように、家康公の時代の人たちは、生まれつき強力であり武勇に優れていた。従って、そんなものを食べる事はしないのである。
家康公も家臣たちも、「白沢図」の封(ほう)の事は良くご存知であったが、けがらわしい物を食べてまで武勇絶倫になろうとする事は、武士の本意では無く卑怯な行為であるとお考えになり、捨てさせたのであろう。
封(ほう)を食べて武勇絶倫になろうとする事は、徼幸(きょうこう)の福(「棚からボタモチ」のような幸福)を強く望む人々が、いかがわしい神を信仰する事に似ている。


この怪物は、キリシタンである。家康公が「逐やれ」と仰せになったとの事だから、封(ほう)とは形が異なる。
封(ほう)は、ツトヘビ(ツチノコ)、ソウタの類である。封は※という形をしている。



  (注1):⑤は原文では、③の本文の上、行外に注記として書かれています。

  (注2):⑤の原文の※の部分には、横長の楕円形の下に一対の短い足が生えた形が図示されています。






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最後まで根気強く読んでいただき、本当に有難う御座います。

この「一宵話」の「異人」の項は、「ある雑書の説」を題材として、偶然の福を求めようとする人の欲望の愚かしさを批判しています。
「一宵話」は歴史書ではなく、あくまでも教訓を含めた随筆なのです。

また、「一宵話」が発行された文化7年(1810)は、「化政文化」と総称される町人文化が開花した時代にあたります。
「化政文化」は、大衆を読者にした「東海道中膝栗毛」などの文学が全盛期を迎えた明るい闊達な文化の反面、退廃的・享楽的な側面も伴っていました。
駿府城の一件を、もう何でもありの怪奇話として流布していた「ある雑書の説」は、そうした時代背景の産物なのでしょう。

なお、「一宵話」の著者・秦鼎(はた かなえ)は、駿府城に侵入した「異人」について、「この怪物はキリシタンだ」と断言しています。
あるいは、編纂の過程で牧墨僊(まき ぼくせん)が追記したものか、定かでは有りませんが、いずれにせよ突然のキリシタン説の登場です。
文化年間になると、「異人 イコール 外国人」と連想されるようになっていたのでしょうか。
これもまた時代背景の産物なのかも知れません。


人は、歴史上の出来事を考える時、とかく自分の生きている「現在」の価値観や解釈で考えてしまいます。
しかし、それでは歴史からはかけ離れ、実在しない「ファンタジーワールドの物語」になってしまいます。

「一宵話」および「ある雑書の説」は、江戸時代の史料には違いありませんが、事件の発生から200年も経って書かれたものであり、やはりその時代ならではの価値観や解釈が多分に入っています。
また、そもそもが歴史書ではなく別の目的で書かれた随筆なのです。

但し、それが書かれた文化年間という時代背景を知る上では、たいへん興味深い史料です。
読み手である「現代に生きる私たち」は、こうした点を正しくふまえた上で、史料すなわち歴史に接しなければなりません。

これは、歴史を学ぶ上での永遠の課題と言えるのかも知れませんが。



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さて、「一宵話」が広く読まれていた頃、幕府では40年の歳月を費やして大歴史書の編纂事業が進められていました。
「徳川実記」です。
何の接点も無いように思われる「一宵話」と「徳川実記」ですが、後にこの二つの本の記述が都合良く抜粋され、合成(!?)されて、現代に語られている「駿府城妖怪伝説」が誕生します。

今回はずいぶんと長文になってしまいました。続きは次回のご紹介と致します。
本当にお疲れ様でした。








B696




駿府城 ③ -ようこそ妖怪さん、宇宙人さん(2)-

2013-01-15 23:27:48 | うんちく・小ネタ
駿府城 すんぷじょう (静岡県静岡市葵区)


前回は、不審者侵入という駿府城の珍事について、その顛末を「当代記」の記述で確認してみました。
いよいよ今回からは、歳月とともに話に尾ひれが付けられて、トンデモない方向に変化してゆく経過を追ってみることにしましょう。
「たわけもの」として無罪放免になった不審者は、時代を超えて得体の知れない妖怪になり、ついには宇宙人になってしまうのです。

