和歌山城   < 紅葉の名所のお城 2014 >

2014-10-13 18:44:34 | 旅行記
和歌山城  わかやまじょう     (和歌山県和歌山市)




早いもので、10月も中旬となりました。
秋の恒例企画 「紅葉の名所のお城」 として、今回は和歌山城をご紹介致します。
(撮影/2002年11月10日)

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<始まりは、秀吉>


和歌山城は、徳川御三家の一つ、紀州徳川家55万5000石の居城として有名です。
しかし、この地に最初に築城したのは、実は羽柴(豊臣)秀吉なのです。

天正13年(1585)、紀伊国を平定した秀吉は、紀ノ川河口に近い平野に新たな築城を企てます。
場所を 「吹上の峰」(ふきあげのみね)と呼ばれていた小山に定め、自ら縄張り(設計)をしたと伝えられます。
(『紀伊続風土記』)
そして、秀吉の弟・秀長が築城に着手し、完成した城は「若山城」(わかやまじょう)と命名されました。
城の名はその後、近くにある景勝地の「和歌浦」に因んで「和歌山城」と表記を改めます。

一説に、「和歌山」という表記は、秀吉の書簡(天正13年7月2日付)が最初とも言われています。
秀吉こそ、和歌山の「生みの親」と言って良いでしょう。




<歴代城主が増改築>

和歌山城主は、はじめは秀長の城代として入城し、のちに4万石の大名(城主)となった桑山家
次は、慶長5年(1600)の関ヶ原合戦の戦功で、徳川家康から紀伊国37万6000石を与えられた浅野家
そして元和5年(1619)、芸備(安芸国・備後国=現在の広島県)へ領地替えとなった浅野家に代わり、徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)が、紀伊国全域および伊勢国南部と大和国の一部を領有する55万5000石の大名として入城しました。
以後、紀州徳川家歴代が城主を務め、明治に至りました。

こうして見ると、次第に石高が大きい大名が城主を務めるようになっていることが分かります。
石高は、大名の財力を示します。
歴代城主が行った増改築によって、和歌山城は名城としてまさにグレードアップしていきました。



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和歌山城は、とても表情豊かなお城です。
見る場所によって、全く異なる印象を与えてくれます。

これは最大幅70メートルを超える東堀からの眺め。
さながら水辺の絶景です。


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南側は台地続きのため、堀はありません。
代わりに城内で最大規模の高石垣をめぐらせて守りを固めています。



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それでは、天守を目指して山に登ってみましょう。
山の高さは、標高48.9メートル。

山腹から山頂にかけて累々と築かれた石垣は、自然石を積んだ野面積み(のづらづみ)です。
その外見の粗々しい印象から、まるで険しい岩山に登っているような気分になります。



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秋空に映える天守です。

戦前は国宝に指定されていましたが、昭和20年(1945)7月9日の夜、アメリカ軍による和歌山大空襲で無残にも焼失。
現在の天守は、昭和33年(1958)、鉄筋コンクリート造りで外観復元されたものです。



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天守最上階からの眺望です。

紀ノ川が海にたどり着き、その向こうには水平線。
右手には淡路島の島影も見えます。



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目を転じれば、遠くに霞む山並み。
その先は、高野山や熊野がある紀伊山地へと続いています。

田辺城を歩く。 <紀州徳川家の付家老・安藤氏の居城>

2014-10-06 23:52:22 | 旅行記
田辺城  たなべじょう    (和歌山県田辺市)



所用があって、和歌山県の田辺市へ行ってきました。

田辺は、温泉地として有名な南紀白浜に隣接しています。
風光明媚な海岸の風景が、目の前に広がる街です。

江戸時代には、紀州徳川家の付家老・安藤家3万8800石の城下町でした。


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二日目の朝、少し早起きして街を散策してみました。



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宿を出て少し歩くと、美しい砂浜に出ました。
その名も「扇ヶ浜」。

なんとも風雅な地名です。 



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田辺湾の沖に目をやると、遠く水平線が見えました。



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海岸の通りを西に向かって歩きました。
少し行くと、道路脇に小高い丘のようなものが見えてきました。

幕末、田辺城に隣接して築かれた砲台・扇ヶ浜台場(おうぎがはま だいば)の跡です。

欧米列強の侵攻に対する危機感が高まる中、
紀伊半島の先端に近い田辺領では、沖を航行する外国の軍艦がたびたび目撃されるようになっていました。

安政元年(1854)、領主の安藤直裕(あんどう なおひろ)は、田辺の町を防衛するため、江戸で砲術を学んだ家臣・柏木兵衛(かしわぎ ひょうえ)に命じて、扇ヶ浜台場の構築と大砲数十門の鋳造に着手しました。



