「安土城に火を放ったのは誰か? ④」

2013-10-28 23:16:52 | うんちく・小ネタ

さて、前回は信長が安土城の留守居を任せていた武士たちの話をしました。
信長の側室や子供たちを避難させた後、木村重高が率いるわずかな人数が、最後まで安土城に留まります。
彼らは、安土城を無傷で明智勢に明け渡すことが、亡き信長の名誉を守る最善の方法だと考えたのでした。

ところで、実はここに、「安土城放火の真犯人」を考える大きなヒントがあります。


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見えてきた! 安土城放火の真犯人



明智勢に明け渡すまで、木村重高らが安土城に留まった理由は何でしょうか。
それは、暴徒の略奪から安土城を守るためです。

この時代は、戦国の荒々しい気風の真っ只中です。
「本能寺の変」で信長が死去し、続いて安土城から留守居衆の軍勢が総員退去となれば、安土はまさに無政府状態。
そうなれば、この時とばかりに土民の一揆、あるいは盗賊・野武士といったアウトローな勢力が跋扈し、破壊と略奪をほしいままに行います。
こうした手合いに安土城が蹂躙されたならば、亡き信長の名誉を大きく損ねることになってしまいます。
木村重高らにとって、暴徒はある意味、明智勢以上に警戒すべき相手だったとも言えます。

現にこの時、安土城下のセミナリヨ(キリスト教の神学校)は、暴徒たちの激しい略奪に遭い、柱と屋根を残して無残な姿になったと史料に記されています。
兵力はわずかでしたが、木村重高らの守備によって安土城だけは守り抜かれました。


かくして6月5日。
明智勢が安土に到達。
木村重高は、安土城を明智光秀に明け渡しました。

光秀にとって、安土城を手中に収めるということには、重大な意味がありました。
安土城に入城してこそ、自らが信長に取って代わる新政権だということを世間に示せるのです。

しかし光秀は、政略・戦略の中心地はあくまで京都と考えました。
そこで、安土城に長く留まることはせず、8日になると重臣の明智秀満に守備を任せ、自身は坂本城経由で京都に戻ります。

そして13日、山崎合戦。
光秀は、羽柴秀吉に敗れ、退却中に落武者狩りに遭って死亡します。

その日の深夜、安土城の秀満のもとに山崎合戦の敗報が届きます。
もはや、安土城を占拠している意味は無くなりました。
秀満に残された使命は、明智家の本拠地・坂本城に戻り、華々しく戦って、明智一族の最期を飾るということでした。

14日未明、秀満は安土城から全軍を率いて、坂本城を目指して退却してゆきました。



ここに、安土城は無人の城となってしまいました。
そして6月15日、安土城は謎の出火によって、天主をはじめ本丸・二の丸が焼失してしまいます。

この日の状況を示す確かな史料はありません。
しかし、先にセミナリヨで激しい略奪行為が行われたという状況証拠からすると、今度は無人になった安土城内に暴徒が押し寄せ、その狂乱の中で放火が行われたという推定が最も妥当なように思われます。





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「安土城に火を放ったのは誰か? ③」

2013-10-21 23:26:58 | うんちく・小ネタ



「お城に火を放つ」という行為が意味するところは?




さて、「安土城に火を放ったのは誰か?」をテーマにした話もこれで3回目です。

前回までに、
明智秀満は、安土城が炎上した時には、全軍を率いて坂本城に帰っていたからシロ。

織田信雄放火説も、典拠となっているフロイスの報告書が、このあたりの記述については極めて信憑性が低い。
信雄は、何かと問題がある人物だけど、安土城放火容疑についてはシロ。

と考えてみました。

通説で語られていた2大容疑者が、どちらもシロになってしまいました。
これじゃ、もうすっかり迷宮入りですね。

・・・・・と、諦めてしまう前に、

ここで少し視点を変えて、安土城炎上について考えてみましょう。


そもそも
「お城に火を放つ」
という行為は、何を意味するのでしょうか?

それについて、『信長公記』に興味深い記述があります。
「本能寺の変」の翌日、安土城内でこんな問答が交わされていました。


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問答! 安土城を焼く VS 焼かない


「本能寺の変」で信長・信忠父子が自害したという知らせは、変の当日、6月2日・巳の刻(午前10時頃)に安土に伝わりました。
安土はパニック状態になり、信長家臣団の中には、屋敷を棄てて美濃や尾張へ逃れてゆく者まで出るほどでした。

そんな中、安土城の留守居を務めていた蒲生賢秀(がもう かたひで)は沈着冷静でした。
賢秀は、安土城に居た信長の側室や子供たちを、自らの居城・日野音羽城へ避難させると決めました。