その前に、話がどのように変わったかを比較するために、もう一度原典である「当代記」の記述を掲載します。


「当代記」(とうだいき) 慶長14年(1609)4月4日の条

「駿府大御所御座之近所へ何とも知れず人、水はしりの板をくぐり来る。
則ち、戒め見けるに一円のたはけものなり。
誅戮ある可きに非ず、追放さる。」


(意訳)
駿府城本丸の家康公の御殿の近くへ、不審者が「水はしりの板」を通って潜入してきた。
捕えてみたら乱心者だった。
処刑するまでもないので、釈放した。



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change 1. ~家康公の礼賛に力を入れたら、こんな話になっちゃった!~


駿府城の珍事から65年経った延宝2年(1674)、「玉露叢」(ぎょくろそう)という歴史書が世に出ます。
著者は、幕府の儒学者・林鵞峯(はやし がほう)であるとも考えられています。
この本では、記述が以下のように変わっています。

「駿府の御庭に異人有り、四肢に指なく、弊衣乱髪、只食には青蛙を食ふ。
来る所を問うに、手を以て天を指す。
皆人殺さむとす。
大御所の仰に曰く、殺す事なかれと。因って城外に出す。
其在く所を知らず。」



(意訳)
駿府城の庭に異人(異形の人、つまり異様な格好・行動をする人物)が現れた。
手足に指が無く、粗末な着物を着て髪は乱れ、青蛙を食べていた。
どこから来たかと問うてみたら、手で天を指した。
家康公が殺してはならないと仰せになったので、城外に出した。
その行方は分からない。






思わず「あんた、見たんか?」と、ツッコミを入れたくなるような情景描写のオンパレードです。
もちろん、珍事の発生から65年も経って、ここで初めて登場する描写は脚色以外の何でもありません。

この文章を読むと、とかく前半の摩訶不思議な「異人」の描写に目を引かれがちですが、話の主題は後半の「家康公が殺してはならないと仰せになったので、城外に出した」の部分です。

そもそも、駿府城本丸に侵入して捕えられた者を生かすか殺すかについては、家康の判断を仰ぐのは当然です。
従って、「当代記」の「処刑するまでもないので、釈放した」という簡潔な記述でも、それは家康の判断だったという文意は十分汲み取れます。

しかし、「玉露叢」では「家康公が殺してはならないと仰せになった」とまで明記し、強調することによって、この話を「家康公は、殺生を好まない、とても情け深い君主でした」という逸話に変えています。
「家康公の礼賛」、これこそが「玉露叢」の著者のねらいなのです。


それでは、前半で侵入者を摩訶不思議な「異人」として描写するねらいは何でしょうか。
私は、ここにも「玉露叢」の著者の強い配慮が込められているように思います。
すなわち、本丸へ不審者の侵入を許してしまったということは、駿府城を警備する家臣たちの失態であり、ひいては家康の監督責任ということにもなります。
「家康公の礼賛」という文脈の構成上、著者にとって、これは非常にマズイことです・・・・

そこで、侵入者を不思議な能力を持った「異人」ということにして、空を飛んでやって来たと匂わせるような記述にしたのでしょう。
こうすることで、こんな凄い奴が相手なんだから、本丸まで入られても仕方ないという逃げが成立します。
つまり、前半の摩訶不思議な「異人」の描写は、「警備上の不手際ではないんだよ」という言い訳の伏線なのです。

なお、侵入者は「異人」であり、あくまでも人間(ニュアンスとしては仙人に近いのかも知れません・・・)だとしているところにも、著者のこだわりが感じられます。
侵入者を、人の力の及ばないキャラクターに設定するにしても、神君家康公が居住されていた「聖地」駿府城に、妖怪の登場はふさわしくないと考えたのでしょう。