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完成した扇ヶ浜台場の規模は、全長約180メートル、幅90~100メートル。
海に面する側には、約9メートルの高さに土塁を築き、巨大な大砲を配備していました。
大砲の試射を行ったところ、砲弾は田辺湾入り口の白浜半島沖に着弾するという威力を発揮しました。

幸い、扇ヶ浜台場は戦場となることなく明治維新を迎え、やがて廃されました。
その後、土取りで大きく形を変えました。

現在は、カトリック教会の敷地となっています。






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さて、いよいよ田辺城へと向かいましょう。

扇ヶ浜台場の前を過ぎると、ほどなく会津川河口に架かる田辺大橋のたもとに着きました。
南に海岸、西に会津川が接するこの一帯が、かつて田辺城の跡です。




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城跡は、埋め立てと道路建設によって、水際から切り離されています。
一見したところ、ここが城跡だとは、ちょっと気付き難いほどの変貌振りです。


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田辺城の歴史は、慶長11年(1606)に浅野氏定(あさの うじさだ)によって築かれた湊城(みなとじょう)に始まります。

元和5年(1619)、氏定は主君・浅野長晟(あさの ながあきら/和歌山城主)が芸備(安芸国・備後国=現在の広島県)へ領地替えとなったのに従い、田辺を去りました。

代わって、紀州の新領主として和歌山城に入城したのが徳川家康の十男・頼宣(よりのぶ)です。
ここに、紀州徳川家の歴史が始まります。
田辺は紀州徳川家の重臣・安藤直次(あんどう なおつぐ)の領地となりました。

新たな領主となった直次が初めて田辺に来た時、湊城はすでに無く、民家に宿泊したと伝えられています。(『田辺大帳』)
おそらく湊城は、元和元年(1615)の一国一城令で破却されていたのでしょう。
そして、直次が湊城の跡に再興したのが田辺城です。



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田辺城の本丸の復元図です。
本丸御殿が建ち並んでいます。

田辺城は、近世の城としては規模が小さく、天守や高層の櫓も建てられていませんでした。
しかし、石垣の上に連なる白壁の土塀が海に映えて、美しい景観を構成していました。

そうした景観に由来するものでしょうか。
錦水城(きんすいじょう)の別名があります。

本丸の北から東にかけては、本丸を取り囲むように二の丸が構えられていました。


 
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田辺城本丸跡の一角は、小さな公園になっています。

鳥居の左手に櫓を模したような構造物がありますが、この中に珍しいものが展示してありました。


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それは、田辺城の屋根を飾っていた一対の鯱瓦です。
写真はそのうちの一つ。


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そして、城主・安藤氏の家紋 「下り藤に安」(さがりふじにあん)が入った軒丸瓦です。
名字の「安」という字がそのまま入った家紋というのが、なかなか面白いです。


ちなみに安藤直次は、幼少の頃から家康に仕え、側近中の側近として江戸幕府の政治に関与していました。
その後、家康は、いまだ若年の十男・頼宣を大名とするため、その補佐役の一人として直次を頼宣の家老として配属しました。
これを付家老(つけがろう)と言います。

今風に言うと、親会社の「江戸幕府」から子会社の「紀州藩」へ役員として出向・・・といったところでしょうか。
(ただし、現代のサラリーマンとは異なり、この「出向」は、安藤家代々の世襲となるのです)

安藤氏は、こうした特異な立場にあったため、紀州藩に仕える身でありながら、特例として居城を構えることが許されました。
しかし、田辺城を天守がそびえ建つ派手な城にすることは、さすがに遠慮したようです。
また、安藤氏の当主は、常に和歌山城に詰め、付家老としての執務を行わなければなりません。
城主不在が常なので、必然的に田辺城はコンパクトな城になったのでしょう。
また、城普請も徹底しておらず、石垣の上に土塀が造られず、仮に柴垣や竹垣を廻らせた部分もあったようです。

前述した「錦水城」の別名を持つ、美しい城として完成したのは、江戸時代後期の天保2年(1831)のことでした。


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さて、本丸跡の一角に、全国的に見ても珍しい「水門」(すいもん)の遺構があります。

水門といっても、水を塞き止める堰(せき)のことではなく、船付き場に通じる専用の門のことです。



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本丸の隅にある石段を下ります。
その先は、トンネル状の通路になっています。



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石段を下りきった所です。
門の礎石と石製の敷居が残っています。
ここに扉がありました。

かつては、この水門を出たら会津川の畔で、その場から乗船できました。

現在、向こうにもうひとつトンネル状の通路がありますが、これは現代の道路工事に伴うものです。



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道路の下のトンネルを抜けて、会津川の畔に出てみました。

水量は豊かで、ひたひたと打ち寄せています。
船が本丸に直接乗り付けていた時代を彷彿とさせます。



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田辺大橋の先に、海の波頭が見えます。
水門が、海上交通と直結していた様子が良く分かります。