そして翌3日・未の刻(午後2時頃)。
人足や牛馬の準備を整えた賢秀は、信長の側室たちへ避難を促します。


その時、信長の側室たちは、賢秀に次のように言いました。


とても安土打ち捨て、のかせられ候間、
御天主にこれある金銀・太刀・刀を取り、
火を懸け、罷り退き候へ


(意訳)

安土城を捨てて撤退するからには、
天主にある金銀・太刀・刀を持ち出して、
それから火をかけて立ち退くようにしてください。




これに対し、賢秀は次のように答えました。


信長公、年来、御心を尽され、金銀をちりばめ、天下無双の御屋形作り、
蒲生覚悟として、焼き払ひ、空く赤土となすべき事、冥加なき次第なり。
其の上、金銀・御名物乱取り致すべき事、都鄙の嘲弄、如何が候なり


(意訳)
信長公が、年来お心を尽して、金銀をちりばめて、天下無双の居城を作られたのに、
私ひとりの考えによって焼き払い、空しく焦土としてしまうのは、恐れ多いことであります。
その上さらに、金銀・名物の品々を取り散らかして行ったとあれば、世間のあざけりもいかがなものでしょうか。




双方、正反対の意見を述べています。
しかし、どちらの考えも、
「信長公の名誉を守るためには、安土城をいかにすべきか」
というところに根を発しています。

側室たちは、
「信長公の安土城を守りきれずに退去するなら、せめて敵に蹂躙させないようにしましょう。
信長公の宝物のうち、持ち出せるものは持ち出して、あとは焼き払いましょう。」

という意見。

一方、賢秀は、
「信長公が心を尽して築いた安土城を焼き払うことはできません。
また、あわてて宝物を持ち出す行為も、信長公の名誉を損ねるものです。
安土城は堂々と、無傷で敵に明け渡しましょう」

という意見。

当時の武士や女性たちが、自らの主君の城をどのように思っていたかが伝わってくるエピソードです。
こうした問答の末、賢秀の意見が採られました。

信長の側室や子供たちが退去した安土城は、木村高重が手勢を率いて警備。
天主に蓄えられていた金銀も、そのまま残されました。
そして2日後の6月5日、安土城は、進軍してきた明智光秀の軍勢に無傷で明け渡されました。


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ひっそりと伝わる、安土城の最後の武士たちの伝承


木村高重ら、最後まで安土城に留まっていた武士たちは、城を無傷で明智勢に明け渡すという大任を果たしました。
その後、彼らがどこへ去ったかは定かではありません。
高重は、安土城の百々橋口で明智勢と戦い、戦死したとも伝えられています。
しかし、明け渡しの後に戦闘があったというのも疑問です。



平成17年(2005)10月、私が蒲生郡一帯の城館跡を踏査していた時のことです。
安土城跡の百々橋口から南西へ1.5キロメートルほど離れた浅小井集落の近くで、田んぼの中にこんもりとした森があるのが目にとまりました。


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直感的に、何か歴史のある場所かと思い、森の中へ入ってみましたが、「今宮大明神 天満宮 御旅所」と刻んだ石碑が建つのみでした。


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森から出たところで、散歩で通りがかったおじいさんから、意外なお話を聞くことができました。
この森は、「本能寺の変後、安土城から落ち延びてきた武士たちが自刃した地」と、この地域で伝えられているそうです。
森の中には、その説明板も建っていると聞いて、再び分け入ってみましたが、朽ちてしまったのか確認することができませんでした。
この伝承が、史実を伝えるものだとすれば、この森で自刃したのは、木村高重の配下で最後まで安土城を守りづづけた武士たちだったのでしょう。


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(左が武士たちが自刃したと伝わる森。正面奥の山が安土城址)




「安土城に火を放ったのは誰か? ②」

2013-10-15 00:58:31 | うんちく・小ネタ
愚かな息子が、父の名城に火をつけた!?



さて、もう1人の「疑惑の人」。
それは、織田信長の次男・織田信雄です。

当時、来日していたポルトガル人宣教師・ルイス・フロイスは、「本能寺の変」に関する詳細な報告書を作成し、イエズス会総長宛に提出しています。

その中で、
「信雄が安土城に放火した」
と断言しています。

「ちょっと待ってよ。何で信長の息子が安土城に放火するわけ?」
と、不審に思われる方も多いかもしれませんね。
ちなみに、日本側の史料には、信雄が安土城に放火したという記述は一切存在しません。


では、フロイスの報告書(日本語訳)の原文を見て、その信憑性を考えてみましょう。


「デウスは、信長があれほど自慢していた建物の思い出を残さぬため、敵が許したその豪華な建物がそのまま建っていることを許し給わず、その明らかなお知恵により、付近にいた信長の子、御本所(信雄)は普通より知恵が劣っていたので、何らの理由も無く、(信雄に)邸と城を焼き払うよう命ずることを嘉(よみ)し給うた。上部がすべて炎に包まれると、彼は市にも放火したので、その大部分は焼失してしまった・・・」


要するに、ここでフロイスさんは、
「信長はデウスの意思によってこの世から消滅した。
そして、デウスは信長のシンボル・安土城が残ることも許されず、愚かな息子・信雄に焼き払わせた」
と述べているのです。

このくだりを見る限りでは、ずいぶんとキリスト教の宣教師さんらしい主観で脚色された話だなァ・・・ といった感じがします。
そもそもフロイスは、「本能寺の変」が起こった時、京都から遠く離れた肥前口ノ津(長崎県・島原半島の南端)に居たのです。


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イエズス会が本当に知りたかったことは?