先述したように「玉露叢」の著者は、儒学者の林鵞峯(はやし がほう)であるとも考えられています。
こうして見ると、幕府の御用学者が書いたとするにふさわしい、配慮に満ちあふれた文章だと言えるでしょう。


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さて、もちろんこれで終わりではありません。

「玉露叢」からおよそ140年後、駿府城の珍事は、さらにぶっ飛んだ話に飛躍してしまうのです。

それは次回にご紹介致しましょう。





B695




駿府城 ② -ようこそ妖怪さん、宇宙人さん(1)-

2013-01-03 11:30:54 | まち歩き
駿府城 すんぷじょう  (静岡県静岡市葵区)



6



さて、駿府城をインターネットで検索してゆくと、徳川家康が宇宙人と遭遇したという書き込みが散見されます。
いかにもネット社会で語られる都市伝説(時空を越えていますが・・・)のような話ですが、実はこの話はけっこう年季が入っていて、少なくとも30年以上は前から脈々と語り継がれて現在に至っています。

私がこの話を初めて聞いたのは、昭和57~58年頃、中学生の時でした。
「クイズダービー」(司会・大橋巨泉)というテレビ番組を観ていると、「次の中で、実際に歴史上の史料に記されている不思議な出来事はどれでしょうか?」という三択問題がありました。
その正解が、「徳川家康の駿府城に宇宙人がやって来た」というものでした。

その時、私はふと小学校の学級文庫で大人気だった「妖怪大百科」(水木しげる著)の記述を思い出しました。
巻末に妖怪年表という一覧表があって、その江戸時代の欄に「徳川家康の駿府城に、妖怪肉人(にくびと)が現われ、指の無い手で天を指した」と書いてあったのです。

中学生だった私は、この宇宙人話について
・・・これは、「妖怪が現れて、天を指した」という言い伝えに対し、限りなく想像力を膨らませて「その得体の知れない奴は宇宙人だ。宇宙人が宇宙を指して、何かのメッセージを伝えようとしたのだ」という解釈に持って行ったんだろうな・・・
と、結論付けて別段興味は感じませんでした。
ただ、どうしたわけか、この「駿府城と妖怪(現代的解釈?で宇宙人)」の伝説は、その後も記憶の片隅に残り続けました。


その後、大学の史学科に進んだ私は、ある日偶然、史料の中から「駿府城と妖怪」のネタ元になった記述を発見しました。
それは、駿府城本丸の家康の御殿近くへ、不審者の侵入があったことを伝える以下の記述でした。





「当代記」(とうだいき) 慶長14年(1609)4月4日の条

「駿府大御所御座之近所へ何とも知れず人、水はしりの板をくぐり来る。則ち、戒め見けるに一円のたはけものなり。
誅戮ある可きに非ず、追放さる。」



(意訳)
駿府城本丸の家康公の御殿の近くへ、不審者が「水はしりの板」を通って潜入してきた。
捕えてみたら乱心者だった。処刑するまでもないので、釈放した。





この不審者は、妖怪でも宇宙人でもありませんでした。はっきりと「人」と書いてあります。

ところで、そもそも徳川家康の駿府城本丸に不審者が入ってくるという珍事が本当にあったのでしょうか?

「当代記」の著者は不明ですが、徳川氏一門の大名・松平忠明(家康の外孫)が編者であるとも考えられています。
内容は戦国時代後期から江戸時代初頭の世相を記したもので、歴史学上の史料価値は極めて高いとされています。

また、駿府城の構造からも、本丸への不審者の侵入は起こり得たと私は思います。

「当代記」には、不審者が「水はしりの板」を通って入ってきたと書いてあります。
この「水はしりの板」というのは、堀に渡された木造の水道管(樋)のことと考えられます。


7

(駿府城復元模型)

駿府城には3重の堀が廻らされていますが、それぞれの堀には城外から本丸庭園の池に水を導くための水道管が橋のように渡されていました。
写真の赤い矢印の箇所に、堀を渡る水道管が設けられています。