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再び水門の前に戻ってみました。

外から見た水門の石垣です。



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この部分の石垣は、独特な積み方をしています。

外側は、波や増水時などの水圧に耐えるように緩い傾斜で石を積んでいます。
一方、トンネルの壁面となる内側は、垂直に石を積み上げて門の密閉性を高めています。

また、天井には丁寧に加工した石の角材を架け渡しています。



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門の礎石です。
この礎石の上に、門の両脇の柱が建っていました。

ここに興味深い遺構があります。
礎石に柱が建っていると想像して、柱に接する石垣を見てみましょう。
柱が石垣にしっかりとフィットするように、石垣の表面にへこみが付けられているのが分かります。


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門をくぐった先の石段です。

二十段で本丸に達するように造られています。
十三段目までは幅が広く、十四段目から急に幅が狭くなっています。

一般的に、お城の中でこのように通路が急に狭くなっている場所は、敵の侵攻速度を鈍らせるための防衛上の工夫と解釈されます。
しかし、この水門の石段の場合は規模が小さく、こうした構造にしてもあまり防衛上の効果は無いように思えます。
むしろ、ステータスとして軍学の理論を取り入れたものと見るべきでしょう。



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石段が急に狭くなっている部分は、もちろん登り下りする人の足に踏まれる頻度も高くなります。
それが石段のへこみになって、しっかりと現れています。

江戸時代にこの石段が築かれてから、現代までの数百年。
幾多の人々の歩みが刻み込んだ、貴重な歴史遺産です。










佐賀城 ④ -佐賀城シンポジウム 「佐賀城天守を考える」-

2012-12-15 10:44:32 | 旅行記
平成24年11月24日に行われた 佐賀城シンポジウム「佐賀城天守を考える」を聴講させて頂きました。
特に前半の基調報告では、とても興味深い報告の数々を聞くことが出来ました。
実はこの日は朝4時起きで家を出て、始発の福岡行きの飛行機に飛び乗り、博多から特急で佐賀に駆け付けるという強行軍だったのですが、疲れも忘れてしまう程の充実した内容でした。

以下、要旨をご紹介します。


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「発掘調査から見た佐賀城天守-佐賀城本丸の遺構-」
  (講師:松本隆昌氏・佐賀市教育委員会文化振興課主査)

佐賀城本丸の発掘調査は、本丸跡にあった赤松小学校が平成5年に移転したことが契機になりました。当時、本丸跡には鉄筋コンクリート造りの県立歴史資料館の建設が計画されており、その工事に先立って試掘したところ、予想に反して本丸御殿の礎石が次々と検出され、現場からは驚きの声が上がりました。そこで平成5年から6年にかけて佐賀市主体で本格的な調査が行われ、本丸御殿の遺構が良好な状態で確認されました。なお、これらは天保期の本丸御殿の遺構ですが、一部ではその約50cm下層から創建期の本丸御殿の礎石も検出されています。

今回の天守台発掘調査でも遺構が良好な状態で確認され、以下のことが分かりました。

(1) 巨大な天守を再認識できた。
(2) 土台は石を敷き詰めて大きな礎石を配列。慶長期の礎石が比較的良好な状態で保存されていた。
(3) 礎石の配列から1階部分の部屋割りが推定できる。
(4) 享保の大火を物語る火災痕跡のある多くの礎石・敷石・遺物の大量出土→眼で見る大火の物証(これまでは文献資料・火傷痕のある一部の石垣のみで確認)。
(5) 武器の出土→天守の利用方法。これまで文献から天守に武器が置かれていたことは推定されていたが、物証できた。
(6) 瓦以外に釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物が出土し、建物の様相の一部が判明した。


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「絵図から読み解く佐賀城の謎」
  (講師:高瀬哲郎氏・石垣技術研究機構代表/藤口悦子氏・徴古館主任学芸員)

財団法人鍋島報效会には佐賀城の絵図が多数所蔵され、時代ごとの城の構造の変化を知ることが出来ます。この講演では、絵図に描かれた佐賀城の構造を詳しく見て、その意味と時代背景を読み解いてゆきました。
築城の計画図である「慶長御積絵図」(けいちょうおつもりえず)には、本丸・二の丸は総石垣造り、三の丸・西の丸の前面は石垣・土塁と水堀で厳重に防禦され、その外側の重臣屋敷街の外周を廻る土塁上には4棟の隅櫓が建ち、西門・北門・東門は全て枡形門に描かれています。
これらの普請が部分的にしか実現しなかったのは、元和元年(1615)に幕府が出した武家諸法度の新規築城禁止を受けて中止したためと考えられます。佐賀城は厳密には未完成の城でした。
しかし、長崎街道に接する北側には、城下町を隔てて東西に十間堀を開削し、さらに堀を廻らせた城郭構えの寺院2ヶ所と出城を配置して防衛線を構築していました。
豊後・岡藩の密偵が佐賀城下に潜入した際の報告書にも、佐賀城には容易に入ることが出来ないという意味の事が書かれています。未完成でも守りの堅い城だったのです。