当時、イエズス会は、「本能寺の変」を非常に深刻に受け止めていました。
信長は、イエズス会の布教活動を禁止することも無く、むしろ公認していたのです。
その信長の死は、場合によっては今後の日本での布教活動に、重大な支障をきたす恐れもありました。
そこで、イエズス会は、「本能寺の変」の詳細を知り、今後の日本の政局の行方を探ろうとしたようです

「本能寺の変」に関する情報は、京都の南蛮寺(キリスト教の布教所)の司祭であったフランシスコ・カリオンが収集しました。
そして、その情報が肥前口ノ津のフロイスに送られ、報告書としてまとめられ、イエズス会総長宛に提出されました。

カリオンが居た南蛮寺は、本能寺の至近距離にあったため、自らの見聞や市中の噂など、かなり詳細な情報を集めることができたようです。
実際、フロイスの報告書には、日本側の史料と照らし合わせてみて、よく一致するものや、さらに詳しい状況を知ることができる情報も多く含まれています。



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同僚から、「虚言癖あり!」と言われたフロイスさん


その一方で、フロイスの報告書には、当時の日本の状況を考えると、全く信用できないような話も多く含まれています。
これは、カリオンが京都から送ってきた情報をフロイスが報告書に仕上げる際に、かなり自分の主観を交えて筆を走らせてしまった結果と考えられます。
報告書は、そうした「全く信用できないような話」を交えることによって、「本能寺の変」は、傲慢な信長に天罰が下ったものだというストーリーを作っています。

ちなみに、当時フロイスの同僚だった宣教師の一人は、フロイスのことを「虚言癖がある」と批判しています。



ためしに、「信用できない話」の実例を挙げてみます。


「信長は、自らが不滅の神として、万人から礼拝されることを望んだ。
その神(信長自身)を祀る総見寺を安土城内に建立した。
そして、自らの誕生日を聖日として、人々に参詣を命じた」



と、フロイスは述べているのですが、これは全くおかしな話です。

そもそも、こうした考えは当時の日本人の宗教観には全く合致していないし、誕生日という概念も日本にはありませんでした。
また、仮にこんな命令を信長が出したとすれば、必ず何らかの記録に残るはずです。
京の公家・神官、奈良の僧侶、堺の豪商・・・、当時、信長の動向は、武家以外のさまざまな人々にも日記などに記録されています。
誰も書いていないのは、フロイスひとりが遠い九州で創作した話だからと見てよいでしょう。


そしてフロイスは、信長の最期について、

「本能寺の業火の中で、信長はデウスのご意思により、髪の毛ひとすじも残ることなくこの世から消えてしまった。」

と記しています。


こうした文脈の延長線上にあるのが、「信長はデウスの意思によってこの世から消滅した。そして、デウスは信長のシンボル・安土城が残ることも許されず、愚かな息子・信雄に焼き払わせた」という記述なのです。

織田信雄が安土城に放火したという説は、史料の信憑性がきわめて低いと言ってよいでしょう。



 
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 日ごろの行いがよろしくないので、疑惑の人になってしまった信雄さん



フロイスの報告書が日本人の目に触れたのは、もちろん近代になってからです。
つまり、信雄が安土城に放火したとする説は、日本で唱えられるようになって比較的歴史が浅いといえます。

しかし、研究者をはじめ小説家に至るまで、「信雄こそが安土城に放火した犯人だ」と考えている人は結構居るようです。

それは信雄自身が、いろいろ問題がある人物だったからです。

本能寺の変の3年前、信雄は信長に無断で伊賀国に攻め込み、大敗して大勢の武将を戦死させます。

また、本能寺の変の2年後、信雄は秀吉の台頭に危機感を持ち、家康に泣き付いてともに挙兵してもらいます。
こうして小牧・長久手合戦が起こりましたが、その後、信雄はあろうことか勝手に秀吉と和睦してしまいます。
家康に泣き付いて、一緒に戦ってもらったことなど、どこ吹く風といった感じです。

信雄のこうした愚かな振る舞いの数々が、フロイスの報告書の
「愚かな息子・信雄が安土城を焼き払った」
という記述に信憑性ありと判断させるのに一役も二役も買ってしまっているのです。


<蛇足>

人間、日ごろの行いが大切だという教訓でしょうか?




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