この水道管を伝って行けば、警備の厳しい城門をひとつも経由せずに最短距離で直接本丸に入ることが出来なくはありません。
あるいは、「水はしりの板をくぐり来る」という表現は、水道管の中を通ってきたという意味にも取れます。
人が中を這って通れるくらいの大きさがあったのかも知れません。

本丸への不審者の侵入というこの珍事の後、駿府城に詰める武士たちは「水はしりの板」の付近の警備を厳重にして、再発防止に努めたことでしょう。

さあ、これにて一件落着、と言いたいところですが・・・


その後、この「駿府城への不審者侵入」の一件は、時代が下るとともに、次第に尾ひれが付けられて、まったく違う話に変化してゆくのです。
その変化の過程は、次回にご紹介致しましょう。



駿府城 ① -家康公はここでニッポンの未来を考えた-

2013-01-01 23:43:42 | まち歩き
駿府城 すんぷじょう (静岡県静岡市葵区)


あけましておめでとうございます。
いつもご愛読有難う御座います。
ブログを始めて2カ月余、新年を迎えました。
今年も何卒宜しくお願い申し上げます。



1

写真は駿府城の二の丸・東御門です。
何年か前の正月休みを利用して訪ねた時の写真です。
門の両脇に門松が立っていて、元旦のブログを飾るのにちょうど良いかなと思って載せてみました。





2


駿府城は、慶長12年(1607)に徳川家康が自らの隠居城として築いた城です。
およそ800メートル四方の敷地に水堀と石垣を3重に廻らせ、本丸に五層七階の天守を上げた大城郭でした。

ところで、隠居城といっても、家康はここで悠々自適の隠居生活をするつもりだったのでは有りません。

家康は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦で勝利し、慶長8年(1603)には征夷大将軍に任ぜられ江戸幕府を開きました。
しかし、江戸幕府の全国統治体制は、まだまだ急ごしらえのようなものでした。
一方で、大坂城には豊臣秀吉の遺児・秀頼が健在で、秀吉政権時代の権限の一部をなお保持していました。
世間には、秀頼が成人すると家康は政権を譲るだろうと見るムードすら有りました。





3

そこで慶長10年(1605)、家康は将軍職を息子の秀忠に譲ります。
「将軍職は徳川家の世襲である!」ということを世間に示すことが目的でした。
将軍を引退した家康ですが、前将軍すなわち「大御所」(おおごしょ)として依然として政治の実権を握り続けます。

そして慶長12年(1607)、駿府城の築城に着手します。
この地を選んだ理由は、東海道の宿場であり、江戸の前衛として上方を睨むのに適した地の利や、安倍川を防衛線として敵を迎え撃つ軍事上の優位性が考えられます。





4

家康はここ駿府城で、全国統治を強固なものとするための手を着々と打ってゆきます。

また、後に江戸幕府が鎖国政策をとった為、とかく現代人は「徳川は西洋への関心が薄かった」というイメージを抱きがちですが、駿府在城時代の家康は西洋諸国との外交・交易にも熱心でした。
家康は、駿府城でルソン太守ドン・ロドリゴやイギリス人セイリスとの対面も行いました。
また、イギリス人のウィリアム・アダムズ(三浦按針)から西洋の数学を学んでいます。
久能山東照宮(静岡市駿河区)に伝わる家康遺品の洋時計・洋ハサミ・鉛筆・眼鏡・びいどろ(ガラス)壺からは、進取に富んだその人柄を知ることができます。

慶長20年(1615)、家康は大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、国内から敵対勢力を一掃します。
そして元和2年(1616)、 駿府城でその一生を閉じました。



 
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5


「余話」

かつて駿府城を訪ねた時、ボランティアガイドをされていた方から興味深い話をうかがいました。
近年、海外では日本の江戸時代を「200年以上にわたって内乱の無い平和が続いた世界史上まれにみる時代」と評価する機運が高まっていて、そうした関心で駿府城を訪れる外国人観光客に良く会われるそうです。
「駿府城は、太平の世の礎を築いた城」・・・外人さんの見事な洞察力に脱帽です。