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「佐賀城天守-古式で最新型であった全国最大級の天守-」
(講師:三浦正幸氏・広島大学大学院教授)

佐賀城天守台の発掘調査によって、天守の内部構造は書院造り(礎石の配列から判明)、窓は突上戸(多数の蝶番=ちょうつがい=が出土)だったことが明らかになりました。
ともに古式に則った構造で、格式の高い天守を志向したと考えられます。
一方、天守の外観は、屋根には破風を設けない四重の層塔式天守(「寛永御城并小路町図」)という最新の意匠を凝らしていました。
また、「元茂公御年譜」には、佐賀城天守は黒田如水から提供された小倉城天守の図面に基づいて建てられたと記されていることから、小倉城天守と同じく最上階の5階が4階より大きく張り出した斬新な唐造りだった可能性も考えられます。

※ 先に天守台の発掘調査の項で触れましたが、佐賀城天守の礎石は最大で一辺1.8m、厚さ0.7mにも及ぶ巨大なものです。他の城の天守では、この三分の一くらいのサイズの礎石が使われており、類例のない大きさです。
また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。



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佐賀城 ③ - 築城400年記念事業で天守台を発掘調査・其の二 -

2012-12-05 00:11:06 | 旅行記
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礎石群は、火災の高熱で赤黒く焼け爛れており、亀裂の入ったものもあります。

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また、高熱で赤く変色した瓦や、



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高熱で化学変化を起して敷土や壁土と一塊になった瓦も見られ、火災の凄まじさを物語っています。

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焼け跡の整理の際に遺棄されたと見られる小札(こざね)や佩楯(はいだて)などの甲冑の部品、槍の石突(いしづき)などの武具が出土しました。


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甲冑は天守に納められていた歴代藩主のものである可能性が考えられます。

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さらに、釘や鎹(かすがい)、蝶番(ちょうつがい)、用具掛けなど建築に関する遺物も出土し、天守の様相の一部も判明しました。

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特に大量に発見された蝶番(ちょうつがい)から、天守の窓が突上戸(つきあげど)であったことが判明しました。


佐賀城 ② - 築城400年記念事業で天守台を発掘調査 -

2012-12-03 22:24:23 | 旅行記
享保11年(1726)3月4日、佐賀城東北方の武家屋敷地で火災が発生しました。
悪いことに、その日は「東北の風、以てのほか烈しく」という状況で、強風に煽られた炎は、広大な四十間堀を越えて城内に飛び火します。
その結果、天守・本丸御殿をはじめ、本丸・二の丸・三の丸の建物は、ほぼ全焼してしまいました。


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【寛永3年(1626)の絵図 立派な天守が描かれる】

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【元文5年(1740)の絵図 天守が失われている】


以後、佐賀城の天守は再建されることなく、天守台のみを今に伝えています。


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天守台は、石垣の高さ5間(約9.8m)、台上の広さ15間×13.5間(約29.5×約26.6m)という巨大なものです。


ところで、平成23年(2011)は、佐賀城内曲輪がほぼ完成し鍋島勝茂が本丸御殿に移った慶長16年(1611)から400年目の年でした。
佐賀市ではこれを築城400年と位置付け、同市教育委員会によって3年計画での天守台の発掘と文献の調査が開始されました。
発掘調査は、平成24年10月から本格的に始まり、他の城に類を見ないような数々の発見がありました。
以下は、11月24日に行われた現地説明会及び佐賀城シンポジウムの概要です。


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また、礎石の範囲から、天守一階は天守台上一杯に建ち、15間×13.5間と分かりました。
一階の広さでは熊本城(13×11間)・姫路城(13×10間)を凌ぎ、名古屋城(17×15間)に準じる規模です。
巨大な礎石は、この上に建つ天守がいかに壮大であったかを示しています。
また、礎石の配列から天守一階の部屋割りが推定できました。1.5間幅の入側(廊下)や2.5間幅の部屋など、半間という寸法設定が多用されているのが特徴です。これは、床の間や違い棚を配置した書院造であった影響と考えられます。
信長の安土城、秀吉の大坂城までは、天守の内部は書院造でした。しかしそれ以降の多くの天守は、櫓が巨大化したような内部構造となり、実際に倉庫として使われるようになります。そんな中で、佐賀城は正統派の書院造の天守と位置づけられるそうです。